黄桃缶詰
SINCE 2015
活動再開!2019年4月発表をめどに小特集「曖昧なる境界線」が決定!(1/28)
はる「ロジウラ」、misty「時間喰いのモービーディック」の原稿を掲載しました!(11/25)
しばしの間休載。(9/12)
アク
新嶋 樹
「アクと名波は付き合い始めた」ということを、周囲に言うか、言わないかを二人で話したとき、アクはいくつかの言葉の末に、わたしは静かなままでいたい、と言った。このとき「感動」という言葉をアクに向けて使ったおぼえがある。「アク」がこれまで見てきた姿とは違う、一人の女性として、初めて目の前にくっきりと現れてきたような気がしたのだ。誰かと「付き合う」というのが言葉だけの変化だったとしても、言葉が関係の方に働きかけるということもあるのだろうと、そこまではっきりとは考えなかったにしても、あの頃と言えば「感動」や「愛」という言葉をしきりに使って感情を表現したがっていた。今になって思えば言葉の意味など分かったものではなく、分からないからこそ軽く使うことができたのだろうか。初めて一人の女性と関係をもつということの大きさを持ち扱いかねて、言葉にしきれないものをとりあえず浮かしてみたのかもしれない。わたしは静かなままでいたい。冷ややかな快感が触りついてくるような言葉だった。ふだん通りサークルに顔を出し、決定的に関係が変わったことを誰にも告げず、挨拶をし、議題を進め、雑談を楽しむ間、誰からも悟られないようにふるまうのは、確かにおもしろいことのように思われた。錦織さんや矢作(やはぎ)さんはアクへの感情が分かりやすかった。二人は以前と同様の態度を取るだろうが、それは二人に以前と以後がないからで、ないところからかれらが見て取ることができるとは思えなかった。アクは錦織さんや矢作さんの底意を知っていようとも、知らずにいようとも、かわらず静かな対応をしつつ、静けさの底には合言葉を握り、よく歩いた近所の森林公園や河川敷で、それを投げ出す。人が知らないことを知り、人の願うことを黙って裏切るということの刺激を想像せずにはいられなかった。知らないままのかれらの姿を間近に見た後、目の前でサークルの仲間の誰にも見せないものを見せ始めるアクの手を触ることは、見る前よりもなおおもしろく感じられるような気がした。若かったからだろうか。いや、身勝手な欲望が腹の奥にうずくまっていることはその後も十分に知らされた。アクが静かな関係を望んでいるというのはそういう刺激を得るためではないはずだと考えたが、アクは優秀な共犯者となるだろうという予感はあった。アクが部室に入り、出ていくまで、記憶に残るようなまとまりのある言葉や、はっきりとした内容をもった意見をアクから聞くことはほとんどなかった。誰から位置を決められたわけでもなかったが、部室の隅にあるハゼの水槽の前に座るようになったアクは、誰の話にも公平にうなずきを返しているように見えたが、本当のところはよく分からない。こころもち唇にとまどいが乗っているようにも見え、すべてを了解しているようにも、言外の意味まで汲み取っているようにも感じられる。アクが何を考えているのか読みとれたように思う瞬間もあるが、話題が二つ三つ挟まるうちにぼやけてしまい、もうどういう気でいたものか分からなくなっている。表に裏が貼りついているというものでも、陰翳の具合でもなく、アクの表情は笑っているとも泣いているともつかず、うなずきにしても、やっとうなずいているのが分かる程度の変化にすぎない。言語に支障があるというわけではなく、アクは確かに何かを喋っているのだが、話の内容や声音を、後で特徴づけて思い出すことができない。こうだ、というものに、たぶん、や、だろう、と留保をつけて語るしかない。春先に一緒に入部した女の子とはよく話していたようだが、その女の子がいなくなってしまってからは、「アクちゃん」が彼女と何を話していたのかを思い出せる者は誰もおらず、どのようなものを好み、嫌っているのかも分からなかった。新入生が何名か入部したとき、ふだんは顔を出さない錦織さんが部室に現れ、スチールラックにもたれて笑いつつ見ていたが、あとで人が少なくなってから、「ずいぶんぼんやりした子が来たね」といつもの軽口をおさえぎみにした声で言った瞬間の、誰もがはっとして黙ったあの空気が、後で何度も思い出された。周囲も同じように感じていたのだと思った。「初めは誰だってそんなもんだよ、慣れたらだんだん見せてくるもんだから」と、錦織さんに続けて角田さんの述べた言葉は、風の冷たくなる季節になっても、一向に裏づけられることはなかったのだが、そのときは確かにそういうものだろうと思われた。他の二人の新入生も多く喋ったわけではなかった。「あんたたちも初めは、目ぇ泳がせてばっかりだったじゃん」と言われ、島崎や種田と苦笑いを返していたが、「あんたたちは年も近いんだから、一年生が話しやすいようにしてあげてよ。わたしや沙藤みたいなオバサン連中にあんまり頑張らせちゃだめだよ」という角田さんの言葉を、島崎も種田もそれぞれの感じ方で受け取ってはいたのだろう。アクは座っていれば誰かの肩に隠れ、歩いていれば誰からも遅れがちについてくるので、ふっといなくなってしまうのではという不安をかき立てられ、何度も振り返らずにいられなかったのだが、残るだろうと思っていた他の新入生がすっかり来なくなってからも、ともかく一人夕方になると現れ、静かに水槽の前に座っていた。たった一年上とはいえ先輩としてアクの居場所づくりに力を貸すことができたのではないかという、ためらいがちの喜びを含んだ確認が三人の話題となることが多かった。種田が「一人でも残ってくれたのが嬉しい」と言うのには部長としての数カ月分の実感がこもっているように思われたが、「一人も残らなかったとしても、おれはべつにかまわないよ」と島崎は言い切った。種田はテーブルの蜜柑に言い聞かせるように「嬉しいんだよ」と言う。「何度も言うけど、サークルがなくなったって別におれたちの責任じゃないから。矢作さんや、角田さんはそういうの許せないみたいだけどね。背負いすぎて今の部員が楽しめなきゃ、元も子もないでしょ」という島崎の意見に対して、種田は蜜柑を見つめたまま、あいまいな返事しかしなかった。「アクちゃんみたいないい子が入ったのは、おれも嬉しいけどね。名波もそうでしょ」島崎の言葉はフォローになっているのか分からない。「三人ともアクちゃんが残って喜んでるのは間違いないし、まあそれでいいじゃんね」と島崎は自分から空気を濁しておきながら会話を打ち切ってしまう。一年間サークルで共に行動してきた三人も、時間を重ねればさまざまな違いやこだわりも見えてくるもので、学科が同じだったことから初めは教室で座る席も近く昼食も共にしていたが、一年も経てば、部室の外では距離を置くことが、誰がはっきりと口に出すでもなく、なんとかやっていくための知恵として了解されていた。あの頃は一体何を楽しんでいただろう。元からサークルの活動そのものに興味があったわけではなく、花見に行って女性から話しかけられ、流されるままに入ったが、花見でまぶしく見えた女性が別のサークルからのヘルプだったことを知ると、そうかこれが大学かと思った。電話番号を島崎や種田と交換し、示し合わせて何度か部室に通っていると、先輩らに菓子を薦められ、晩飯を奢られ、講義の情報を教えられる。「みんないい人だよね」と三人で話すうちに気温が上がって、古いコンクリの部室棟に熱気がこもり、サークルの空気が粘り気を含んだ。次第に遅くまで話しこむようになった。春のうち水槽にはまだハゼはおらず、チェリーシュリンプという桜色の蝦(えび)が水底を動いていた。ポンプの音が耳についた。