黄桃缶詰
SINCE 2015
活動再開!2019年4月発表をめどに小特集「曖昧なる境界線」が決定!(1/28)
はる「ロジウラ」、misty「時間喰いのモービーディック」の原稿を掲載しました!(11/25)
しばしの間休載。(9/12)
明日の世界
常磐 誠
序
「人を殺してみたかった」
「人を殺す経験をしてみたかった」
似通った文字が複数の新聞に踊っているのを佐藤 大(まさる)はコーヒーを片手に眺めていた。
薄緑色をしたカーテンの間隙からねじ込まれる朝日を眩しく思う。このコーヒーが、愛する女性から注がれた物だったら、それはそれは至福な一杯になるのだろう。つまり現実は違う。そういうことだ。
いつだって現実は違う。望みは叶わない。思い描いていた通りになんてならない。
「私は、あなたの家政婦ではありません!」という書置き一枚残されてそのまま音信不通一直線な彼女。日帰りバスツアーに浮かれていたら居眠り運転のトラックにぶつけられて田んぼにちゃげてポックリ逝った両親。何か妙に周囲は優しかったが、いま一つ記憶が覚束ない。
「ま、こちら側なんてそんなもんだって。な?」
と気の良い先輩を自称する谷口さんはそんな風なことを言っていたっけなぁ、と佐藤は記憶の片隅から引き出してみた。黒髪を短く整えた清廉な、そう。あくまで清廉な出立ちを保ったまま、谷口さんはそう言った。何が『そんなもん』なのか。音信不通彼女のことか、ポックリ両親か。はたまた両方か? いま一つ理解できていない頭で腕時計を見てみれば、
「……うわ」
遅刻寸前の朝七時四十五分だった。コーヒーを一気に飲み干してそのぬるさに呆れ、それを洗う暇もなく、一種のタワーが出来上がってしまった食器類を見て辟易する。自分が慢性鼻炎でなければ、そろそろ異臭に耐えられなくなるかもしれない。実際には匂いを感じないという救いを感じて、そしてその直後には、んな訳ねーだろ、なんて心の中でツッコミを入れる。ポックリ両親の件から、既に一ヶ月が経った朝のことだった。
法務技官。別名を矯正心理専門職。彼は問題を起こしてしまった、詰まる所犯罪を犯してしまった少年に寄り添い、更生、社会復帰へと導く心理と正義のスペシャリストだ。
「人を殺してみたかった」彼が、今日の朝一の面談相手。別段、盛り上がる気持ちがあるとかではない。佐藤は遅刻が嫌だ、なんていう惰性的感情から鑑別所へと走り出した。
一
古谷 光。読み仮名は「こたに こう」。出会ってみて最初の感想は、予想通りだった。予想通りすぎて、面倒臭い。正直に言えば、そういう感想になる。
大抵の場合、非行少年の見てくれに関してはある程度の相関性がある。万引き、スリ、そういう感じの、あまりニュースや新聞で世間を騒がせる程でもない事件の容疑者として補導される少年は、髪の色が明るく染まり、眉がなかったり、変なところに穴を空けては金属でそれを埋めたりして華美に着飾る子が多い。『気付いてくれ』のサインだったりもするからだ。
一方で、こうした殺人という重大事件の被疑者として補導される少年は、そういった見た目のサインが見当たらない。周囲では、いい子、もしくは、フツウの子。評価はそういう風に大抵定まっている。光の見てくれに関しては、あるあるというレベルの範疇を一切逸脱しない、精々、肉付きの良い体格や、温和そうな笑顔が印象的。そんな少年だった。
「こんにちは」
「こんにちは」
朗らかな笑顔は、ほんの少しだけの幼さのようなものを佐藤に感じさせる。その後、簡単な自己紹介に、これからの流れについて説明を行ったのち、早速最初の質問に入る。
「光君は姿勢もしっかりしているし、昨日の検査でもこれまで見たことないくらいの高得点を叩き出してるんだよね。実はすごく真面目なんだろうなって思ったんだけど……」
「フリですよ」
「ん?」
佐藤が出し抜けに答えた光の言葉を再度聞こうとすると、
「真面目ぶっているんです。こんなの、キャラですよ。キャラ」
自嘲するようにして光は答えた。
「五人も人を殺しておいて、真面目なんて、ちゃんちゃらおかしいでしょ」
と呟くと、顔を下に向けて腕を組み、黙りこくってしまう。この五人という犠牲者の数は資料と異なるが、それを佐藤はスルーして問いかける。
「へーぇ。じゃあ普段は違う性格なの?」
と尋ねてみても、
「さぁ、わかんないや」
と不機嫌そうな顔をしたまま言うばかりだ。
「じゃあ、どうして人を、クラスの人を殺したの?」
「人を殺す体験がしたかったんですよ。誰でも良かった。何なら、あと一人殺したかった」
平然と、ニヤニヤした顔を作り、彼は答えた。
「嘘だよね」
「いいえ。本当のことですよ。本当のことだって信じたくないかもしれませんけど、十七歳って人殺しくらい簡単にこなすんですよ」
「嘘だよね」
佐藤は、不思議と目の前の少年がそういう風なことを事実として打ち明ける人間ではないと感じた。不機嫌そうな顔をしていたのに、この質問にだけは、嬉々とした顔で答える不自然さだ。嫌でもわかる。
しばらく黙っていた光だったが、やがて観念したかのように笑うと、肩をすくめてこう言った。
「やっぱわかります?」
佐藤は続ける。
「わかるよ。光君は嘘が下手だもの」
「あーやっぱり。ちっちゃい頃からよく言われてきました」
「だったら何故?」
「人を殺す体験をしてみたかったからって言ってるのに」
「そっちじゃないよ。しかもそれさっき嘘って認めたばっかりじゃんか」
資料には、事前の検査で判明していることが書かれてある。彼は、高校入学後精神科への通院歴がある。また、生まれつき発達障害である『広汎性発達障害』を持っている。
見た目のあどけなさは体型から生まれるものというよりは、こうした歴の方にその原因の一端があるのだろう。光は、しばらく黙っていたが、また口を開いてくれた。
「佐藤さん頭いい人だし、自分で考えてみてください」
笑顔で放たれる、まるで遊び相手への挑発に似た声に、少しばかりの困惑を込め、
「そういう問題じゃないだろ? 一体ここをどこだと思っているのさ」
「けどもう疲れちゃいました。だから、そういう問題ってことにしといてくださいな」
彼の思考が、集中が長くは保たないことを、佐藤は理解していたが、これほどまで、か。そんな風にして終わる初日。資料を書き進めながら、
「全く骨の折れる……」
そんな愚痴をポツリと漏らしていた。
二
佐藤がテレビで見たニュースでは連日どのチャンネルでも光のことを扱っていた。センセーショナルな少年事件ではよくあることで、佐藤は辟易した気持ちのまま眺めていた。
またこんなに扱って、似たり寄ったりの報道内容……。こんなので彼の何がわかるっていうんだ。そんな気持ちのまま苛立ち、聞き流す報道の音声の中に、オヤジの怒鳴り声が混じっていて、佐藤ははっとし、また目をテレビに向ける。
「あの子はそんな子じゃねぇ! 俺が誓ってやる! あいつは犯人なんかじゃ、そんなことを平然とやる奴じゃねえんだよ! オイ!」
