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 ジャンル横断レビュー

光枝 初郎  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆ルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』 (上・下巻ともに生田耕作訳、中央公論新社、二〇〇三)

 

 セリーヌの処女作にして大作のレビューを書くのはおこがましい気持ちになる。それでもセリーヌの破格的な叙述にのめりこむ体験を持ってから、彼について語られずにはいられなくなる……。

 セリーヌの作品を文学として評論することはもちろん重要だろうが、そんなことは専門家に任せてやっておけばいいことで、僕たちはそもそも彼のこの処女作についてあれこれ言う暇があったら、さっさと読めばいいのだ。そして打ちのめされてしまえばよい。

 僕はこの作品を文庫を買って読んだが、セリーヌの諸作品は国書刊行会 から出版されている「セリーヌの作品」と銘うった素晴らしい装丁の書物で読むことができる。そもそも僕はこの国書刊行会版のゴチック的な書物に惹かれて、セリーヌの作品に興味を持った。

 

これは生から死への旅だ。ひとも、けものも、街も、自然も一切が想像のものだ。……(中略)それに第一、これはだれにだってできることだ。目を閉じさえすればいい。すると人生の向こう側だ。           ――序文より

 

 『夜の果てへの旅』は、とにかくだらだらしている。小説内での「……」という表記が多いのもそれへの印象に一役買っている。そしてそのだらだらさに、幾つもできた口内炎による痛みの感覚がつねに意識させられるような苦悩と苛立ちと、情緒不安定で波のある心情と、この世で生きることへのやるせない失望感とがまとわりついてくる。素晴らしいのはこの俗語と隠語とウィットの効いた表現とがごちゃ混ぜになって出てくる、恐ろしいまでの〈文体〉である。なんだこの小説は、卑猥で、だらしないな、と初めのほうで断定されるかもしれない。でも読者はだんだん気づく。セリーヌがあちこちに散りばめた俗語と知的表現の混合体である〈文体〉が、彼の極めて大胆不敵で不遜で勇ましくも孤独であるような、非常に独特の歩み=叙述をつくりあげていることに。

 セリーヌのプロフィールもまた実にスキャンダラスで、解説などを読んでいても面白い。生きながら文学を体現する作家は例えば僕の好きなところでいえば、ヘンリー・ミラーがいる。ミラーの作品はもっと生きる喜びだとか繊細な感情だとかに溢れているが、セリーヌは勇ましくかつ不穏なのである。こんな作家を他に見たことがない。僕の読書体験が浅いせいなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆松本卓也『人はみな妄想する』 (青土社、二〇一五)

 