会話の継ぎ目になると決まって緑色の水槽の底でエサをほとんど必要としない蝦が黙って動くのを見ていたが、「こいつら意外と泳ぐの速いよね」というような言葉も「みんないい人だよね」という言葉もやがて三人の誰からも出なくなり、水槽のポンプの音もよく分からなくなってきた頃、だしぬけに、このままこのサークルに残るんだろう、と思った。よく意識しないうちに五月も半ばを過ぎており、ずいぶん多くの選択肢に線を引いていたことに気がついたのだった。考えてみればアクも同じような粘り気に絡めとられた一人なのかもしれないが、誰とも話さず遅れて歩いてくる後輩の姿を振り返るたびに、さらに純粋な、犠牲者然とした空気を感じとらずにはいられなかった。歩みをゆるめて肩をならべ話しかけるのが習慣のようになった。島崎や種田もアクの脇についてつまらないことを話す。アクは確かに笑みを浮かべてうなずいたと思うのだが、楽しそうにしていたかは分からない。「アクちゃんはいい子だよね」と三人でいると島崎は言う。「おれらがアクちゃんに話しかけるの、別に悪いことしてるわけじゃないけど、アクちゃんといると、なんかたぶらかしてるみたいに思えてくるんだよね。アクちゃんはでも、おれらを拒まないよね」「うん、アクちゃんはいい子だよ」種田はそこには同意した。「名波はどう思う」と聞かれたので答えると、「おれら悪いことしてるわけじゃないよな」と島崎がうなずいた。気持ちは分かる気がした。「あの子、遅くまでいても絶対に夜道を送らせないよね」と種田が言うと島崎も気がついており「解散の雰囲気にまぎれて自然といなくなってるよね」「警戒してんのかな」「おれ彼女いるし大丈夫だけどね。確か一人暮らしでしょ、大学の周りって変なやつ多いから、送るぐらいしてあげたいんだけどね」「もうちょっとよく見とくか」というやりとりの末に、アクには恋人がいるのではないかという話になった。即座にあり得ないだろうと結論が出た。島崎も種田もアクが誰かと付き合っているところは想像できないという意見で一致し、恋人に一体どんな顔をしてどんなふるまいをするのかも分からないと話していた。そのアクと数カ月後に付き合うことになるとは、そのときはまだ予想もしなかった。わたしは静かなままでいたい、と言ったときの顔を見たとき、こんな顔だよ、と島崎や種田に向けて差し出してみたいような気もしたが、言わずに通すことにした。一人の腹の中にアクの表情をおさめていたかった。それまでの「アクちゃん」ではなく「アク」と呼ぶと、たった三文字縮まっただけで世界が変わるような気がした。その強いニュアンスに対して首をまげて応えるアクの、ゆるやかな変化をすくいとっていきたかった。サークルのメンバー間でも、二人でいるときにも、アクの名字は使われなかった。忘れてしまったわけではないが、アクの名字を発音しようとすると、舌がうまく働かなくなるようなむずがゆさがあった。どんな名前であったとしても呼び続けることによって定着するもので、「アク」の他の呼び方は、遠近法によってか、アクを表すものではないように見えてくる。アクが自己紹介をしたときに「へえ、アクってかわいい名前だね」と沙藤さんが言い、「そうだね、ちょっとめずらしくてうらやましい」と角田さんが続けたのをきっかけとしたものか、今では名字で呼ばれたことがあったかを思い出すこともできなくなってしまうほどに誰もが隔てなく「アクちゃん」と呼んだ。よく通った定食屋で「アクちゃんはこのサークル以外ではなんて呼ばれてるの?」と沙藤さんが聞いたとき、アクの答えを聞いて、「えっ、意外。そうなんだ」と沙藤さんが大きな声を上げ、「先輩、そんなに声出しちゃ店の人に迷惑です」と島崎が人差し指を立て、「オバサンもちゃん付けで呼ばれてみたいもんだわ」と角田さんが箸をゆらしていたのは記憶に残っているのだが、肝心のアクが何を答えたのかはやはり思い出すことができず、あらためて聞くか、想像するしかなかった。そのときはまだ春先で、後のようにアクのことばかり考えてはおらず、むしろ卒業したばかりの別の女性との関係を一人で引きずっていたので、「ぼんやりした印象の後輩の女の子」のエピソードをことさらおぼえることもなかったのかもしれないと思うこともあるが、ぼんやりとした印象が裏返り、かえって記憶の中に姿を追わずにいられないところがアクにはあった。少し目をゆるませればすぐにでも存在を溶けこませてしまうハゼの水槽の前の女性が、前に読んだ本の一節、深い谷底に座っていた一人の女性に接した男の感じる、「いままで人の顔を前にして味わったこともないような印象の空白」という言葉に一瞬重なり、離れていった。今では書名も思い出せないが、その頃はよく本を読んだので、ちぎれた言葉がいくつも頭の中に溜まって、唐突に目の前に差し出されてくることがよくあった。印象の空白とはなんだろうか。輪郭がくっきりとしていればまだしも、その物体のおぞましさすらも感じられないとすれば、どうしてこれほど気にかかってしまうのだろう。そんなことを考えてえらそうにごまかしていたようだが、実のところは、しっかりとアクの肉体に欲望をあぶり立てられていたのかもしれない。中山間地域の夏祭りにボランティアとして参加した際のことが思い出される。遅れて現れた矢作さんが運転してきた軽トラックの荷台に乗りこみ、公民館の倉庫からテントを運び出した。動きやすい服装で、という事前の申し渡しをしっかり受け取ったアクのジャージ姿を見る初めての機会だった。「あの子すごいな」と沙藤さんが寄ってきて言ったことの意味が分からず聞き返すと、「男はうなじ好きだよね」と沙藤さんは言った。髪を束ねたアクの作業をする姿を目で追っているのがバレていたものらしい。沙藤さんは軍手を脱ぐと土の上に放り出し、ハンカチをワークパンツから取り出して煽いだ。「おとなしく見える女の子がふだんと違う格好をしてると、ぐっとくるのか青年」と笑っている沙藤さんの、ゆるく巻かれた長い髪が頬に貼りついていた。「照れちゃうところが若いよね。ただ君、去年は難波先輩狙ってたよね。あの人はどうにもならなかったけどさ。あはは、そうだね。わたしね、男は結局、見たいようにしか見てないのかって思うことがあるよ。まあそれは女も一緒かな」と言って離れていった沙藤さんは、今になって思えば、その後のことをすでに予見していたのかもしれない。祭りが始まり、気象庁から警戒が出るほどの高温になった。本部テントの暗がりに避難して座っていると早朝からの作業の疲れが目蓋にきた。昼食をとり、屋台の間を歩いていく人を眺めていると、明るい陽の下の世界と切り離されて時間が無関係に流れていく気がした。矢作さんが吸っている煙草の煙がゆっくり漂っていた。角田さんと沙藤さんは昼のうちから赤ら顔になっている地域の老人に新しい酒を注いで回っている。やわらかい透明プラスチックの容れ物にこびりついている炒飯の粒が気になったのをおぼえている。突っ伏して寝ていた島崎が額と目の縁を赤くして、携帯電話をいじっていた種田を引っぱり、屋台を見て回ろうと誘ってきたが、もう少しここにいたいと思って断った。「じゃあアクちゃん、一緒に行かない」と島崎が声をかけた。アクはついていき、それなら行けばよかったと立ち上がりかけたところに、矢作さんが「名波、ちょっとこっちに来て座りなよ」とパイプ椅子を勧めてきた。「名波は未成年だっけ。あっ、そう。じゃあお酒呑めるよね。まあおれらのころは、そんなの関係なかったけどね。今はアルハラって言葉もあるよね。ばかだな、吐くまで呑まされるなんて当たり前のことだったんだよ。そうやって限界を知っておぼえてくもんなんだよね。そいつの命にかかわるかどうかってことぐらい、慣れてれば大体分かるからね。おれ? おれは今日呑んでいいの。オッサンが運転してくれるらしいから。どのみち今夜はみんな公民館で雑魚寝だからね。名波もだよ。逃げるなよ」矢作さんの饒舌につかまると、うなずいて聞いているしかない。「最近さあ、どうなの。ぶっちゃけ。