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理解するとは何か
光枝 初郎
■理解すること
理解することとは何だろうか。私たちはよく「理解する」という言葉を使う。「分かる」とも似ているが、「理解する」というとより厳密さが増したイメージがある。
理解するとは何か。まずは「理解」という言葉に着目して考えてみよう。
日本語的アプローチ――理を解する、(物事の)ことわりを解する、解析する、ということ。
一、ことわり(理)とは、事物=物事の「本質」である。ことわりが分かった、というのは、その対象の事物を捉えたということである。捉えるというのは、ピッチャーの球を捕球するキャッチャーのように、ボールを捕まえること、そのような身体的な表現であることに留意されたい。
二、「解する」=解析。解析というのは、「問題problem」として構成された事象に整理を与え、ときに分解を加えて視点をスッキリとさせることである。数理的解析学だけではない。たとえば、父親がそれほどうるさくない音量でロックミュージックを聞いていることに対してT子さんが激しく腹を立てているとし、さらにあなたはそれを見てどこか不可解だと感じているとしよう。あなたがT子さんの話を聞くと、次のように整理できた……因子A(T子さんは父親とふだんから不仲である)と因子B(しかしどこかでT子さんは父親との和解を求めている)が加わってT子さんの父親に対する複雑な心理状況が常態として成立し、さらにそこに環境因子C(それほどうるさくない音楽でもついつい苛々してしまう)が加わって、T子さんの激しい怒りが生まれたのだ、と。これが解析である。ちなみに「解決」はそこからさらに一歩かかる(T子さんのこの状況をあなたがT子さんの父親に説明してあげる、などである)。T子さんの話を聞いて整理してみなければ分からない。例えばT子さんは今朝牛乳を飲んでお腹を壊した、という事象素も関わってくるかもしれないが、それは今の説明からするといくぶん余計な情報である。解析とはこのように、あなたが「問題」だと感じたこと・考えたこと=問題構成[1]したことを「解決」に向かわせるための冷静な知的行為である。
要するに、「理解する」とは、事物の本質をキャッチャーの捕球のようにバシッと捉えて問題解決のための準備をすることである。
■精神と身体――身体は精神の牢獄である[2]
さらにここから蛇行しよう。なぜここで「捉える」という概念ないし表現が出てくるのだろうか? 捉える、掴む、押さえる。これらはすべて「手」に関する人間の身体的な行為である。ならば、一個のリンゴを手で掴むことと、リンゴを理解する――リンゴを理解するとはどういうことか?――ことには、一体どのような関係があるのだろうか。
もう一度話をまとめる。リンゴがおいしく食べられるような育て方を知る。実際に育てて学ぶ。他にも、リンゴの実が茶色になりにくいような方法を知る、だとか。これらはすべて「リンゴをおいしく食べる」という目的に関係している。リンゴをおいしく食べたい、そのためにリンゴの育て方を学び、またおいしく保つような方法を知る、それが「リンゴを理解する」ということである。そう、ここでの問題解決とはこの目的、「リンゴをおいしく食べる」ということだったのである。
問題構成 → 解析(理解) → 問題解決(目的・達成)
リンゴを理解してしまえば、リンゴのことは手に取るように分かる……。それではこの身体的な比喩表現はいったい何を意味しているのだろうか。
身体的な比喩表現はすなわち、〈知〉の領域にじかに関わっている。そう、深淵なる精神の領域に、である(そもそも私たちは哲学的論議をはじめたのだからこの帰結も半ば仕方ないことであろう……)。理解=解析は、どうしても〈知〉と深く関わっている。
私の仮説はこうである。つまり、手がリンゴを掴んで所有するように、「リンゴの扱い方」を知識として所有すること……精神の奥に保管すること。精神は、「リンゴの扱い方」を手に入れる。その瞬間、人間の精神は、リンゴという一つの植物群を、自らの生活に役立てるために、統治=支配するのである。すこし飛躍があるが、どうも人間の精神は、人間以外の事物を統治=支配する傾向があるのではないか。ここではもちろん、「統治」とは何かということが幾度も問われてしかるべきなのだが、とりもなおさずそれは人間が世界の主人として精神作用を及ぼして君臨するということである。私は、この人間の「理解」という基本的な行為、精神的営みが、けっきょくは人間の精神作用のある種の傲慢さを隠喩していると思う。リンゴの大量生産の方法を知ってしまえば、もはやリンゴを食べる私たちは植物としてのリンゴが生き延びるも収奪され尽くすも、おかまいなしなのであるから。人間は他の生物を従属させるために生まれてきたのであろうか。そのようなものとして人間の精神作用はあるのだろうか?