明らかに取り乱し、カメラマンやインタビュアーに掴みかからんとする勢いで怒鳴り散らす、首から下しか移っていない男性の映像は、すぐに切り替わり、今度は打って変わって押さえ気味の女性に切り替わる。相も変わらず首から上はテレビに映らないが、
「あの子は……報道されているような危ない子なんかじゃないんですよ……。私はもうあの子もお母様も気の毒で気の毒で……」
「あの子が犯人だなんて、本気で信じられないんです。何かの間違いなんじゃないかって、うちの子も、本当にあの子にはお世話になっていて、懐いていましたし……」
光のことを庇い立てするような、容疑者として補導されたことを一様に疑うような意見ばかりが出てきていて、報道の内容も戸惑いの感情を表に出さぬようある種懸命に言葉を選び少年を責める方向に話を持っていっているようだった。例えば、こんな話だ。
「少年は理科実験室に簡易的な爆弾を仕掛け、その爆発に掃除をしていた少年のクラスメート四人が巻き込まれ、二人が死亡。一人が火傷を負い重傷を負った。唯一この爆発に巻き込まれた女子生徒は軽傷で済んだが、その日の夜にアパートの屋上から自殺を装い転落死させられた。更に翌日早朝にはクラスの担任に薬品をかけて殺害。わずか二日で合計四人もの命を奪った。
また、女子生徒と担任の殺害にあたり、アリバイ工作に用いられたトリックは、つい先月放映されたドラマや、その他いくつかの推理小説を参考としていることが、取材によって明らかになっている。
本人はゲームやアニメに非常に造詣が深いにも関わらず、今回事件を起こすにあたりその分野を一切参考にしない等、その狡猾さが伺える」
「容疑者の少年は殺害した人数を五人と話しているが、遺体も発見されず、その詳細について本人が明確に答えないことから、警察当局は、少年が何らかの意思、目的を持って明らかに誤った情報を供述している、と見ている」
更に別チャンネルでは、彼の小、中学の卒業アルバムが晒されていた。
「地域住民から慕われていた少年が、どうして四人もの命を奪う凶行に走ったというのか。その心の闇を明らかにするために、我々は彼の出身校の卒業アルバムを手に入れた。そこにはこのような記述があった……。
『ぼくは、しょう来、お母さんや周りの人達に優しくできる人になりたいです』
『大切な人、好きな人と一緒に、良い家庭を築ける大人になりたい』
高校の生徒は取材陣に沈黙を守っているが、非常にショックを受けた様子で沈痛な表情をしている……。芝原校長は、
『どのようにしてこのような事件が発生してしまったのか、警察の取り調べに協力しながら真相解明にあたりたい』
というコメントを残している……」
卒業アルバムを晒す報道は以前からよく見る手法だ。こんなものに何の意味があるのだろう。卒業アルバムの記述など、過去の一点を記したものに過ぎず、今の光を現したりはしない。
一昔前の報道では、少年犯罪の容疑者を写真で紹介することも叶わなかった。それは今でも変わりはしないが、今はネットがある。前に軽く検索をかけただけで、あっという間に彼の顔写真を見つけることができてしまった。
ちなみに一人だけ生き残った少年について。これまた勿論報道されない。資料には名前があり、……そう、栗原 洋(よう)という名前だった。彼は、事件に関して何も喋らないそうだ。精神的ショック、と資料では一言だけで片付けられていた。
改めてこの事件で検索をかけると、予測変換に名前が出てきて、それを入力すると、
「……お?」
地域住民・清掃・国籍。今までに見受けられない予測変換の数々が目に付いた。佐藤がそれを調べてみると、二枚の写真があった。
その写真は同じ場所。光の住んでいた自宅の外壁やこぢんまりとした庭が写っていた。一枚は、『人殺し』『出て行け○○人』『キチは死ね』……カラースプレーで書かれたのであろうイタズラ書き、というにはあまりにも酷いものであるが、や、散乱したゴミに溢れていた。あまりに酷い有様に、絶句した佐藤であったが、二枚目の写真では、それらが綺麗に撤去され、スプレーも上からペンキの上塗りで潰されており、美しさを取り戻していた。
それはどうやら、光の母親だけでなく、彼の家の周囲に住む地域住民達の手助けによるものなのだということが、撮影、投稿されていた。
三
「やっぱり僕の卒アルとかって報道されてるのかな?」
光が佐藤と面談を開始してすぐに発した質問に、佐藤は正直に答える。すると頭を抱えた光は、
「うわ恥ずかしい〜。もうやだー」
と一頻り恥ずかしがりながらも、すぐに姿勢を元に戻して、
「……当然のことですね。興味があるのか、責めたいのか、それは知りませんけど、当然のことです」
そう佐藤を見据えて口にした。調子はどうだいと尋ねれば、ここでもらえる薬は僕によく合うようです。税金の無駄遣いご苦労様ですって、言ってやりたい気分です。そう答えた。柔和ないつも通りの笑みを浮かべる顔からは、一種の諦めのような思いも読みとれるように佐藤には感じられた。
「自分が悪いことをした、とはやっぱり思っているのかい」
人を殺してみたかった、という発言。何ならあと一人、という言葉からも、彼の良心というものが、一般と比べても薄いことが考えられる、といえば考えられる。もちろん、その発言は嘘偽りにまみれているのだから、本当は良心の呵責に己を責めていることだって考えられる。そう思った佐藤は、率直な質問をぶつけた。
「法的には誰がどう見ても悪いことをしたよね。それは理解できてますよ」
彼は、やはり自覚しているように準備できている質問には即答する。それも、淀みなく。
「違うよ。法律とかそういう細かいことは脇に置いて、君は八人もの命を奪った。彼ら、彼女らに対して悪いことを……」
「ないよ。一切ない」
出し抜けに答えを言い切る光に、佐藤は、やはり準備できていたか、という思い、そして人を殺したかったという発言に潜む矛盾を思う気持ちが強くなってきて、聞いた。
「人を殺すことは、一般的には悪いことになっているし、それは君も十分理解できていると思う。でも、何で君は悪いことをした、と一切思わずに彼らを殺せたんだい?」
「どうして人を殺せたか……、そもそも、どうして人を殺しちゃいけないんだろう? みたいな?」
質問の解釈を自分なりにまとめて光が問いかける。どちらでも良いよ。教えてほしい。佐藤が聞くと、
「…………」
光はまた、黙り込む。黙秘ではなく、考え中。佐藤は、手元の資料への書き込みを行いながら彼の考えがまとまるのを待つ。
「何で人を殺しちゃいけんのかはわからんばってん、自分が苦しい思いばするけんね〜。やっぱ人殺しはいかんばい」
おちゃらけた答えを佐藤は手元の資料へは書き込まなかった。
「引用じゃない。僕が聞きたいのは引用じゃないんだよ。君の言葉で、君が思う人を殺しちゃいけない理由を、答えてほしい」