おれらが現役やってたころは、グリーン財団との付き合いもあったし、子ども集めて蝸牛(かたつむり)探したり、草笛や竹トンボ作りを教えたりしてたけどね。そういう活動してるって最近聞かないけど、やってるの。だよなあ。部長の種田君、まじめで好感がもてるやつなんだけどさ、ちょっと押しが弱いよね。新入生って、アクちゃん一人なんでしょ。アクちゃんはいい子だからさあ、まあいいとして、それとは別に、いずれあの子が勧誘したり、部長やったりすることになると思うと、ちょっと心配だよね。OBの余計なお世話かもしれないけどさ」矢作さんが肘をついたテーブルの上を一匹の大きな蟻が這っている。矢作さんの言葉は頭に滓を残しつつ流れていく。ビール瓶を持った沙藤さんと角田さんが来た。「先輩、あんまり後輩に絡み酒しないでくださいよ」「沙藤ちゃんも角田ちゃんもあと一年でしょ。三年は確か、あの、なんとか君っていう、落ち着きのなさそうな子だけだったよね。だいじょうぶなの、うちのサークル」角田さんは黙っており、沙藤さんが話した。「がんばってますよ。錦織君は研究で忙しいって話でしたよ」「ありがとう。やっぱり女の子に注いでもらうとおいしいね。研究で忙しいって、そりゃ理系は忙しくなるけどね。なんとか君法学部でしょ。あの顔で法の研究を熱心にやってるとは思えないよね。実は遊んでるんじゃない」「もうやだ、オジサンはこれだから困りますね。ちょっとは信じてあげましょうよ。それに最近は部室によく来るようになったんですよ」と沙藤さんが笑うと、「オジサンって言うけど、おれまだぎりぎり二十代だからね。どうもうちのサークル、滅びの予感がして悲しくなるんだよね。やっぱり続けてほしいよね」アクが島崎や種田の後ろをついて戻ってきた。矢作さんの顔色は酒をどれほど呑んでも変わらないが、目が一点を見つめて、すごみを帯びて見えた。「ねえアクちゃん、今日ジャージで来たんだね。すごいね。気合入ってるよね。ここにいる女の子で君だけだよ、ジャージ着てきたの。でもおれさあ、アクちゃんのそういうところ、ほんとにすてきだと思うよ。将来有望だよね。そのジャージどこで買ったの。へえ。うちの活動、ビオトープの中に入ったりもするから重宝するよ」矢作さんは四国の蜜柑農家の長男だったが、卒業してからは地元に帰らず、大学の周辺で、サークルで培った人脈を生かして働いており、頻繁に部室に現れては、部員をつかまえ饒舌に持論を述べた。菓子や実家の蜜柑が部室のテーブルに置かれ、下に汚いYの字のイニシャルの書かれた紙が挟まっていると、部室に誰もいないときに矢作さんが現れたということだった。飲み会にも必ず参加しようとするが、沙藤さんも角田さんも、「あの人に場所を教えないように」ときつく言う。「別の場所教えてもいいですか」と島崎が言うと、「そういうアホなことは頼むからしないでよ。ちょっと考えたら分かると思うけど」と角田さんがすごむ。「冗談ですよ」と言ってごまかす島崎も、二人のやりとりを難しい表情で聞いている種田も含め、部員が矢作さんを持て余しているのは明らかだったように思われる。祭りのテントから離れた草むらのかげで、角田さんが「滅びの予感? 滅びの予感ってなんだよ」と吐き捨て、沙藤さんが「どんだけわたしらが頑張ってるか、そういうのぜんぶ無視だもんね」とうなずいているのを見つけた。「言葉は呪いなんだよ。超越的な立場から気軽に呪うなよ」蝿が飛んでいくのが見え、角田さんのカーディガンの腰のあたりに止まったが、角田さんは気づかなかった。沙藤さんが続ける。「ジャージの件も、あれ、わたしらへの当てつけかな」「絶対そうだね。あれ、あの子に親切にしてるつもりかよ」「あの人、あの子の気を惹きたいんかね。逆効果だけどねー」こういう話を耳にするとその場を離れられず、気づかれないように聞き続けてしまうのは、正直に言うならおもしろがっていたのかもしれない。矢作さんをめぐってはいくらでも話を見つけることができる。たとえば矢作さんの持ってきた蜜柑を見るたびに角田さんの顔は曇る。部室のゴミ箱からゴミ袋を取り出すときに、〈お前は何様なんだよ〉とマジックで殴り書きされている腐った蜜柑が見つかることもあり、それを島崎や種田に示すと、「一体誰がやったんだろうね」と島崎は含み笑いをする。種田は「こういうの、おかしいよな」と言う。「愚痴が言えないんだろ。四年の先輩らも、あんだけOBにでしゃばられたら、ストレス溜まるのも分かるけどね」と話す島崎は、「おれは別にいいんだって。このサークルがなくなっても。こういう落書きもおもしろいけど、海に遊びに行くとか、ハイキングするとか、もっと活動的で楽しいことやろうよ。楽しいことやってたら人も寄ってくるって」と同じことを繰り返すのだが、島崎が語るたびに場が静まった。あの夏祭りの時間は、わたしは静かなままでいたい、という確かなアクの言葉を聞く一ヶ月ほど前のことで、すでにアクのことばかり考えており、島崎はあの日もしきりに走ったり、何度も屋台を回ったりと元気な顔をして動いていたが、目の前にないものを追いかけていくように楽しみを見つけようとせずともアクのいる場所にいようとするだけで十分になっていた。部室に通いイベントに参加する目的をアクが作った。サークルがどういう趣旨で作られたか、どういう歴史をもっており、何を志して活動しているのかということはどうでもよく、そういう意味では島崎に近かったのかもしれない。ぼんやりとしたところからアクの印象をつなぎ合わせようとしているうちに、水槽の前に座っているアクの顔に西日が当たっているのや、ブラウスの上から覗いている鎖骨や、祭りの日に髪を束ねているのが、肉体的な輪郭となっていつの間にか働きかけてくるようになっているのに気がついてからは、どうしてこの子に惹かれるのだろうという理由の部分を置き去りにしつつ目で追うようになっていた。沙藤さんがテント準備の際に話した通り、存在を主張しようとしないおとなしい子がふだんと違う格好をするようなとき、そのおとなしさがゆえに、当たり前のように肉体をそなえているという事実がかえって浮き彫りになり、惹かれてしまったのかもしれない。それらしく思える分析の言葉も今になってなんとか考えられることで、当事者としてそこに立っていれば、ただ見ているばかりだった。当時から本を読むのが好きで、何かしら人の考えないようなことを考えているというような心地よい錯覚を誇りにもしていた青年の言葉は誰を前にしても途切れ途切れに発されるばかりで、まとまったものは遅れてやってくるのが常だった。無邪気に誰でも「友だち」と呼べた小学生の頃を過ぎてしまえば、日増しに他人と「友人」と呼べる関係を築くことは難しくなり、「友人」とはどんな存在なのかも分からなくなって、口からついて出る言葉がすべて相手に届く前に落下していくように思われた時期があった。高まっていく緊張感の中で発した言葉が相手といつもズレていくような気がした。そのかわりに本を読んで頭の中に誰かの言葉を溜めた。人並の憧れから脱け出して太陽と番(つが)った海を探し出せると考え、本を読まない多くの同級生を軽蔑するようなところがあったくせに、大学に入り大学に呑みこまれてしまえば、ずいぶんと浮わついた言葉ばかり平気な顔で使っていたように思う。アクは溜めていたきれぎれの言葉をいくら放っても、いやな顔をしなかった。楽しそうな顔にも見えないのはいつものことで慣れてもおり、そのうちに見えてくるだろうとも思っていたし、気がつけば遅れそうになるアクに歩幅を合わせながら二人で歩くのは楽しかった。飲み会の後でこっそりと待ち合わせて歩いた夜の森林公園や、石を投げこみながら話した河原で、アクも何かを話していたと思うが、何を話したのかはやはりおぼえていない。夜の住宅街に二人の足音が反響した。言葉が跳ね返らないようにわざと小声で歩いていた。冷たくなってきた風にさらされているアクの肌は街灯の下で白く見えた。