■英語的アプローチとカントの『純粋理性批判』
ところで「理解する」は英語でunderstandである。Under-standというのはどういうことだろうか。下に―立つ、とは。対象となる事物の下に立つのだろうか。それは何を隠喩しているのであろうか――。
ここで私たちは敢えて誤読、ミスリーディングを犯してみたい。確信犯的誤読である。物事の下に立つ、というのは、やはり物事をしっかり受け入れる、下から支える、ということを意味しているような気がする。Under-stand。
また、このunderstandは、カントの『純粋理性批判』の図式で知られる、感性・悟性・理性の三つ組のなかの「悟性」の欧米訳でもある。悟性という単語は、ドイツ語の日本訳である。カントによれば、悟性は感性の働きによってえられた複雑な印象(表象)を安定的にまとめる働きをする。そうして悟性がまとめた表象を、最高権威の理性に譲り渡して、判断してもらうのである。ここでは、先ほどの問題構成―解析(理解)―問題解決の三つ組が、印象=表象を受け取る感性作用―それらをまとめる悟性作用―最終的に判断する理性作用の三つ組にじつによく対応していることを確認しておこう。
■暫定結論
日本語的アプローチでは、「理解」という概念は、もしかしたら人間が精神作用によって世界の主人となることを仄めかしている(実際、人間は世界の主人たらんとしてきた、しかしそのときの人間は「西洋の」人たちであったのだが)のだった。しかし、英語的アプローチでは、理解することとは、(対象である事物の)下に立つ、物事を下から見てその上でしっかり支える、というような印象が、敢えての誤読からは得られる。
もっと展開していうと、次のように見えないだろうか?
日本語的アプローチから得られた「理解」概念 → 俯瞰的(上から見る、主人が世界を眺め渡す)
英語的誤読的アプローチから得られた「理解」概念 → 基礎的、礎(土台)から見守る
世界の土台から、しっかり地に足をつけながら、事物を把握するというのは、どういうことだろうか。それは主人がまさに世界の主人として世界を上から眺めるのとは反対に、事物を「愛する」ものが覚悟をもってなす世界との関わり方なのではなかろうか。
全くもって論証を欠いた暫定結論ではある。しかし、私はいちおう、この英語的アプローチ、英語学的概念による「理解undestanding」の方が、好ましく思える。理解の概念はまさに分裂しており、それゆえに人々が「分かった」「理解した」というときに無意識に露呈している世界との関わり方の意識がそこからはなにとなく読み取れるのかもしれない。
■補足――ドゥルーズとカント
私はまだカント哲学について研究の途上であり、さきほどの感性―悟性―理性の三つ組の概念構成についても、ざっくばらんとした説明にしかなっていない。ところで、問題解決のトリアーデはこうである。
問題構成 → 解析=理解 → 問題解決
これに、ドゥルーズによるカント批判の向きを加えるなら、こうである。
理性による問題解決の拒否 → 悟性=理解の批判 → 感性=情動による問題構成の重視
こうしてみると、感性と情動の区別が重要になってくるのだが、それを差し置いてもドゥルーズの問題構成の重要視は、カント的感性のはたらきを重要視する、というところを根拠にしているように見受けられる。ドゥルーズは、カントをそっくりそのまま転倒させようとしていたのではなかろうか。
もう少し敷衍しよう。カントはドイツ啓蒙主義の時代に生きていた。それは人間が理性の〈力〉によって民衆を「正しき」方向に向かわしめる風潮であった。カントは確かにこの啓蒙主義に理論的な根拠を与えていたのである。かれは理性の論理学を発明したが、同時に理性の信仰を強くしていたのではないか。
ドゥルーズによるカントの転倒はここにはじまる。ドゥルーズは明らかに感性のはたらきに、そして彼が「情動」と呼ぶものの力学構成に、何かしら希望めいたものを託したのではないか。いや、それは間違いだ。ドゥルーズ自身は希望とかといったものとは無縁の哲学者であった。ならば、情動の組織学を彼は語ったに違いない。それを私は研究しなければならない。
ドゥルーズはカントを「真のライヴァル」と語っているのはそのような場面においてのことも大いにあるのだろう。だとすればドゥルーズは哲学者のライヴァルとしてのカントに、一体どれだけたくさんのものを見出していたのだろうか。(了)
[1] 非常にドゥルーズ的な概念である。ドゥルーズは、通常の科学的思考の手続きである問題構成→解決の矢印の向きを逆転換し、解決(解析)→問題構成という図式において、如何に問題を構成をすることが重要かを語っている。ドゥルーズは例えば『差異と反復』において問題的problematiqueという概念を展開している。
[2] フーコーの好きな箴言。