怒りはない。八人もの人間を顔色一つ変えず殺害できる少年は、どうしてあんなにも地域住民から慕われるのか。地域の集落ごと批判されることをも恐れず、というより本当に批判されているというのに、それも厭わず立ち向かう。それだけのことを周りにさせる子なのだ。
これは、佐藤の勘に過ぎないのだが、でも確かに感じること。この子は、それくらいのこと、もうわかっている。
「ほんとにね」
ぼそりと、つぶやく。寂しそうに光は笑った。佐藤は黙ったまま顔を向け、続きを促す。
「嘘とか引用とか気付いても、黙って騙されててくださいよ」
「ムリな注文だよ」
「そりゃそうですよね」
「そりゃそうだよ」
「あはははは」
「はっはっは」
いつの間に、佐藤と光、二人ともが笑い出していた。
「…………」
光は、それ以降口を開かなくなってしまった。元々長考や集中の維持に難がある体質だ。笑うことでさえも、体力を削ってしまったのだろう。佐藤は、今度は自分の方から話題を出した。
「卒アルもそうなんだけど、君の家の周り。皆君のことを信じているみたいだね。テレビの報道を見る限りでは、皆良い人達だなって思った。少なくとも、そういう話を僕は見たことがないな」
「…………」
光はやっぱり何も喋らなかった。このまま今日の面談は終わりの時を迎えてしまうだろうか。そんな時だった。
「恩を、ね」
小さく呟く。あ、ゴメン。ちょっとよく聞こえなかった。と佐藤が言うと、やはり小さい声ではあったが、
「恩を色々売っといたんですよ。皆ものの見事にコロッと騙されてくれちゃって。チョロい連中ですよ全く」
そう自嘲するように答えてくれた。勿論彼は嘘が下手だ。それを佐藤は見逃さなかったし、
「ありがたい、ことですね」
そういう真実を述べる正直さは、この子の魅力だとも、思えていた。
四
「俺、一体何やってんだろうなぁ?」
佐藤が足を踏み入れてしまった場所は、光の家。いや、その場そのものではない。休みの日に偶々近所に行く用事があったものだから、ふらりと足が向いてしまったのだ。それが行けなかった。
「おいテメェ! お前だお前! そこのヒョロいチェックシャツ!」
というがなり声に驚いて、佐藤は手に持っていたペットボトルを取りこぼす。蓋の閉まりが緩かったか、中身のミネラルウォーターがこぼれてしまう。
「見ねえ顔だが、ここんとこ報道陣が落ち着いてきたと思ったら今度は生放送がなんだとかナンチャラバーとか、訳わっかんねぇのが湧きやがってよ。てめぇもそういうんじゃねぇだろうな? おい!」
襟を掴まれ振りかけられる言葉の余りの剣幕にドン引く佐藤であったが、どうにか首を横に振り自分がその類でないことを伝える。そうしている内に、一人の中年女性が、そそくさと、隠れるようにして家へ入っていく。(あぁ、多分彼女が……)光の、母親だろう。誰が書いたかはわからないが、家の外壁が以前ネットで見た色とはまた違う色で塗りつぶされていて、挙げ句その上に乱雑な文字や、性的なメッセージを伝える下品なイラストもどきが踊っていた。よく見れば、自分を鷲掴みにして怒鳴り散らしていた老爺は、足下にペンキを置いている。
「こんなとこに興味本位で来てんじゃねぇぞ! とっとと帰れ青二才が」
口汚く罵る老爺がペンキを手に持ち歩き出すのを、
「あ、ちょっと待ってください!」
佐藤は呼び止める。振り返る老爺のギンギンした凄みある細い目にたじろぐが、
「あの……手伝わせて、ください」
どうせ来週頭には上長と共に家へ訪問し、報告する業務がある。青二才と呼ばれたことが心外でなかった訳でもない。バレたらそれなりに大変な事態ではあるのだがもう遅いのだ。もうここまで来てしまったら仕方ない。
冒頭の気持ちを振り払い、佐藤はまず投げ入れられたゴミの撤去から作業を始めた。
既に庭には数人の男女がゴミ袋を片手に清掃を始めていた。
「こんにちは」
「…………」「…………」
余所者の挨拶に返事をする者も居はしないが、それは佐藤としても百も承知。気にせず、無表情のままゴミ拾いを続けた。
先ほどの老爺をはじめとした男性陣が、家の壁を塗り染めていく。お互いに無言で、時間ばかりが過ぎる。結果が伴わない訳ではない。ゴミはほとんど片付き、壁の落書きも、消えた。……ただ、これを何度繰り返せば、事態は落ち着くのだろう。佐藤は、徒労にも思える作業の繰り返しの中で疲弊の色が地域の人々に出てきているのを感じていた。
「……みなさん、いつもありがとうございます」
憔悴しきり、痩せ衰え、こけた頬の女性がお茶と、簡単なお菓子を盆に乗せ運び来た。
「あ! ありがとうございます〜」
と佐藤はわざとらしく声をやや張り上げるようにして飛びついていく。疲弊した中、空元気でも声を出さなければいけないという、半ば義務的な思いではあったが、当事者のみでなく、やはり周囲の人間全てを巻き込んで潰れていくのだな、と思わずにいられなかった。
「おめぇ見た目より食い意地張ってんだな」
という老爺の嗄れた声と、
「あら、そしたら古谷さん、お菓子追加しないといけませんわね」
という中年女性の笑い声に、ほんの少しではあるけれども、活気が戻ったような空気が流れた。お菓子とお茶を頂きながら、皆が新入りの佐藤に対して話を始める。
「光君はね。……あの子は頭も良いし、優しいし、人を、それも八人も……そんなことできる子なんかじゃないんです」
「あぁ。あの子はそんな酷い奴じゃない」
一人が話すと、どんどん輪をかけてまた別の誰かが語り出す。
(まるで、逆に彼が殺されてしまったかのようだ……)
その異様とも思える雰囲気に、佐藤は軽く呑まれるような思いがした。
「悪いのは、光君じゃない。……あの八人が、あの八人の方こそが……」
比較的若い、自分とあまり変わらないように見える男性が呟くと、
「あなた!」
と、奥さんと思しき女性が男性の肩を掴んで窘める。あぁ、悪い……と言うと男性は輪から離れてたばこを一本口に含み、火をつける。
「…………」
紫煙を吐く背中や横顔には、どうにもやりきれない思いを感じずにいられなかった。
「私とあの人が結婚できるようになったきっかけって、光君だったんです」
先ほどの女性が佐藤の耳元で小さく呟いた。あの人が越してきたばかりの私に一目惚れをして、それを知った当時小学生の光は、まさかその相手が私だとは知らずに私ごと巻き込んで作戦会議を始め、一緒にデートコースや告白のプランまでも決めて、半分自棄になった彼がその通りに実行して交際を始めたこと。そして結婚するに至りたくさんの人達に祝福されたこと。その一つひとつを、愛おしそうに、楽しそうに話す女性の声を受け、別の中年女性が話す。
「うちは共働きでね。ちびの面倒見るのが結構大変でね。中学からあの子にはお世話になってるんだよ。ずっと面倒見てもらっててね。『将来はあんなお兄さんになるんだ』ってんで、でね……」
中年女性はそこまで笑顔で言うと、不意に言葉を詰まらせる。
「あの子が家に帰れなくなっちまってね。うちのちびに、お兄ちゃんは? お兄ちゃんは? って聞かれるの、結構苦しいんだよ。何て言ってやったらいいのか、わからなくてねぇ……」