アクの望んだ静かな付き合いは続いた。関係を誰にも知らせず分からないようふるまいつづけているうち、たちまち想像していたような刺激が感じられなくなって、その行為もごく当たり前のものになってしまったことが、多少の物足りなさにつながっていたかもしれない。一般教養科目で、アクには知らせずアクと同じ講義を選び、あえて離れた席のアクの見える位置に座った。相手に気がつかれないよう、弧を描く大講義室のなるべく高い位置からアクを探すと、時間はかかったが見分けられた。隣に友人らしい者がいる様子もなく、アクは熱心にノートを取っている。アクから友人の話を聞いたことはなかったし、たとえ聞いたとしてもすでに忘れてしまっている。春先によく一緒にいた女の子は心身のバランスを崩して大学を休んでいたということを沙藤さんが噂で聞いてきたおぼえがある。アクが一人でいるというのは悪いことではなかった。大講義室を埋めている三百人以上の学生の中から、アクというたった一人の人間を発見し、目の前にしているという事実に快感をおぼえた。いつも机四つ、五つ分以上の距離を置いていることもよかった。その距離ならば、はばかることなくアクを観察することができた。授業の始まる間際、おもむろに隣に腰かけて同じ講義を取っていたことを明かしてしまうとすれば、一時的にはアクの変化する表情を見ることの楽しみがあるにせよ、どこに人の目があるか分からない世間のこと、二人の関係はきっと静かなものではなくなってしまうだろう。そうするのはやはりおもしろくなかった。アクが授業の終わりに荷物をまとめて振り向いたときは、あえて臆さずふるまい、目線を動かさず頭の位置を変えて講義室から退出したが、アクから言及されたことが一度もなかったことを思えばバレてもいなかったのだろうし、その瞬間流れるようにふるまえたことには後から興奮した。他のことに注意を向けると、たちまちアクは学生らの丸い頭の並びに溶けこんでしまい、見えなくなるようなところがあって気を抜けなかった。そのつど服装や持ち物や髪型などのアクの特徴を思い出し、隣の学生と比較する作業を行わなければならなかった。溶けこんでしまったアクの姿を再び見つけられたとき、また快感に身を浸しながら、同時に、これは本当にアクだろうか、という気もした。隣に座っている人間はアクと無関係の人間ではなく、島崎であるようにも思われた。いや島崎ではなく、錦織さんの姿にも見えた。一般教養科目である以上は誰がそこにいてもおかしくはなく、錦織さんなら、アクがいれば声をかけて隣に座るくらいするだろうとも思い、目をこらすと、それは錦織さん以外の誰でもないように思えてくる。どうして今まで気がつかなかったんだろう、先週も、その前も、アクの隣には、錦織さんが座っていたのではないだろうか。隣にいるのが錦織さんだと思えば思うほどアクの姿はぶれていき、いったん消滅したかと思えば、またアクに戻った。何かを錦織さんが隣に話しかけ、隣が首をまげてボールペンを差し出すと、その横顔はアク以外の女性の姿であり、錦織さんが退屈になったのか机の上に突っ伏すと、隣にいる後ろ姿はまたアクに戻った。いったん意識してみると錦織さんの挙動はいちいち大きく、隣に絡みつくような粘っこさが感じられたが、目をあえて講義のレジュメに転じてしばらくしてからもう一度アクを探すと錦織さんはどこにも見当たらず、かわりに後ろ姿のアクがひとり熱心にノートを取っているのが見えた。いくつものサークルを掛け持ちしているという錦織さんは、昨年ほとんどサークルの活動に顔を出さず、来たかと思えば、微笑みながら話を聞いているだけだった。角田さんや沙藤さんは当時唯一の一年生だった錦織さんを部長にするかどうかで迷っていたが、まだ卒業していなかった先輩らや、矢作さんから否定されたらしく、冬の終わりに種田が部長に就任するまで、二年続けて角田さんが部長をつとめた。「もう少し常識的に考えなよ、って言われたんだよね。わたしら難波先輩らのこと嫌いじゃなかったけど、あの言葉だけはいまだに根にもってるよ」と角田さんは言っていた。沙藤さんは角田さんのいないところで話していたことがある。「角田はああいう風に言ってたけど、角田も同じこと種田君に今やってるからさ。でも人って矛盾するもんでしょ? 錦織君はうまく逃げるけど、実際、あいつ賢いと思うんだよ。さすがに三年になったら部長やらそうと思って、とりあえず今年は書記やりなよ、って声かけたら、おれそういうの向いてないんです。すみません、ってまじめな顔で言うんだよ。ふだん軽薄なやつが、とつぜんまじめな顔するのってズルいよね」一緒に沙藤さんの話を聞いていた島崎が、「ねえ、沙藤先輩って、いつも腹の底で別のこと考えながら喋ってるでしょ。そういうのめんどくさくありません?」「めんどくさいよ。そういうこと平気な顔で言える君がうらやましいよ」島崎は、「ほら今も。腹の底隠してるでしょ。そんなに言いたいんなら、もっとハッキリ言えばいいのにって思うけど。みんなにいい顔はなかなかできませんよ。でも先輩みたいな人がいるから、うちのサークルは続いてきたんでしょうね」種田は後ろから島崎へ暗い視線を送っていた。思い返してみれば、あの頃アクがこういう話し合いの場にいることがなかったのは、新しく入ってきた人をサークルの混乱に巻きこみたくないという思いを、誰が口にしたわけでもなかったものの、一致してもっていたからではないだろうか。まだアクが入って来る前のことだったが、何人かで夕食をとったあと、解散の流れからふいに沙藤さんと二人、日をまたいでコンビニの前で話したことがあった。暑くも寒くもない日だった。下宿は徒歩でもすぐの距離にあったとはいえ、三時に近くなった頃には、どうにも「帰る」という言葉を使いづらくなっていたのは沙藤さんも同じだったらしく、「しょうがない、朝まで部室にでもいようか」という提案があった。反響する部室棟の階段を、沙藤さんの存在を感じながら歩いていると、廊下の突き当たりにある部室の扉から灯りが漏れているのが分かった。「めずらしいね、誰だろ」と話しながら歩いていくと、扉の奥から男性の声が、知らない女性の声にまじって聞こえてきた。沙藤さんが足を止めて袖をひっぱり、「帰ろっか」と声をひそめて言った。初めは誰の声か分からず、できるだけ足音を殺して近づいていこうとしたのだが、「そういうことしない方がいいよ」と言われて、ようやく声の主や、どういうことになっているのかが呑みこめてきた。それならいっそう近づいてみたい気もしてきたので、なお扉に嵌めこまれたすりガラスの長方形の光を見つめていると、「わたしやっぱり疲れたから帰るよ」と沙藤さんの手が離れて階段を降りていった。廊下を通る人間の存在に気がついたものか、扉の奥の声がいったん静まり、一分ほどしただろうか、忍び笑いが壁を伝った。引き返すと沙藤さんは部室棟の前で待っており、「あいつさあ、ああいうこと、けっこうやるんだよね」と言った。またコンビニの前に戻った。沙藤さんは「ここが落ち着く。ここがわたしの居場所」と大げさに手を広げてから煙草を吸う。「名波君はさあ、彼女ができたら、そいつを一生懸命守りたいって思うタイプ? ああ、そう。なんかさ、男って、女のことを守りたいってよく言うよね。あれねえ、わたしよく分かんないの。男からお前を守るよって言われて、その男のカッコよさをわざわざ報告してくる女もいるし、ほんとに目がハートマークになってるのもいるけど、実際はうちら大学生でしょ。守るって言葉を使うやつが、アルバイトもろくにせず親からの仕送りでバッチリ守られてるケースなんていっぱいあるし。守るなんて言葉が、だいたい言葉だけなのも分かってて、か弱いふりして、たくさん甘えていい思いをしようって冷えた部分で考えるのも女なんだよね」まだ部室にいる二人のささやき声が耳の奥に残っている気がしていた。