黄桃缶詰
SINCE 2015
活動再開!2019年4月発表をめどに小特集「曖昧なる境界線」が決定!(1/28)
はる「ロジウラ」、misty「時間喰いのモービーディック」の原稿を掲載しました!(11/25)
しばしの間休載。(9/12)
「桃缶」#2
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桃缶2号 表紙:新嶋樹
特集
「身辺の昇華」
自由投稿
新連載
エッセイ
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特集に寄せて
だからといって、自分たちが生きている現実と小説とが全く無関係であるというわけではない。小説をまともに読んだことがあればその感覚はわかるはずだし、小説を書こうと思った人間、あるいは実際に小説を書いている人間が、自分の身の回りのものを参考にしていないなどということはあり得ない。文章に顕される過程で、書かれていたモデルが変化することは免れないが、その変化の仕方は自在に操ることができる。なぜなら言葉を使っているのは、他でもない自分たちだからである。
今回の特集は以上のことを考えていた挙げ句に、「ならば極端に物質的、現実的な題材をモデルに小説を書いてみるのはどうだろうか」と思いついて提案したものである。これは何も写実主義的になれだとか、私小説、ノンフィクション小説を書いてこいなどと団体員に申し渡すつもりのものではないということを先に断っておく。題材は身辺のものに限る、というのは小説が書かれる際のモデルの話であって、その書き方、言葉の使い方は、やはり人それぞれのものになるだろう。むしろそうでなくては面白くない。身辺が小説に昇華されることによって、どのような変化が生じるのかを観測することが、今回の個人的な目論見であり、同時に楽しみでもある。
(文責 峯崎澪一)
ここに何を書こうか散々迷ったのだが、とりあえず今自分が一番言いたいことだけ記しておこうと思う。著名な批評家たちが口を揃えて言っているように、自分たちが生きている「現実」と、小説中における「空想上の現実」(この言葉自体がある種の矛盾を孕んでいることは承知の上で、ここではあえてこれを使いたい)は、それぞれ異なる論理性、異なる認知世界の上に成り立っている。前者が主に物質に依存して存在しているのに対し、後者はただ言葉のみに依存しているのだから、考えてみれば当然のことだろう。自分たちの生きている現実も、言葉を介して小説に投影されてしまえば、それはもう実体を帯びなくなる。全く異なったものになってしまうのだ。小説を読む人間、あるいは書く人間にとって、これはもしかしたらとても恐ろしいことなのではないかと思う。「自分はこの物語に共感した」「自分は小説を通じて読者に感動を伝えたい」などという感情は、自分たちが直接的には関与できない虚構に対して向けられたもので、無理矢理その虚構に入り込もうとしても、目の前にあるのはただの文字列だけで、その文字列すら好き勝手なことを語っている。そしてそれに自分たちがひたすら騙されている、という構図しか、自分たちと小説との間には存在してない。とりあえずの確認のようになってしまったが、小説とはそういうものである。↘