レース模様の入ったハンカチを握りしめ、たいそうな無念の感情を込める女性を前に、佐藤は何も言えなかった。それだけではない。先ほどの夫婦は光にプロポーズの作戦も立ててもらっていた。今度は奥さんの方から。やれ、夫婦間を取り持ってもらっていたとか、やれ、衰退気味でこれ以上継続は難しいと思われていた町おこしの祭復活の手助けをしたとか。
彼は十七歳にして、この町と、人々に多大な貢献を果たしていたのだ。誰かが言った。これは、恩返しですよ。……まさしくだ、と佐藤は思った。彼は、罪を犯した。多大な罪だ。でも、彼は悪人であるのだろうか。『人を殺してみたかった』などと軽率に、平然と発することのできる異常者だろうか。
違うという確信を持つと同時に、その理由の見えてこなさに少しだけの苛立ちを抱えたまま、佐藤は中座を申し出る。
「あ、ちょっとだけ話がしたいんですけど……」
と最初の男性から話しかけられて、佐藤と一緒に門扉から外へ出る。そこから聞いた話に、佐藤は驚きを禁じ得なかった。それはある種の衝撃と自省の念を、佐藤に抱かせるに十分な『情報』だった。
五
日曜の朝。テレビはアニメの時間だ。勇ましいオープニングテーマと共に『仮面ニンジャー』のタイトルロゴが大きく写る。そもそも忍者なのにまた更に仮面とはどういうことなのだろう、というツッコミ所を感じざるを得なかったが、光は地域の子供達とよく仮面ニンジャーごっこで遊んであげていたらしい。彼の肉付きのよい体格は、悪役としてうってつけで、よくぼこぼこにされては地面を転がっていたらしい。それはとても微笑ましい光景として地域住民の目に残っていた。
昨日の帰り際、その子供達の一部だろう。まっすぐに見つめられて問われた言葉が、胸に残る。
「お兄ちゃんは、悪いことをして警察に捕まったって、幼稚園で聞いたっちゃけど、いつになったら帰ってくると?」
もう彼らは知ってしまった。光が犯罪に手を染めてしまったこと。補導、というよりも、実質逮捕と呼ぶにふさわしい現在があること。彼らはきっと彼らなりに理解してしまったのだろう。でも、それ以上に。……まさかつい昨日会って話をしたよ、などと口にできるはずもなく、
「うーん。わからないや。ごめんね」
と曖昧に、困った顔をして返す自分に、我ながら嫌悪した。
「光君が通っていた高校では、去年いじめで自殺者が出ました。ニュースにもなっています……覚えていらっしゃいますか?」
昨日。最後に少し話がしたいと呼びかけてきた彼がスマートフォンを片手に持ち、質問してきたその問いに、
「……いいえ。忘れていました」
佐藤は半ば騒然とした気持ちをも抱え、答えた。光はこの情報を出さなかったし、彼にまつわる資料も、何の見逃しであったというのか、記述がなかった。そして担当の自分も、このスマホに写る確かな事件を、見事に過去の事として風化させてしまっていたのだ。
いじめにより自殺したとされる女子生徒の名前は、里中 春美。遺書に残されている文言と、一部生徒の証言から、マスコミ達はこぞって報道を開始した。
だが、何の影響によるのだろうか。学校、そして市はいじめの存在を否定。第三者調査によってもいじめの全容を解明するには至らず終い。そして日々新しいニュースが舞い込む日常の中、この事件は過去の話として、風化してしまっていた。
勿論、ネットの方だって黙ってはいなかった。いかに去年の内容であるとしても、調べてみれば名前は出てくる。たったの三人、四人ではあったが、その名前は今回殺害された少年少女、そして担任教師の名前と一致する。
そうか。……そうだったのか。実に単純なことだった。佐藤は思う。だから、彼は一切の罪悪感などないまま八人もの命を奪うことができたのだ。
翌日、佐藤は上長と共に親の面談を行うため家へ再度伺った。顔を見た途端に光の母がハッとした表情を浮かべたが、すぐに何事もなかったかのように家へ招いてくれた。現在の様子、過去、家での様子、お互いがお互いに報告、説明をしあった後、佐藤は件のいじめ事件について話を聞いてみることにした。だが、母はあまりその話題を語るに乗り気ではなく、ごめんなさい、と繰り返すのみだった。だが、
「ハルちゃんは、いい子でしたよ……。うちの子は、いじめに遭ってはいませんよ……」
ただそれだけを、口にしてくれた。
そして更に翌日、火曜日。光君の学校は、以前いじめで自殺者が出たよね。そう佐藤が問いかけたその時に、光は何か、到達してしまったか、という観念したような、いや、今更なんだよ、という怒りか、もしくは、やっとその話題か、という待ちわびていたような、そんなたくさんの色を持つ表情を同時に見せた。
「学校側は、いじめについて何て言ってますか?」
という問いかけを光から受け、佐藤は、
「知らぬ存ぜぬを貫いている、ね」
と返す。ならば……、一度小さく光が呟いて、また、続ける。
「ならば、いじめなんてなかったんですよ。あの学校は、とっても最高な学校で、いじめなんてないし、先生達は素晴らしい先生達で溢れていました」
彼の嘘は、いつだってわかりやすい。
「じゃあなぜ君は……」
「人を殺す経験がしてみたかったから!」
何遍言わす気だよ……と明らかに苛立った大声で叫んだ後、ぼそり、毒づいた。
「オイ! 何だその態度はァ!」
部屋の外で様子を伺う担当が、ドアを開けて怒鳴ってくる。光はその男をきっ、と睨みつけるが、目を瞑ると、
「失礼いたしました。佐藤さん。福部さん」
頭を垂れて謝罪する。福部はそれを受けて、
「今後も注意するように!」
と口にした後、ドアを閉める。
「…………」
数分の沈黙があった後、
「僕一人が、頭おかしいんですよ。精神障害はあるわ、精神科通院歴はあるわ、投薬受けてるわで。それで十分です」
「多分十分じゃないけど、それより聞きたいことがあるんだ。ねぇ、光君」
佐藤は一度そこで区切り光の反応を見る。大丈夫だ。話くらいは、聞いてくれる。そう思って、問う。
「ハルちゃんのこと、聞かせてよ」
「…………」
今度は、何分黙るだろう。何分、考えることだろう。でも、待つつもりだった。時間は、あるようでないけれど、佐藤は待つつもりでいた。
「文学って、あるじゃないですか」
彼の返答は、佐藤の予想よりずっと早かったが、その内容が、予想の範疇を越えていて、その正体を捉えることには困惑せざるを得なかった。
「……唐突、だね」
「我が輩は猫である、ってあるでしょ。人間がエゴにまみれた生き物で、土地の所有がどうのこうの、足が四本あるのに二本しか使わないのがどうのこうの。しまいにゃビール飲んで水瓶に落ちて水死する」
うん。という短い返事を佐藤はしているが、その実この少年の思惑が一切掴めないことを感じ、まさかここまではぐらかそうとでも言うのか、焦りをも感じてしまいそうになるのをぐっとこらえ、質問をしようとした。君は一体何の話をしようと思ってこの話をしたのだい?