沙藤さんは朝まで話しつづけた。「名波君はさあ、難波先輩のこと好きでしょ。まああの人は難しいけど、君のこと嫌いじゃないと思うよ。でもさあ、あの人、もう社会人にアタマ突っこんでるような感じだから、けっこう冷えてるところあるよね。ああ、わたしってヤな女だな。なんで人のことばっかり言ってんだろうね。ありがとう。まあそう思うようにするよ」くだけた調子で親密に話しているように思うこともあれば、すごく遠いところに立ち続けていっさい触れてこないようにも思われた。沙藤さんについて種田や島崎と話したこともあったのだが、種田は沙藤さんとはほとんど言葉をかわしたことがない様子だった。同じサークルに属していても、みながみなに対して同じ距離で接しているということはなく、誰かの肩越しにならば話せる場合でも、二人になれば話すこともなくなってしまうということもよくあるのだろう。島崎は「沙藤さんは、いちばん楽しくなさそうだよな」と言った。そうだろうか。あの頃、島崎の言葉にうなずいていたのは、同意したからではなく、関係を保つためでもなかった。では何のためかと言われると困ってしまうのだが、実際のところ、何一つよく分からずに生きていたのだ。あの場で誰がいちばん楽しく、誰がいちばん楽しくないなど、簡単に決められただろうか。楽しかったと言えることはたくさんあり、周りの人間への親密な感情を抱くことも多かったが、楽しかったことは記憶の美化作用によって楽しい思い出にされているだけかもしれず、楽しくなさが楽しさとまざりあい、親密さが嫉妬や嫌悪と重なり合っているようにも思え、日々は、汚れた空をかいくぐるマクベスの魔女のつぶやく、きれいであり穢なくもあるものによって、まだらに染め上げられているものなのではないかと思うことがある。角田さんと沙藤さんが部室にいるとき、二人は肩をつけ寄り添って窓の外を見つめながら、何かを喋っていた。真剣そうな声が聞こえたので、一旦開けた扉を、なるべく音の立たないように閉め、外から聞くことにした。心配したが二人は没入していたようで掛け合いをやめることはなかった。「近頃の社交界には、善人ぶった独り善がりが、あまりにもうようよしているよ」と角田さんの声がもっともらしい調子で言うと、「むしろ悪人ぶった方がいいのかな」と沙藤さんの声が弾む。「悪人なら冗談ですまされるところも、善人ぶってたら、世間じゃその人間を大真面目に取るからね」「ねえ角田夫人、男の人ってみんな悪いの?」「ええ、ええ、沙藤さん。みんなよ。例外なしに全部不良よ」よく聞いてみれば二人の言葉は読んだおぼえのある戯曲のものだ。二人で戯曲のセリフをつなげながら会話をしているらしく、それがおもしろかったものか二人はたびたび笑った。ふだん文学書を読むそぶりを見せない二人が戯曲というのも意外な気がした。「人間って、ずいぶん呑気なもんなのかもね。自分こそは誘惑にも引っかからず、罪も犯さず、愚かな行いもしないと思って、無事平穏に人生を渡ってるものって思ってる。ねえサトちゃん、このセリフいいね」「いいえ、角田さん。私たちはみんな同じ世界に住んでいるのよ。善も悪も、罪悪も純潔も、みな同じように、手に手をつないで、その世界を通っているの」「ホントなの、それ。信じられんよ。手をつなぎたくないやつが多すぎる」「まあね。ああ、わしはもう何も見たくない。何からも見られたくない。火を消せ。月を隠せ! 星々もだ、隠せ!」二人の笑い声が廊下にひびいた。扉を開けて部室に入ると、二人はもう互いの身体を引き剥がしている。角田さんの「おっす」という低い声が届き、沙藤さんは「帰るね」と言ってすぐ帰った。部室にアクしかいない日もあった。かつてチェリーシュリンプのいた水槽の前にアクが座っており、一人水槽を見つめている。後から種田が入ってきて、「アクちゃん、いつもありがとうね」と言った。意味が分からずにいると、アクは立っていき、冷凍庫からアルミパックを出して戻る。ペン立てに入ったカッターナイフを取るとアルミパックに刃を突き立て、凍りついた立方体状のものを取り出す。アクは水槽の蓋をずらし、指を手前側の隅に押しつけつつ、腕を水中へゆっくりと沈めていった。水底の砂を蹴立てながらハゼが飛び出してアクの指を突いた。爪の端から黒く細長いものがちぎれて水中に浮かんでいく。「目があんまりよくないみたいだね」と種田が言っているうち、水槽の底に、先ほどの細長いものが積まれていくのが見えた。溶けたアカムシがつまんだアクの指の隙間からこぼれていくのが分かる。ハゼが砂を蹴って飛びつく。山が崩れて浮かび上がりハゼの身体の上に載る。指からこぼれるものがなくなったのか、アクは水槽から腕を引き上げ、濡れた手を宙にかざした。アクのカーディガンに水滴がつき、暗い色が広がった。水槽に目をもどすと、ハゼは細長いものを口からはみ出させながら動いている。「名波はこいつの歯、見たことある?」と水槽をのぞきこみながら種田が言った。「あ、そう。おもしろいから、よく見てみなよ。けっこう鋭い歯がたくさんついてるよ。こいつは小さいからぜんぜん大丈夫だと思うけど、人間の拳より大きいやつもいて、そういうのはけっこう痛いんだよね。アクちゃんは、もっと大きいのを見たことある? えっ、ほんと。どこで?」種田の話を聞きながら、いつチェリーシュリンプが消え、ハゼが水槽に現れたのかを覚えていないことに気がつく。ふだんポンプの音を気にすることもなく、水槽というのはただアクの後ろにあるものとしてそこにあったから、ハゼの水槽と述べていたのもあやしいもので、アクがサークルに来た頃、水槽の中に入っていた生き物がなんだったかということも、実ははっきりとしない。ハゼがどういう生き物で、何を食べ、ふだん誰に餌をもらっているのかということも知らず、反対に、アクや種田がよく知っているということが不思議なことのように思われてくると、ふだん積極的に話しているところをあまり見ない種田の長い声もずれた場所からひびいてくるようで、応答しているアクも、別の人間が別の場所で動いているように思われた。「わたし、生き物ってあんまり見たくないんだよね」という沙藤さんの声が思い出される。ハゼに思い入れがなく、水槽のことをほとんど覚えてもいないのは、沙藤さんが水槽をのぞいたり餌をやったりしているところを見たことがなかったことや、生き物への言葉を聞いて、影響を受けていたからなのかもしれない。「どうしてですか」とそのとき聞いたのは誰だったか覚えていないけれども、次の沙藤さんの言葉は、声の高さや音まで鮮やかに思い出すことができる。「だってさ、生き物って死ぬために生まれてきてるでしょ。そいつが生きてるって分かった瞬間、死んでいくのが見えるんだよね」夏祭りのときに角田さんが、矢作さんの見えないところで、「言葉は呪いなんだよ」という言葉を吐いたのを隠れて聞いたが、言葉が呪いだとするなら、沙藤さんの言葉によって水槽の中の生き物は呪われたのだろう。その呪いをまったく知らない人間にとっては気にすることはできないし、はじめから呪いを気にしない人間もいる。ただし沙藤さんの言葉の通り、生き物が死に向かって動いているということは動かしがたく、アクが餌をやっていたハゼも、死ぬために餌を食べていたのかもしれない。ハゼは寒い日に死んだ。角田さんが「川に流してやろう」と言い、何名かついていった。足跡のつく程度に雪が積もっており、島崎が転びかけた拍子にアクの肩をつかみ、アクが持っていたバケツがひっくり返りそうになった。風のおさまりをはかって橋の上からハゼを落とした。ハゼは白い腹を見せて浮かび、風が立つたび波にゆれた。沙藤さんの言葉がまた思い出された。生きているものが死ぬには、誰かがそれを発見しなければならない。