 まず、日本にいる一般の思想読者に与えられている状況として、ラカンの著作ならびにその難解すぎる理論といわれるものの理解については、非常に苦しいものがあった。というか、まず僕がラカンのどうしようもない苦手意識を持っていた。ラカン理論をめぐって、ドゥルーズは『意味の論理学』以降その批判や若しくは引用として恐ろしいほど記述している。なのにもうとにかくよく分からない。デリダもそう。最近でいうと、スラヴォイ・ジジェクなんかもそうだ。しかしみな一様に、それぞれのラカン像ないしラカン理論を独自に展開していて、もはや原典どころではない。ラカン自身の著作は『エクリ』(日本語訳では全三巻)が唯一刊行されているのみで、しかもその日本語訳も評判が悪いらしい。もっとも重要な彼の講義録・セミネール本は、巻数がぽつぽつと日本語訳されてあるのが見つかるのみ……。こんな状況で、ラカンの理解については、難解で知られるドゥルーズやデリダよりも、日本では特に遅れていたように思われる。
 それが、二〇一五年の五月に出されたこの本で、状況は一変した。なんとラカンの膨大な理論変遷(そのライフワークはほぼ五、六十年に渡る)を一つの明晰な視点のもとからずらっと体系的に説明しきった、説明することに成功した日本の若い学者が現れたのだ。彼の名前は松本卓也。以前からずっと論文をばんばん雑誌や学会報告に出していて、単行本が長らく待ち望まれていた。僕はこのことを非常に嬉しく思う。というかラカンが本当にレヴェルの高い水準で理解できて、どれだけ感謝をしていいか分からない。
 本書では、「神経症と精神病の鑑別診断」という視点のもとから、ラカンの理論の変遷を(一九)五十年代のラカン・六十年代のラカン・七十年代のラカンの三つのテーブルを主軸として、その前段階としてまさかフロイト理論の概略(本書はフロイトについても明晰な概説を与えてくれる!)や、ラカンのデビュー論文における問題意識、そしてラカンの死別後のポスト・ラカン的言説の検討(ドゥルーズ=ガタリとデリダ)も入った、もうこれ以上のボリュームはないというほどの完全な構成を提示する。ラカンマニアとしての松本卓也の偉業としか言いようがない。
 最後に「鑑別診断」という言葉について説明しよう。松本の説明の通り、ラカンは、臨床の場にやってくる患者が、神経症的特徴を持つのか(この言い方は厳密には正しくない)精神病的特徴を持つのかで、臨床の方法を変えるということを非常に重要視していた。なぜならもし、精神病の特徴を持つ患者に神経症を想定した治療を施したりすると、かえって治療が危険な場合に至ることが往々あるからである。そのための二つの疾患的特徴を判別するための面接を「予備面接」というのだが、その予備面接=前提としての鑑別診断として、神経症と精神病を理論上ではどれほど区別していくのか、その振れ幅が各年代のラカン理論によって変わっていく、というのが本書の全体の結論の一つである。
 思想を愛する者にとって、必読書がまた一つ増えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆映画「海街diary」(監督:是枝裕和、原作:吉田秋生、二〇一五)

 

 まずストーリー面からひとつふたつ語っていこうと思う。まず、この作品の一番重要な人物である香田家の父親は一切出てこないのである。父親の(死による)不在がある。それが原作の、そして映画のはじまりである。映画に、回顧シーンが挟まれることは一度たりともない。いつでも、その時折々の「現在」が映し出される。そして、その登場人物の語らいの中においてのみ、父親は哀愁の種になったり忌まわしい存在になったりする。

 この父親の不在を廻る衛星のような記憶物語でもあるというのが、「海街diary」の第二の論点である。そして、海街diaryは何度も迫りくる過去や血の呪縛(それは積もる解き放たれがたい姉妹の過去や、不倫関係をよしとしない人々の口から、形を変えて変奏される)に対し、輝ける現在のささやかな栄光を表現しているとはいえないだろうか。現在は過去との、時に冗談めいて時に重すぎる対峙によってのみ、反復される。現在は更新されるのである。あるいは、更新される現在のみが「未来」と呼べるのだ。

 映像面について。香田家の四季折々を見事に表現する庭は美しい。今や古典的とさえ呼べそうなほどの、鎌倉での彼らの暮らしぶりは、旧世代には懐かしさを感じさせるのだろうが、若い私たちに何を伝えるだろうか。もちろん、庭は「家」についてくるものであって、そこには幸、佳乃、千佳、すずの四人と彼らの周りの人間関係を生々しく反映させることもある。しかし、幸が丁寧に手入れする庭の花々や、すずたちが仲睦まじく収穫する梅の木の、色や香りの佇まいは、そういったものを気持ちよく忘却させる。巧みに仕込まれた庭の変化は、季節が変わる毎にチェックすべき箇所である。

 すずがクラスメートの風太に誘われて、桜のトンネルを自転車で駆け抜けるシーン……おそらくもっとも清らかで、華やかで、感動的な場面である。何本もの桜から放たれる花弁がひらひらとすずの顔をつたって、彼らは風に桜に流されていく――重力から解き放たれて、時間の重みからも解き放たれて、すずは観客の私たちとともにほんのひと時の、しかし完成された永遠を体感する。そして、私たちには生きていくという課題が残されているのだ、すずたちのように、しなやかに呼吸をして歩いて行くという課題が。(了)

 

「海街diary」の画像のリンク先: https://www.youtube.com/watch?v=EGo36Q2jMfg 

 

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