「この話のオチはね、佐藤さん」
光が区切りをつけてから、言い放つ。
「僕がこの話を読んだことがない、ってことにあるんですよ。……今日はもう、疲れました」
疲れた、という言葉にタイムリミットという現実がダブルでのしかかる。
「また明後日、お願いします……」
光が警官に連れられてまた戻っていく。彼の拘留期限は、また一週間延長されることになった。それは、新たな事実が発見された事によるもので、それでもその延長は最後の延長になる。
(自分が受け持てるのも、あと一週間、か……)
上手くいかないことばかりが佐藤の頭を過ぎる。明日はまた非番だというのに、思い切った休みの満喫をする気分にもなれないまま、頭を掻いてはため息をついてしまうのだった。
六
誰がリークしたのかはわからない。というか、過去のことを振り返っても見れば、あっという間に気付いてもおかしくないことだったのに、誰も彼もどうしてこんなに気付かずにスルーを続けてしまったのだろう。彼の保護から、一ヶ月と三週間弱経過してようやく、この事件と去年のいじめ問題が結びつく報道が出始めていた。
だが、勿論学校側はいじめなど知らぬ存ぜぬの態度を一貫させている。それはそうだろう。このタイミングで認めるなど、あちら側からすればあってはならぬことだ。光一人が異常者であれば良い。それで片が付けば、大勢の大人達の面子や立場や生活は保証される。脅かされずに済む。禿頭のお偉い方はテレビに映りはしているが、だからといって大した影響はない。「私は悪くない」という保身にまみれたお言葉は難解すぎて、世間一般にその発言の細かい部分まで伝わることなどないのだ。
「報告上、いじめはなかったと昨年から申し上げているとおり……」
もし仮に、この事件がいじめ事件への復讐であるとすれば、それはあまりにも無意味なことだ。あまりにも。テレビから流れる音声は、無味乾燥なまま佐藤の耳を通り抜けていく。
世間的に見れば、明らかないじめもこうして塗りつぶすことに成功していれば書類上はゼロ、だ。その現実を塗り替えるには至らないのだ。彼の家の幾度となく上塗りされた壁とは違い、四人、あるいは五人もの命の犠牲の上であっても、現実を塗り替える力にはなり得ない。
光君。やっぱり君は、間違っている。そう思うと、いつもの朝の一杯を一気に飲み干して乱雑にテーブルの上に投げ置いてしまう。がちゃん! という大きな音が響くと、佐藤は冷静さを取り戻して呟いた。
「勝手な憶測で物言ってんじゃねぇよ。つか、今日は仕事じゃないんだって……」
テレビを消して適当に散らばった洋服達の中から適当に拾い上げて適当に着る。そのズボラなしわもんちゃくっぷりを鏡で見て、思う。
「……ねーな。更正って、何なんだろうな」
思いは、口をついて出てくる。ため息をつくと、ズボンだけは履き替えようとする。散乱した服達の中から、どうにかマシな奴を拾い上げる。誰もアイロンをかけようなんてする奴はいない。家政婦が出て行き両親が死んで、無事に俺はこの世界にたった一人取り残されたのだ。子供のことを見て、指摘して、話を聞き、育て上げ、社会に復帰させる。そんな更正プログラムの歯車の一つとして駆動し続けることに、嫌気すら差し始める思いがした。
「辞めたいかも、仕事……」
そう一人ごちた後に、あぁどうせ、このままズルズル行くんだろ? という自分を刺す感情に心が支配されていくのを感じた佐藤は、その気持ちを家の中へ置いていき、距離をとろうと駆け足で飛び出していた。
電車に飛び乗り、どうせなら行ったこともないような田舎へ行きたい。そんな現実逃避以外の何でもない突発的な感情から、佐藤は料金表の一番端の、最も高い、それでも県すら跨がぬ私鉄のぼちぼちな値段のボタンを押す。改札に引っかかるような鞄は持ち合わせていない。引き留める人も物もない。自由とはそういうことだと思いながらその実。
「何を今更期待しているんだろうな……フフっ」
気持ちの悪い独り言と鼻で笑う行動を携えて、特急電車に乗り込んだ。
私鉄の端から端までを、特急電車は一時間で移動する。特急でも一時間かかるのか、それともたった一時間で端から端まで行けることの速さがすごいのか。電車は満員で、クーラーや扇風機の力があっても蒸し暑さにやられてしまいそうだった。
目的なんて大して用意もしておらず、一体全体何のためにここにきたのかもわからないまま、佐藤は降り立ちあてもなく歩いていた。ただ単なる逃避なのだから、逃避らしくみじめにぼさぼさ歩いていればいい。怠惰に過ごすのも、ありじゃないか? 最初の同僚が言った言葉が不意に蘇ったので反芻する。そうだ。それもあり、だ。そう思って田んぼの横を歩いていると、いきなり肩を掴まれた。
「おう! あんた、そう……佐藤じゃねぇか!」
以前光の家まで行った時にペンキを持って佐藤に掴みかかった嗄れ声の老爺。
「キタジィさんじゃないですか……どうしてここに?」
佐藤がそう呼ぶと、
「お? 早速そう呼んでくれるたぁ、良いじゃねぇか。そうだよ。そのノリだよ○○さん。いつも辛気臭ぇツラしてっからさぁ、俺はつい怪しい奴なんじゃねぇかって、ほら。身構えちまうんだよ!」
キタジィはそう言って佐藤の背中を何度も叩いた。正直、痛い。
佐藤はキタジィの本名を知らない。名刺を渡し、その場で名前を伺っても、彼は名乗らなかった。キタジィって周りが呼んでるからお前もそう呼べ、と言われたので、そう呼ばせてもらっているのだ。
「まだ腹が減る時間帯ってわけでもねぇが、まぁ茶でも飲んでくかい?」
キタジィが指さす先にはペット同伴可! と大きく描かれた看板。キタジィの左手には、小さな犬達を繋ぐリードがあった。
「今日は休みかい?」
落ち着いた店内の片隅、意外と綺麗に拭き上げられたガラスから外の行き交う人達が見える。キタジィから問いかけられた質問に、
「えぇ。何だかイライラしちゃって気付いたらここにいました」
かなり正直に佐藤は答えていた。
「そうか。じゃあ悪いことしちまうんだけどな」
キタジィがそう言って、一枚写真を取り出す。
「…………」
写真に写っているのは、恐らく小学生の中学年くらいだろうか。光と、少しぽっちゃりとしてはいるが笑顔のかわいらしい少女。そして、今よりも少しだけ髪が多く生えている、
「懐かしい写真なんだよ。ついついいつも持ち歩いちまう。もう二人の孫だからよ」
キタジィだった。三人とも、よく笑っていた。
「この女の子は?」
佐藤は、半分、いや、もうほぼ確実にわかりきっていることを訪ねた。この少女が時を経てどのような顔になったかを、もう知っていた。
「ハルちゃんって呼ばれていてな。この子は産まれてからちょうどこの写真を撮ったときくらいだな。十くらいはあそこに住んでいたんだよ。光とはずっと一緒でなぁ。引っ越すことが決まってからずっと光の奴が泣くから、写真を撮ってよって、せがまれてな。ハルちゃんから。そんで……」
キタジィが写真を大事そうに撫でながら、ぽつぽつと話すのを佐藤は静かに相づちを打ちながら聞いている。
「そんでな、あいつが中学三年になった時にな。高校の説明会に行ったらそこで再会したそうでな。嬉しそうに俺に話すんだよ。俺もな、良かったな。良かったなってなぁ。一緒に喜んでた。あの二人はな、俺の命の恩人なんだよ。佐藤さん。あの二人が助けてくれなかったら、俺は家で一人閉じこもって孤独死していた。……だからよぉ佐藤さん。俺はやっぱり許せねぇんだ。ハルちゃんに、あんな。あんなむごいことやった連中が、許せねぇ」
写真を懐に戻してキタジィが呟いた。視線は鋭く佐藤の方を向いている。
「高校入学して最初の夏頃だったな。光が暗くなってった。あの高校は地区で一番の進学校さ。勉強量がしんどいんだろう。環境が変わっちまったし、周囲の奴らもお勉強のできる奴ばっかで、苦しいんだろうなんて周りの大人達は、そればっかりだ。勿論、かく言う俺もそのバカどもの一人さ。