死はいつも誰かに見つけられて初めて明らかになるもので、それならば沙藤さんのように初めから見ようとしなければいいのではないかと思うが、ただ沙藤さんの場合は、見ようとしなくても見えてしまうのか、あるいは、見ようとしないふるまい自体が、見ることにつながっていたのか。種田とアクがアカムシを食べるハゼを見つめているのを後ろから見ていると、錦織さんが「今日寒いね」と言いながら入ってきた。「寒いって言ったくせに、ごめん、煙草吸っていい?」アクが差し出した灰皿を受け取りながら窓を開け、窓枠にもたれかかった錦織さんは、「やっぱ寒いね、ごめんなー」と言いつつ、煙草を吸い始める。種田はよく見る種田に戻り、アクもいつも通り水槽の前に座っていた。いつ手を拭いたのか分からなかったが、めくっていた袖をおろしており、カーディガンのしみも見分けられない。角田さんが来た。「錦織、お前、部室は煙草禁止だよ、外で吸いなよ、ほらっ」「じゃあなんで灰皿あるんですか。痛いよ」「知らないよ。ほら、煙吹きこんできてるじゃん。煙草のにおい消してからもう一度来い。後輩たちに気を遣わせるな、ばか。そういうの喜ばれないんだよ」沙藤さんと角田さんが、「今年になって、ほんとあいつよく来るね」「去年はぜんぜん来なかったくせにね。まあ見当はついてるけどさ。確かめてやろうと思って追い出したよ」と話しているところに、錦織さんは戻って来た。「やっぱりな」と角田さんがつぶやくと、「すみませんでした」と言って錦織さんは真顔になった。沙藤さんの言う、ずるい顔だろうか。「先輩に言われたらしょうがないんで着替えてきました。まだみんないますか。あ、あの人は別にいなくてもいいけど」「あの人、今日はまだいないよ」あの人、というのは矢作さんのことだ。秋を過ぎて冬にかかろうとしており、その頃になると、アクの前ではみなが口に出さずにいた言葉も、次第に「あの人」や「蜜柑の」や「滅びの」などと漏れ聞こえるようになっていた。「ねえ、そろそろいい加減にしてもらわなきゃ、みんなやってられないんじゃないですかね」と島崎が言い出したとき、あらためて反論する者はいなかった。「もうあの人、締め出しましょうよ。OBが口挟んでくるのは別におれ気にしてませんけど、みなさんがストレス溜めすぎるのもよくないでしょ。鬱憤晴らしか何か知りませんが、わざわざツバ吐きかけられて黙ってなきゃいけないっていう義務はないですよ」部室の扉にナンバーロックがついたのはそれ以降のことで、誰が取りつけたのかは知らなかった。日増しに風が冷たくなっていた。テーブルの上の「Y」の字は消えたが、扉にかけられたビニール袋いっぱいに蜜柑が入っているのを見つけた角田さんは、黙ってトイレに入っていき、しばらく出て来なかったという。「夏も冬も蜜柑だよな。すごい農家だよ」と島崎が笑った。「この間、ナンバーが7259になってたよ」と、あるとき錦織さんが言ったのは、<防犯対策>としてみなで示し合わせ、鍵をかけた後、番号を「1216」にして出ることにしようと決めていたからだった。誰の誕生日だっただろうか。「あの人はさあ、うちのOBらしいけど、うちらが入ったときはすでにOBだったんだよね」と沙藤さんが言う。錦織さんの「なんですかそれ、ホラー?」と笑う声に続けて笑う者はいなかった。「前からよく部室に来てたんですか?」と島崎が聞くのは何度目だっただろうか。「だからね、島崎君も知ってると思うけど、去年まではそこまでうるさくなかったんだよ」「ほら、じゃあなんで今年に限って来るんですかね。あの人はサークルの今後が不安だってよく言うけど、実はなんか別の目的があるんじゃないですかね」島崎の言葉の後、角田さんが顔を上げた。「あの人、うちのサークルにやたら思い入れがあるみたいだけどさ、本当はうちのサークルを滅ぼそうとしてるんじゃないの」そのとき腰に振動があり、手で隠しつつ携帯電話を取り出すと、『名波君、飯食おうよ』というメールだった。鍵がつくようになってから何度かこういうメールをもらった。部室の前で座りこんでいる矢作さんを見つけたこともある。「仕事が早く終わったから来たんだけどさ。なんでこの部屋、鍵ついてんの。番号、教えてくれると嬉しいんだけどなあ」矢作さんはゆっくり立って、「あーそう、まあ、名波はそう言うと思ったよ。じゃあ角田ちゃんに聞くかな。おれ、あの子に嫌われてるだろうから、ちょっと聞きづらいんだけどね。とりあえず飯食いに行こうよ」そうやって連れ出されてからは、何度か晩飯を二人で食べていた。牛丼や定食屋に矢作さんと入ったときは、まず店内に知り合いがいないのを確認する。知り合いに一度でも見られればサークルの人間関係に変化が生じるのが予想できた。それでも矢作さんと会うのをやめなかったのは、矢作さんと公衆の面前で飯を食うという些細なことだけで変わるものがあるということに刺激を感じ、今日もいない、けれどこれから入ってくるかもしれない、バレたらどうしようかと、スリルに酔うような気持ちがあったのかもしれない。「名波はさ、ボランティアしないボランティアサークルって、どう思うのよ」と、何度も同じ言い方で始める矢作さんは、名波なら丸めこめると思っていたのだろうか。「おれには正直さあ、角田ちゃんがこのサークルを畳みたがってるように見えるんだよね。知らないと思うけど、五月の水質調査だって、夏の祭りだって、あれぜんぶ、おれが地域の人とか学校とかの間に入って実現させてるんだよ。あのね、まあそれはいいの。OBとしてできることはぜんぶやりたいし、協力してやりたい。それに本当はもっとやれることあるんだよ。今年は一度くらいアクちゃんを山根さんのビオトープに連れて行ってあげたいんだけどね。種田君に言っても、あいつぜんぜん連絡しようとしないからさ。しょうがなく角田ちゃんに言ったら、ありがとうございます、考えてますから、の一点張りだよ。名波さあ、角田ちゃんって今、何やろうとしてんの。ボランティアしなくなったら、うちって何サークルなのよ」この人に今「アクちゃん」と付き合っていることをバラしたらどんな顔をするだろうと思いながら話を聞いていた。矢作さんは部室に来るとつねにアクの存在を意識しながら話している。誰かが「アクちゃん」と言うと必ず反応し、アクが喋るといちばんに答えようとした。矢作さんの話の中に「アクちゃん」という言葉がまじるたび、また出た、と数えながら聞いていた。「アクちゃんはいい子だね」という言葉が矢作さんから出ると、周りの人間が、さっと冷えていくのが分かる。かれらもそれまで同じようにアクのことを「いい子」「いい子」と何度でも言ったはずなのに、まるで「いい子」という言葉に「自分たちのアク」が汚されてしまったとでもいうように冷えた顔をした。アクは何も言わず水槽の前に座って、やはり誰の話にもうなずいているように見える。風の冷たい日が続いた。もはや誰もアクのいる前で矢作さんへの嫌悪を隠そうとしなかったが、アクは意見を述べず黙ってうなずいた。後で二人になったときに矢作さんのことや周りの人間の反応について聞いてみようとしたが、二人で過ごしている時間にまでサークルのことを持ち出すのもおかしい気がし、アクから何かはっきりした言葉を聞くのもあまり望まなかった。ではアクに対して何を望んでいたんだろうか。アクと二人でどんな話をしただろうか。わたしは静かなままでいたい、という言葉を聞いてから、アクの新しい表情や指の動かし方、まとまりのある言葉など、ゆるやかな変化をすくいとることができると思っていたはずだったが、本当のところ、はっきりとしたものを感じとろうとしたのは嘘だったのかもしれない。目の前のアクに何を望み、何を働きかけ、どんな成果があったのか、今となっては、あの一日を除いてはろくに思い出すこともできないということが、それを証明しているのではないか。何も考えず同じようにアクのことを「いい子」だと言っていたのではないのか。矢作さんは二人で食べているときもアクのことを話し、アクのことを「いい子」だと言ったが、うなずいて聞く以外に何かしただろうか。そんな日が続いた頃、錦織さんから電話越しに「この間、矢作さんと一緒に飯食ってたね」と言われた。ついに来たと思って答えると、「いやいや、別に名波君が矢作派でもかまわないんだけどさ、あんまり純情ぼんやり君だと、色々まずいことになるかもしれないよ」という言葉が返ってきた。「なんかまずいこと言った? いや、まずいこと言ってるのは分かってるよ。ごめんね。おれ、いつも茶化すんだよ。でも別に悪気はなくて、ただ、みんな色々気がついてないわけじゃないんだよってこと。あとおれがいつも茶化すのは、前に同じようなサークルを見てきたからなんだよ。正直、慣れっこだし、こうしてるのがいちばん楽に済むんだよね。まあ、矢作さんと飯食うのはやめた方がいいかもねー」通話した翌日の部室は静かなもので、錦織さんが何か話したとすれば感情を表さずにはいられないだろう角田さんも、ふだん通りの表情で雑誌をめくっていた。アクと話している錦織さんからはあれ以来、煙草のにおいがしない。ささやくように話しかけながら、肩に手をかけたり、もたれかかったりして笑っている姿に、前日の発言がかぶさってきて、なるほど、と思わされた。それならそれでよかったのか。いや、どう感じたとも今となっては言うことができない。錦織さんに対して感じていたものが、嫉妬や憎しみといった言葉を与えられる類の、はっきりとしたものであったとは思わない。何が起きようともぼんやりとしていて、ときどき輪郭がはっきりするような気がしたものは、すぐにぼやけていく。部室の中で行われている出来事は箱の中で行われる遠い戦争のように小さな声でひびいてくるばかりで、そうとなってみれば、どんなことも大したことではなかった。何度か大きな雪が降り正月が明けた。授業が始まり部室に来てみると、昨年までは毎日顔を見たはずの種田の姿がなく、かわりに矢作さんが背中を見せて部室に座りこみ、周りの人間と談笑している。種田は一月の間、一度も現れることがなく、授業にもいなかった。何度か電話をかけてもおらず、「ねえ、名波君、友だちなら、ちゃんと見といてあげないと。一度は家に行ってみたの」という角田さんの言葉を受け、そういうものなのかと思い下宿に行ってみたが、何度呼び鈴を押しても出なかった。種田は北関東の出身で詳しい住所を知らない。十二月に決まったばかりのゼミに連絡をしてみたところ、無断で休んでいるという話で、学生担当の事務員からの連絡には親すら出なかった。それから十年近く経ち、人生のうちには何度か知り合っていた人間が突然消えることがあると分かった。種田はいまだに連絡がつかない。その言い方は不正確で、本当はきちんと探す気もないのだから、周りの人間は消えるのではなく、消しているのだ。サークルは世代交代の時期で、本当であれば種田が仕切って次の役割を決めなければならなかったところ、急にこのようなことが起き、うろたえる人が多いかと思いきや、そうでもなかった。角田さんが仕切り、矢作さんが口をはさみながら会議が行われ、新しい部長はアクに、書記は島崎になった。書記くらい任されてもかまわなかったが、「名波君は、ちゃんとアクちゃんを支えること」と角田さんに言われた。「わたしも沙藤も院に行くからこれからも少しは顔を出せると思うけど、やっぱり今まで通りにはならないよ」と言われた。角田さんの顔はずいぶんさっぱりとしているように見え、そう島崎に話すと、「ハゼが死んで、新しい魚が見つからなかったからじゃないか」と言われた。その意味は他の言葉以上によくつかめないが、島崎自身、もう考えるつもりもなかったのではないかと思う。なぜ種田がいなくなったのかという話は、二人の話題にはならなかった。「角田さんも沙藤さんも、もうすぐサークルに来なくなると思うよ。大体あの二人、四年生で卒論やら院試で忙しいはずなのに、あんなに毎日手ぶらで部室に来てたのがおかしいんだよ。そんなにうちのサークルが好きだったのかな。名波はさあ、実際すごいよな。何が楽しくて部室に通ってるの。ほら、名波っていっつも、ぼんやりしてるところあるよね。おれねえ、実は名波がいちばんよく分かんないんだよ」島崎は、種田がいた頃には話さないようなことをたくさん話した。サークルのメンバーがひとりいなくなるということが、人間が相手に見せる角度に少しずつ変化を与えていたのかもしれない。沙藤さんが話しかけてくることも、沙藤さんに話しかけることもほとんどなくなったのも、種田のいなくなった影響かもしれない。島崎の言う通り、沙藤さんの姿を見ることもまれになった。「あいつもう二月になるのに、卒論まだ書けてなかったんだって。今、教授に怒られながらやってるよ。ばかだよねえ」と角田さんが言っていたのを、それから一ヶ月後に思い出した。沙藤さんに大学の食堂で会ったとき、沙藤さんは別の知り合いと食べており、型通りの挨拶をかわして離れた。沙藤さんに別の人間関係があるという当たり前のようなことも、毎日のように部室で会っていれば、おどろきにかわるものだ。いや、おどろいた理由はそれだけではない。考えてみると大学で過ごした四年間、サークル以外に距離の近い「人間関係」というものを築くことはなかった。ゼミの先輩や同級生とも卒業するまでただ同席するだけで、ほとんど話さなかった。だからこそ多くの他人にはサークルの外にも人間関係が存在するという事実の可能性を見ていなかったのかもしれない。サークルで築いた「人間関係」というのもずいぶんあやしいものだ。花見の後に流されて入ったサークルに、そのまま流されて過ごしてきたような気がする。「友人」とはなんだろうと考えていた高校生の頃と同じで、再三述べてきたように、あの頃、何一つ分かってはいなかったのだと思う。あの日、角田さんも沙藤さんもおらず、女性がいないのをいいことに、矢作さんも錦織さんも島崎もアクを囲んで遠慮なく話しかけた。その頃女性がアクだけになったと気づくや、三人の口調が揃って慣れ慣れしいものになっていくのが感じられた。三人の話題は部室にいる全員に共有されているように見えながら、実際のところは、島崎がカラオケに行く話をすると矢作さんがサークルの話をするといったようにばらばらで、ただ三人の男がアクへ前のめりになっていこうとするような空気があった。アクはやはりそのどれにも公平にうなずきを返しているように見えたが、一度トイレに立っていくと何十分も戻ってこなかった。「名波さあ、まだ分かんないの」とアクのいない隙に矢作さんが言った。「君がどんな鈍いやつでもさすがに分かってると思うけど、おれたち前からアクちゃんのことが好きなんだよ。あの子よく冗談言うし、おもしろいしね。だからおれたち、みんなアクちゃんと何かしらいい関係になりたい。この間、島崎がアクちゃんに、付き合おうよって言ったらしいんだよね。アクちゃんはまったく否定しないで、楽しくお話しながら一緒に帰ってくれて、玄関の手前まで送らせてくれたってさ。こいつ彼女いたのにだよ。とんでもないよなあ」「もう別れましたよ。部屋の中までは入ってないし、いいでしょ。まあうまくすれば部屋に入るくらいできるんだろうけど。でもアクちゃん、おれのことがとくべつ好きって雰囲気じゃないんですよね。だからどうしようか、ちょっと迷ってて」「ばか島崎、おれだって一度や二度、アクちゃんと一緒にお酒を呑んで、へべれけに酔わせて触ったことくらいあるんだよ」「矢作さん、前もそんなこと言ってましたね。それ犯罪でしょ。でもやっぱり拒まないだけなのかなー」錦織さんが続けた。「そこでね名波君、おれら三人話し合ったんだよ。敵対して奪い合うんじゃなくて、<みんなでアクちゃんと仲良くしよう>ってことに決めたんだよ。なんでこんな話してるかって言うと、名波君だってアクちゃんのこと狙ってるのに、かわいそうだろってこと」島崎が「二人の話を聞いて納得したんだよ。