あいつは何も言わんかった。まさかハルちゃんが、あんなにむごい目に遭っているなんざ、気づきもしないさ。そうこうしている内に冬が来て、……ニュースを見て、そりゃあ驚いた。まさかハルちゃんが、飛び降りてしまうなんて、夢にも思わなかったよ。俺は。
でも何事もなかったかのように二年生になっちまってな。そしたら今度は光も高校に通えなくなっちまってな。病院にまで行くことになっちまった。俺はテレビや新聞くらいでしか事件について触れられん。一回直接あいつが居るところに出向いたけど、面会もできないとよ。あいつらお役所ってのは、いつもそうだ。……いいや、佐藤さんが悪いんじゃねぇや。聞かんかったことにしてくれ。
被害者は、これは俺の勘だけどな、いじめをやってた連中だろう。もし本当にそうなら、不謹慎は百も承知よ。俺は、『よくやった!』とあいつを褒めてやりたい。一人だけ生き残った奴がいたけど、もしそいつもそうだってんなら、俺があいつやハルちゃんの代わりにそいつを八つ裂きにしてやりたいくらいだ」
「キタジィさん……!」
「……わかってるよ。わかってる。思ってるだけさ。こっちにな、俺の本当に血の繋がった孫がいるんだ。同居するとどうせあのクソ息子や嫁と馬が合わなくて互いに嫌気差すからってよ、俺から遠慮してるとはいえ、孫はかわいい。悲しませられねぇよ。けど、どうなるんだろうな。あいつ、これからどうなっちまうんだい。佐藤さん」
佐藤は、あくまでも事務的に今後の流れをかいつまんで説明する。今週末には、彼の身柄は検察庁へ送致され、そこで起訴されて裁判に掛けられること。刑期がどれくらいになるのかなどは、業務の範疇外となるため明言できないこと。いじめ問題がこの事件に関わっているかどうかについては、勿論守秘義務があるため答えられない。二回だけ、食い下がられたが、観念した様子でコーヒーを一気に飲み干したキタジィの、
「やっぱ苦いな、今日は今までで一番苦かったわ」
そんな発言で、お開きになった。
七
古谷光は生まれつき広汎性発達障害を持っていて、その調査、取り調べ等には留意する必要がある。そんな言葉通り、彼は拘留期限ギリギリの八週間まで延長を重ね、慎重に、厳重にヒアリングが行われてきた。だが、それも今週まで。
検察庁に身柄を装置されれば、基本的には起訴という運命が待っている。例外が無いわけではないが、この事件についてはもう彼がやったという事実は確定している。証拠も供述も、そこにズレはない。
「そりゃあ僕だって調べてからやりますよ。計画性を持った犯行だって、言われるくらいですし」
ニコ、と笑ってから光は佐藤に言った。不登校をしていた一ヶ月の間に、色々準備していたことも、以前既に話した内容ではあるが改めて話してくれた。
「あと、三年どうにかして粘ることができたら、僕は晴れて死刑になれるっていうのに」
何もかもを諦めて、投げ捨てるように吐き捨てた言葉が、佐藤の胸に刺さる。嫌気がさしている仕事に、余計なダメージを背負わせる言葉が、気にくわなかったといえば、それはその通りだろう。
「なぁ。俺少しくらい君に怒っても良いよな?」
その言葉に、光はやや不思議そうな顔をした。
「だってさぁ。だってそうだろう? 死刑になりたいって、死にたいってさぁ。それ嘘だろう? でもそしたらさぁ。俺が今まで見てきた物って一体何だったんだよ、ってさぁ。……なるじゃんか? お前の心を見せてくれよ。このまま気持ち隠したまま終わりにしたくねぇんだよ俺さぁ。っていうかさ。俺、お前に、……君に、生きててほしいんだわ。これから先、絶対許されることはないけどさ、僕は、君に、生きていて欲しい」
本来なら感情的になり、激することなど許されない立場。それすらも忘れそうになる心を、押さえつけるかのようにして、佐藤は光のことを見つめていた。
「…………」
この手の少年は、激すれば余計に黙りこくる子が多い。理由は様々であるが、大抵はそう、こんな奴なんかに誰が喋ってやるかと心も口も閉ざすパターンだろう。
この沈黙が、返す言葉を考えている普段の長考癖によるものなのか、それとも、黙秘の沈黙か。感情が消えたようにも見える光を見つめる時間が十分を越えて、酷く気まずい空気を実感せざるを得なくなる。そして、タイムアップを迎えるその時に、
「次が、最後ですよね」
光が尋ねてきた。
「うん。そうだよ」
ありのままを、答える。もう、延長戦のカードは存在しない。
「佐藤さんは色々話してくれましたし、話しておくべきだとも思うんです。でも、やっぱり準備が必要だった。次は、きっと話しますから」
連れられていく光が、口にした。連れられて歩くタイミングは、無言が常。頭を小突かれるようにされ、それでも光は前を見据えていた。佐藤は、信じている。そう声に出さずに言って、光の背中を見ていた。
八
「…………」
「…………」
二人揃って、ため息を吐いた。最終日の面談開始は、重苦しかった。どちらにも、笑顔がなかったからだろう。光は、顔を下げたまま、口を開いた。
「生まれてきて、ごめんなさい。その言葉を、どう捉えるかは人の自由だと思います。太宰の言葉として捉えるなら正解が定まるけれど、各人の解釈で構わないなら、そこは自由だって。
チャリーズ所属の人が主演して映画化されたあの作品を、母は喜んでレンタルして、テレビの前を陣取ってウキウキで見ていました。そんな作品じゃないことを僕は知っていましたが、それを言うのも野暮だと思って。実際、母はチャリーズを見ているのであって、あの作品を見たい訳じゃない。わかっていました。母は、とうとう『生まれてきてごめんなさい』も『ただ一切はすぎていきます』も理解できない様子でした。……僕にはどこまでも深く刺さってきた言葉も、母はまるで理解できない外国語でも聞いているかのようで、驚きでした。
でも、なんででしょうね。母も、それなりに苦労はしてきた人ですよ。私の祖父、母の父ですね。こいつが女狂いで、セックスセックス。子供はたったの四人ですが、皆母親が違うときてる。ちなみに母は第二子です。後妻に育てられた上の子等は、結構な肩身の狭さを味わったはずですよ。例えば、イスに紐で括り付けられては棒で打たれ詰られたり、とかね。
その四人の女は皆死に絶えましたが、爺自体はまだ生きてます。まだ生きるでしょうけど、多分そう遠くはない未来……遺産相続の問題が発生します。けど、四人は仲が悪いんでね。当人が死んだ後はもう醜い未来しか自分には見えてきません。
それでも父親なんでしょうね。母だけは定期的に行って世話してやるんですよ。それが将来的な安定のきっかけになるとは限らないことを承知した上でね。何せあの爺。口先で遺言書く書く言っときながら、もう三年近く書いてないんでやんの。……どことなく、イヤという程に結び付いてもおかしくないはずだよなぁと、僕は思わずにいられませんよ。
何で生まれちまったんだ、とか、どんだけ汚れっちまったんだよとか、きっと、そういうことを自分事にできちゃったら、はまっちゃうもんなんでしょうね。
母がそれらを一切考えないで済んだのは。……チャリーズのお陰でしょうかねぇ。母は学生の頃から、大好きでしたから」
ほんの少しだけバカにしたような、それでいてほっとしたような笑顔とため息をついてから、また彼は続ける。
「何ならあと一人、殺したかった、か……。やっぱあれ嘘ですよ。あと……十三人は殺したかった。何もかもを壊してしまえば……いや、これは今回の話とは別件です。世迷い言です」
何かを諦めたような顔をして、本題入りましょう。と言った。その顔に、迷いはない様子だった。