そういうことなら、もっと早く言えばよかったのにさ」と笑うと矢作さんが言った。「おれたち、名波を追い出したいわけじゃないから。みんなでアクちゃんと仲良くしようよ」隠し通すのも限界がきていると思った。ここでタイミングよくアクが入ってきたなら、すぐにでも手をつないで、二人が恋人同士であることを打ち明けてしまった方がいいんじゃないかと考えた。だが三人はひょっとすると、もう知ってたよ、と言うのかもしれない。でもさあ名波、それって、本当に付き合ってるの。きみらって、ふだんどんなことしてるの。そう聞かれたら何も答えられず、握っているアクの手を離さなければならないような気がした。そもそも二人は本当に付き合っていたのだろうか。島崎が、アクに付き合ってと言い、玄関まで送っていったというのが本当のことなら、島崎以上のことは何もしていないように思われる。矢作さんが語る、「よく冗談を言うおもしろい女の子」というのは、本当にアクのことだろうか。あまりにもアクに感じていたものと離れており、別人のことを話しているのではないだろうかと思ったが、それと同時に、いや、本当は分かっていたんじゃないか、見えなかっただけで、それもおそらくアクだろうと、頭の中で肯定していた。わたしは静かなままでいたい、というアクの言葉がよみがえる。アクに向けて使ったはずの「感動」や「愛」という言葉が頭をよぎっていった。矢作さんが鋭い眼で、「どうするの?」ともう一度聞いてきたが、何も答えられずにいるうち、アクが戻ってきた。男たちの視線が引きずられていく。アクがカッターナイフを取り出し、冷凍庫を開けて出してきたのは前に見たアルミパックだ。カッターナイフを突き立て、立方体状の餌をかき出す。指でつまみ、水槽の中に腕を突っこんでいく。後ろから四人でのぞきこんでいると水底で反応があり、死んだはずのハゼが飛び出す。「寒いからなかなか溶けないねー」と錦織さんが言う。「こいつって、ちゃんと育てたらどれくらい大きくなるんですか」と島崎が聞く。「この種類だったら、手のひらくらいの長さだね」と矢作さんが答える。ハゼがようやく溶けてきた餌をつつくのを、男たちは黙って見ている。アクが腕を引き抜くと、濡れた腕を見る。誰もハンカチやタオルを差し出そうとはせず、アクの腕が濡れるに任せている。「ウェルテルごっこをやりましょう」と思わず声を出していた。「この間ぼくの読んだ本の中に出てきた、シャルロッテっていう女の子が思いついた遊びです」錦織さんが突然のことにおどろいたように、「ウェルテルって、ゲーテ? 名波君って、本読むんだ。えらいね」と言うのを制してテーブルを片付け、アクを真ん中に動かし、円を描くように周りに男たちを置いた。ルールを告げると男たちはすぐに乗り気になった。シャルロッテにふんしたアクが、濡れている片方の腕を上げて、右から左へと回り始める。腕が当たった島崎が、「一」と叫ぶ。錦織さんが「二」と叫び、「三」と叫ぶと、次に当たった矢作さんが、「四」と言う。アクの回転がだんだん速くなって、島崎が数字を言う前に錦織さんが次の数を言ったので、数字をすぐに言えなかった島崎は、アクから頬を張られた。「意外に痛ぇ」と島崎がよろけて言うのにみんなが笑い、「おいおい、アクちゃん、次頼むよ」という矢作さんの声が飛ぶ。「本気でやりましょうよ。これおもしろいね、名波君。さすが」「導火線みたいにやるんです。ぐずぐずしてたら、頬っぺたをぴしゃりですよ」アクの回転がまた速くなっていき、誰かの頬が張られる。アクの腕はすっかり男たちになすりつけられて乾ききり、そのうちアクは腕を持ち上げるのが難しくなってきて、肩ごとぶつかり始める。「四十二」まできたところで、アクはふらついて誰かに倒れかかる。「アクちゃん、大丈夫?」アクはうなずいている。「別の遊びにしようか。名波、最高だよ。他の遊びはないの」と誰かが言う。「それじゃあ、蘆刈遊びをしましょう」と提案すると、もう男たちは目を輝かせて待っている。アクを別の場所に連れて行き、打合せを行う。めまいが治ってきたアクはうなずいて聞いた。部室に連れてもどると、三人とも絨毯の上に正座して、「ようこそお戻りくださいました」と頭を下げた。「けっこうきついですけど、誰が最初にやりますか」と聞くと、「ここはおれがやるよ」と誰かが手を挙げ、言われる通りアクの前に座った。アクはおもむろに男の顔の前に手をかざし、鼻と口を両手で包みこんで、ぎゅうぎゅうとしめつけ始めた。息ができない男は思いがけないアクの行動におどろいて、何度も絨毯を叩いたが、アクはやめようとせず、わたしがもういいって言うまで息をこらえていてほしい、と言った。それで納得がいったらしく、すぐに男はおとなしくなったが、アクがずいぶん長く手を離さないので首を左右に振り始め、周りから男たちの興味深そうな目を感じたものか笑いもこみ上げてきて、ついにアクの指の隙間から、ぷっ、ぷっ、と息を漏らしてしまう。すると、まだいいって言わなかったのに、と「蘆刈」のお遊さんにふんしたアクがすねた声で言い、指で男の唇をとじあわせたものだから、男たちは、わあっと盛り上がり、次はおれ、おれ、と声を上げる。またアクに息を止められて、男はもがき苦しみ、絨毯や水槽やスチールラックを叩き、顔を赤く膨らませながらも一生懸命頑張ったが、アクの許しはもらえず、アクに組み敷かれ、ハンカチを口に当てられる。次、次、と男が言い、また口をふさがれ、次、次、と叫び、息をこらえる。男たちが疲れてしまったところに、笑わないでくださいね、とアクは要求し、男たちのあごの下や、横腹をくすぐり始める。耐えられない者が二人、笑い転げてさらにアクに絡みつかれてじたばたし、ぜんぜん平気なのは一人、顔で分かったが、わざと笑っているように見せたのをアクに悟られ、頬っぺたをつねられる。痛いって言っちゃだめですよ、とアクは言い、手の甲や足先や首筋をやたらにつねり、男を刺激する。ただ本の中の人物を演じているだけなのに、アクは四人の女王様としてそこにいるように見えた。誰かがアクにすがりつくと、アクは、そういうのはルールにないの、と笑いながら蹴り飛ばすが、その行動によって男たちはますますアクにもたれかかった。最後には「痴人の愛」よろしく、男女五人で入り乱れ、重なりつつ雑魚寝をするのだった。誰かが笑い、笑うなってアクちゃんに言われただろ、と怒鳴り、足で押しのける。誰かが痛がっていると、ばかね、とアクが冷たい声で言う。アクちゃんじゃなくて、アクさんだ、いや、悪の化身だ! と誰かが言うと、いやいや、アクちゃんは本当にいい子だよ! と誰かが叫ぶ。二人で過ごした時間はほとんど忘れても、アクが主人で、誰が誰でもかまわなかったあの一日のことは、今でもよく思い出すことができる。夢か、それとも過去にそう言われたのか、「わたしあの子のこと、アクちゃんって呼ばないようにしてるんだよ」という沙藤さんの声を、朝方、腹に載っている男の脚の重みを感じながら思い出したこともはっきりしている。沙藤さんは続けた。「アクちゃんって、自分からそう言い出したくせにね。でもわたしさ、あの子見てると、なんかむしょうにイライラしてくるんだよ。ごめんね、君があの子のこと好きなのは、よく分かってるんだけどさ」朝になっても乱れたままで誰も目覚めず、顔を洗いに行くと、まだ昨晩の狂騒が耳に残っていた。「アクちゃんはみんなのもの」とつぶやき、部室に戻った。朝になれば夢は覚め、あの一日は二度とない。アクはあれからどうしただろう。十年も経てば小学生は高校生になってしまう。高校生の頃、ろくに小学生時代のことを思い出せなくなっているのに気がついた。どれだけ確からしく話そうとしても、アクのことをそれ以上思い出せないのは、そういうことなのかもしれない。先日、久々に道でアクのような面影を見つけた気がするが、あんな女の子は目の前に二度と現れないだろうし、たぶん気のせいだ。(了)