「純愛って、あるでしょ」
「…………」
「また唐突なって、思ったろうけど、……まぁ、許してください。『あなたさえ居れば、もう、それだけでいいの!』とか、『傍に居られる。それだけでもう何もいらない!』とか。あぁ薄ら寒い。口にしただけで寒気しますよ。一緒に暮らすならお金が何より必要だし、子供を産まない生き方を選んだって、どっちみち家族としての生活を継続するなら苦労だって多いはずです。気持ちで腹は膨れないんですから。
……とはいっても、うちの近所に住む夫婦の交際や結婚のキューピットとか僕ってしてましたっけ。でもあれ、彼女が先導してたんですよ。……言わなくてもわかると思いますけど。そう、ハルちゃん。
あの頃は近所に住んでましたから。女二人で僕たちに揃って言うんです。あんた達は女心がわかってないのよ! って。
何だかんだで中学に入ってから、今度は奥さんの方から声をかけられて。でもその時ハルちゃんはいなかったから、どうにかして二人で計画練って。ハルちゃんは、どうするだろう。どんな風に声をかけるだろう。その相手は、その妄想は、恥ずかしいことに僕が相手で。だから……、
だから、高校説明会で会えたことも、結果として同じ高校になったことも。最高でした。天にも昇る気持ちって、ああいうことを言うんだと、それこそアホの様に思って、舞い上がって。
別にどちらが告白したとかもなくて、だから、僕たちは彼氏彼女の関係にもない、そんな半端な関係でした。でも、二人きりで出かけたりもしたんですよ。最初は図書館デートで、お互い何も言えないじゃんってなって。それでも、今となっては何がおもろかったのかもわからんけど、爆笑したりして。制服を着ていないと僕も彼女のオジンオバンに見えちゃって、児童書コーナーの子供達に夫婦と思われてはやし立てられたりして。お互いに困った顔と、まんざらでもないような顔をしたりして。彼女の好きな本は文学だけじゃなくて、絵本だったり、児童書だったりして、僕はテレビドラマに流れるような純愛も、子供の読み物も一番バカにしているような奴だったのに、彼女が触れた作品は、まるで別の色を帯びているようでした。
夏は花火大会に行きました。小さい頃親と一緒に行ったことはあっても、二人きりで行くのは当然初めてのことで。誰の目にも触れないようにと、息を潜めるようにして焼きそばやリンゴ飴を買い、人混みを避けて花火を見ました。そう、ハルちゃんの家に行ったんです。うちよりも会場からの距離は遠かったけれど、高い建物だったからそれなりによく見えて。彼女は浴衣を着ていたのに、僕だけ普段着で。そりゃあもう後悔しました。次は、ね。何て言い合って、そしてその次は、来なかった訳ですけどね。
彼女が痩せる、というよりもこけてきて、元気になるために何ができる? って聞いたら、映画が見たいと言われました。たくさんの親子連れがいる中、ガーゴンを見に行ったんです。彼女は小学校に上がる頃には卒業した気がするのになぁって、そう思いながら。あぁ、僕も流石に二年生になる頃には卒業してますけどね。どうやら再燃したらしいんです。彼女の方は。
「これがこの映画のルールよ!」なんて言いながら、彼女だけじゃなく会場中が大人も含めて席を立ちガーゴンを応援する声で一杯になっていて、さながら僕は……そうですね、『夏休みの宿題を準備していたら、周りが僕の知らない課題を提出しだす』みたいな感覚になってボーゼンとしていました。けど、久々に彼女がそういう風に笑って弾けている姿を見ることができて、幸せでした。
その帰りのことでした。彼女が僕に言うんです。
「私、もう何もいらない。光の傍に居られるだけで、それだけで、もう良いの」
僕は卑怯者です。佐藤さん。僕はあまりにも卑怯だ。僕は彼女が学校でどんな目に遭っているかを知っていた。あいつの担任と、僕の担任が全く、クソ程の役にも立たないこともわかっていました。何もしなかった訳じゃない。ボイスレコーダーを貸そうとしたし、隠し撮りをして、証拠を集めて訴えてやろうって、提案もした。
彼女は、ハルちゃんは僕に嘘の処刑場を教えました。クラスで女子が話してました。処刑場とは言いませんでした。トサツ場だと、言いました。
そんな彼女が、『私、光の傍に居られるだけで、それだけで、もう良いの』と言った。その言葉に、僕は何も返事をしてやれなかった!
その、二日後でした……。ハルちゃんが自宅アパートの屋上から、飛び降り死体で発見されたのは。あっさりしていました。箝口令が敷かれました。誰も、何も言わなかったのでしょう。卑怯者の僕は、何も言いませんでした。彼女を殺したのは、……僕だから。だから、何も言いませんでした。だから、僕は五人もの人を殺したのです。
あっさりしていました。クラス替えがあって、僕らは二年生になりました。担任は、去年ハルちゃんを見ていなければならなかったはずの、クソでした。試験の結果が芳しくなく、職員室に呼び出された時に、思い切って言いました。そしたら、こう言われました。
「お前なぁ、終わった問題にいつまでも拘泥し続けるなんて、……お前やっぱ前から思ってたけど、頭おかしいんじゃないか?」
なるほど。僕は合点が行きました。僕は頭がおかしいんだ。なるほど。なるほど。なるほど! そうか。だから僕は精神科通いも薬もやめられず、今でも何もしないで居る時に涙が止まらなくなるんだって、その時僕は逆に感謝したくらいです。全く、ストンと腑に落ちる思いが、本当にしたのですから。……僕は、頭おかしいんでしょう。きっと」
僕は、アタマおかしいんでしょう。きっと。
佐藤の中で、鼓膜を通り抜けて聴覚神経を伝わり脳に入った言葉の中で、このフレーズだけ何度も、何度も、壁を跳ね返り続ける感覚があった。バウンドを続けて、乱反射をする。頭痛が、目眩が、するようで、顔が下がっていく。その中で、
「……関係ない話で、ごめん」
佐藤は、うつむき加減で、話しかける。
はい、なんでしょう。光は、表情を変えずに、答えた。
「俺の友人にさ、学校の先生がいたんだ。めっちゃ優しくて、頭よくて。先生の適正すげぇある奴に見えてさ。夢叶えたよって、嬉しそうに報告受けたこと、今でも覚えてるよ、俺。
でもさ、そいつ死んじまった。クラスでいじめ起こってさ、悪いのそいつだけじゃないじゃんか。でも、それ苦にしてさ……職場の他の教師も、生徒達も魔物か悪魔に見えてきたらしくてさ。学校に行けなくなって、何かの楽園に繋がってるようにでも見えたんかね。家ともどことも関係のないビルの非常階段突き破って、飛び降りちゃってさ」
「うん。……きっと、僕が願った普通も、そんな人だと、思います。この世界は、僕には異常だとしか思えなかった。……そうですよね……」
彼は、二秒だけうつむいて、腕で涙を拭うとまっすぐに佐藤を見た。人と顔を、特に目線を合わせることができないと評された彼が、初めて佐藤と目を合わせた瞬間だった。
「僕も、あの子が傍に居てくれたら。僕も、ハルちゃんの傍に居られれば、何もいらなかった……。
何で! どうして! 僕はその想いに応えてあげられんかったんやろう! ハルちゃんが生きている内に! あの時に! どうして、僕もだって! 言ってあげられんかったっちゃろう!」
光は、泣いていた。嗚咽を懸命にこらえて、涙を袖で拭き上げる。机の上のティッシュを渡そうとする佐藤を、手で制してきた。待って、という合図に見えた。
「あと、もう一人殺したいと言ったのは、嘘じゃない。栗原のことじゃないんよ。ねぇ、佐藤さん……僕はどうして死刑になれんのやろう! あっちに逝ってもハルちゃんには会えんっちゃろうなっち、わかっとるけど! でももうこっちにハルちゃんはおらんとよ!
母は、母は、今後一生人殺しのキチガイの母やと詰られる人生になる!
悪いんは、僕だ! 僕やって、わかってる。もう二度と許されることがないのも、わかってる! そもそも、許されようなんて、思うべきじゃない。
……親だけでも、許されないものでしょうか。……いいや! 身勝手だ。実に身勝手だ! そんな親子が許されるべきじゃない! でも、佐藤さん、僕は、そうしたらもう僕はもっとたくさんを壊さなきゃいけなくなってしまう! だったら、いっそ……!」
ふぅ……、と小さく息を吐くと、光は喋らない。疲れてしまったのだろう。この異常に思える世界を変えることはできないと、わかっていながらも行動せざるをえなかったことも、そしてその結果、死ぬことも逃げ出すことも叶わなくなった。……いや、それを望み、願うことすらも許されぬ立場に堕ちたことも、光は十二分に理解していることだろう。
「正直に、話してくれたから、お礼がしたいんだ。……聞いてくれるかな」
佐藤は、ボイスレコーダーを、机に置いた。それは、光がハルちゃん救出の手段に、と購入したものだった。再生スイッチを押し込んで、待つ。すると、
「よぅ。キタジィだ。聞こえるか? 光」
キタジィの声がして、
「キタジィ。返事できるわけねぇじゃん!」
というあの夫婦の旦那の方がツッコミを入れて、場がどっと湧く一幕が繰り広げられた。
「お前の帰る場所は、ここに、ちゃあんと用意して、守っててやるからな! 帰ってこいよ! 待ってるぞ!」
「光君。私ね、お腹の中にあかちゃんおるんよー」
奥さんの声が、後を引き継ぐ。次は、先ほどツッコミを入れた旦那さんだ。
「君の名前や、ハルちゃんの名前、いただいても良いかな? って、さっきお母さんに聞いたんだ。遠慮されたけど、不謹慎だと怒られるかもしれんけどさ。……でも俺たち、三人ができることってさ、これくらいしか、ないから」
「私たちも、待ってるから。帰っておいでね。待ってるから……」
奥さんが、声を詰まらせるようにして絞り出す声。光の顔が、うつむき出す。
「光君。私たちの声が、わかりますか? 春美の、両親です」
その声に、ハッとした様子で顔を上げる。
「君が犯した罪は重い。そして消えないけれど……、君の罪は本来なら私たちが背負うべき罪だった……。今後は、私たちも一緒に背負っていこう」
「あの子のことを、こんなに思ってくれている人がいて、あの子は、幸せねって、お母さん思ってる。あの子私に似て器量悪いし、お父さんに似て要領が悪かったから……。だから、あの子を愛してくれた光君には、感謝してもしきれんとよ……」
「はよう、はよう帰ってこいよ。光君。待っとるけんな……!」
涙が一粒ずつ、光の両目から落ちていた。
「「「せーの! おにいちゃぁぁぁーん」」」
これが、最後。光が遊んであげていた幼い子供達の声。
「またあそぼーね!」「はよ帰ってこんねよ!」「こんどもまた仮面ニンジャーごっこしよう!」「ガーゴンでもよかよ!」「だってにいちゃん似とーもんね!」「そうそう似とる似とる!」
代わる代わる発せられる声に大人達の笑い声が遠く響く。
「…………」
嗚咽も堪えることがついにできなくなった。泣き叫ぶことだけはどうにか堪えても、涙腺の決壊を堪えることはできず、光は涙を流し続けた。
「君の帰りを待ってる人が、こんなにたくさんいるんだ。君は、生きるんだよ。光君。君は、生きるべきだ」
涙の上から降るこの言葉に、どんな影響があるかわからない。涙の波に流されて、残らないかもしれない。そもそも、佐藤大という人間一人の影響など、期待しちゃいけないのだろう。それでも、その言葉だけは、伝えたい言葉として口からあふれ出ていた。本当は、本当に伝えたいことは別にあるはずなのに、それは遂に上手く言葉にできなかった。
最後の時間が過ぎた。光は検察庁に身柄を送られ、起訴される。あちらでも聴取は行われる。彼はまたわかりやすく嘘を吐くかもしれないが、こちらの調書と照らし合わされて、判決に結び付いていくことだろう。彼は、振り返りざま最後まで部屋に残る佐藤に対してこう言った。
「五……四人も殺しておいて、許されるとか、許されたい、なんて思うこと自体間違ってるよ。あってはならないことだと思います。……でも、ありがとう、ございました」
丁寧に頭を下げて、光は出て行った。
終
死んだ者、特に殺された者は庇わなければならない。そんな意識にまみれたテレビニュースは、真実を伏せたまま報道された。最早バレバレであるとネット世代がせせら笑う事実、光の本名も、テレビではあくまでも隠された。その背後にある問題も、ついでのついでに。
今後彼は地方裁判所で大人と同様の裁判を受けることになる。いくつかの相違点はあるが、大きな点を述べれば、死刑にならないこと、だろう。
控訴、上告を経て再審まで漕ぎ着ければその願いを叶えることができないでもないが、それができるほど彼の家に経済的余裕はないし、最早それを望んでもいないだろう。望みは、叶わない。
ネットの話に戻れば、光だけでなく、犠牲者達の名前や過去も、あっさりと暴かれ、広まっている。その中には、唯一の生き残りである栗原洋の名前も含まれていた。今後、彼が生き辛くなることは間違いない。断じて正しい報復などではないが、これも言わせてみればあちら側の望みもまた、叶わなかったのだ。総じて望みの叶わないこの世界に、一体何の意味があるのだろう。久しく感じることのない感情をスーツ姿に包み込んで彼は歩いていた。それは、明日は今日より良くなる。明日よりも明後日。そんな綺麗事を為すことの難しさであるとも言えようか。明日が良い日でありますようにとどんなに願っても、自分たちは今日という目の前さえも容易く幸せに漕ぎ出すことが叶わないのだ。
彼、佐藤は光の母に呼ばれ、業務として再度彼の住んでいた家に入った。そこで母親から渡されたのは、以前母親から佐藤が預かったものと同じ機種のボイスレコーダーだった。恐らく、二つ同じ機種を購入したのだろう。そのスイッチを入れると、光の音声が入っていた。
これは、復讐なんかじゃ、ない。復讐なんて、バカバカしい。それにそもそも。ハルちゃんがこんなことを望む訳がないもの。でも、自己満足のために人殺しをする自分は、本当にバカだから、お母さん。どうか僕を切り捨てて、幸せになってください。……そんな音声から始まった独白は、たぶん台本を用意していたのだろう。何回か噛んだような部分はあれど、淀みや言い間違いはなく、スムーズに流れる良い声だった。
どのようにして道具を準備し、どんな風にしてターゲットであった五人を殺害していくか、淡々と説明していく。爆弾の計画以外が非常に綿密であることが印象的であったが、その逆、第一の犯行である爆弾の計画が、かなり緩く作られていたことを、佐藤達は今ようやく知った。
「もしこれで関係ない人を傷つけるようだったら、僕はすぐに死んでしまおうと思う。そして、誰一人死なせることができなかったら、やっぱりすぐに死んでしまおう。こういうこと考えるような奴は、やっぱりこの世界には、いらない存在だって、思うから。でも、……でも逆に、一人でも殺れたら、……その時は、何としてでも、何としてでも思いを遂げようと思う。
改めて……お母さん。生まれてこのかた、何の親孝行もできないまま、こんな最後を迎える形になってしまって、親不孝なバカ息子で、本当にごめんなさい。愚かな僕を、許さないでください。生まれてきてしまったのが、こんな僕で、本当に、ごめん……。どうか、これからは幸せになって下さい。ありがとう……ございました」
最後の挨拶だけははっきりと言い切って、音声の再生は終了した。光の母はすっくと立ち上がると、写真立てを手に取り、それを愛おしそうに抱き抱えると、わっと泣き崩れ、うずくまる写真に写っていたのは、幼い日の光と、春美の姿だった。嗚咽混じりに、母は叫んだ。
「バカな子程かわいいと言うではありませんか! あの子は……あの子はとても素直で、勿論酒は飲めないし気も利かないけれど……とっても良い子なんです!」(了)