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枠と景

 

峯崎澪一

 

 

 

 

 

 硝子の音で目覚める。表面を古新聞に覆われた背の低い円柱の塊が、互いに侵蝕し合わないよう均等に距離を保ち、木製の平面の上に一列に並べられている。間隔は狭まるとも拡がるともなく、流れ込んでくる何もかもを拒絶して存在し続ける。感傷的に折れる指の先端が一列に新聞紙の筒状をひた、ひたとつけ加えてゆく。それだけが見えるのである。

 硬いテーブルに突伏して眠っていたせいか、胸の辺りが軋んでいる感じが止まなかった。外側に存在する何かしらの幾何学的な圧力によって心臓が揺さぶられているのではないかとさえ感じた。圧退けるように身体を反らして欠伸をすると、薄い目をした栞が僕の顔を横から覗き込んで嬉しそうに「おはよう」と言う。先端に向かって徐々に細まってゆく手首がしなやかに新聞紙を揺らしている。目の前を転がっていた置き時計は午後六時を少し過ぎた辺りを指している。 

 じきに雨が降り始めるという頃合だった。栞からの返信を受け取って既に一時間半が経過していた。インターフォンはいつまでも鳴らなかった。栞の意地悪い企みにいよいよ感づいていながらも、僕はぐずぐずとテーブルの縁から立ち上がることが出来ずにいた。やがて水が鳴り始める。次第に音は大きくなってゆく。締まりの悪い台所の蛇口が、ふとした瞬間にぶよぶよした滴を零して、その度に厚みのない金属がぴ、ぴ、と音を立ててゆく。頭蓋の内側に生々しい粒状の液体が落ちてきて、それが波紋をつくればよかったのだけれど、液体の塊は溶けることなくたえず微細な運動を繰り返すばかりである。

 結局、僕は外に出てゆくことになった。

 玄関のドアを開け、マンションの入口まで下っていこうとエレベータまでの渡り廊下を進んでゆく。マンションは一つの建物の中に幾つもの部屋が埋込まれていて、その数だけ同じ形をした扉が存在し、その外側に立っていると内と外の区別が曖昧になってくる。皮膚を抑え込む湿気の重圧が脇から流れ出てくる家庭の匂いと混じり合うかと思うと、水と油がそうなるように、いつの間にか明確に分離している。エレベータに逃げ込む気持ちで自然と早足になっていると、途中で彼女の姿が目に入った。階段の踊り場で外向きに柵へともたれ掛かり、頭上の薄黒い厚みが重なっている辺りへと視線を投げている。何を見つめているのか判然としない、自分の内側に引きこもっているような目つきをしていた。時折小雨が白い線になって彼女の頭を逸れてゆく。蝸牛のようだと僕は思う。

「こうでもしないと、君、外出てこないから」

 栞は右手にスーパーの袋を提げていた。また食器買っちゃった。薄らと表面が透けている空間の中で、握り拳程度の大きさの黒ずんだ物体が硬い音を立てて互いを圧退け合っている。空いている方の手で彼女は口元を隠すので、口の動きを伝える頼りとなるのは声の感じだけである。袋を受け取る際に何気なく触れた掌はひどく冷たかった。どれくらいここにいたのかと尋ねると、大体三十分くらいと無邪気な口調で答えるので、僕は殆ど仕方ない気持ちで、勢いを増した雨が本格的に吹き込んでくる前に、栞を連れて四階の端にある自室へと逃げ込んでゆく。

 部屋に入っても外気に包まれている感じが抜けなかった。家具はそれほど多くなかったが、その分だけそれらは物質的な硬さを帯びて、目の前に切実なものとして迫ってきた。線が、形が、色彩が、視界の枠組みに窮屈に填まり込む。遠近感が掴めなくなる。何となく疲れてきて、室内から目を背けようと思った。平面に沈む。気がつくと僕は公園の敷地内に立っていた。自宅のマンションから向かって右側へと歩き続け、踏切を渡った後、私道へと逸れたところでようやく見えてくる小さな児童公園である。実際にはもう長いことその場所には訪れていない。ただ不思議なことに、僕はその風景を鮮明に記憶していたらしかった。正面に木製のベンチが二つ、右手には赤白い色をした直角のブランコ、その脇に平行と垂直から形作られる鉄棒が三つ並んでいて、向かい側では腹から生えた発条で地面に突き刺さっているパンダの形をした乗り物が、斜めに捻れて僅かに外側を向いている。濃縮された幹を伸ばす枝垂れ桜の大樹が、敷地の外から内側に向かって白い葉を広げ、風が吹くと激しく身を揺らして梢が地面を擦りそうになる。陽射しが高い位置から足元の砂を一粒一粒輝し上げていた。

 影が幾つか蠢いていた。老人、親子連れ、小学生の集団……はっきりとそう認識出来たわけではない。影の形や動きから、辛うじてそれと判る程度であった。彼らは決して僕に顔を向けようとはしない。彼らには顔がなかった。動いて、立ち止まって、しばらく経つとまた動き始める。彼らはそういった動作を僕に見せるだけの物体にすぎなかった。やがて雲が出てきて陽射しが途切れた。影は地面に溶けて見えなくなり、黒々とした液体となって僕の足の裏を流動し始める。いよいよそれに飲み込まれそうになったところで、ようやく目が覚めたのだった。雨音は依然として外で鳴っていた。

 栞が硝子の塊から一つを手に取り新聞紙を剥がした。透明なコップが姿を顕わにする。「きれい」と栞は呟く。彼女はコップを台所まで持ってゆき、軽く濯いでから、水をいっぱいに注いで僕の目の前に差し出した。調子悪そうだったからと彼女は言う。受け取ったコップを天井の電灯にかざしてみると、ぼうっと透けた白さが遠かった。そのままの姿勢で一気に飲み干すと、白さが喉に詰まり、重たくなった気がする。

 

*

 レースのカーテンが透かす外側には何も見えなかった。真夏の太陽があらゆるものを眩しさの中へ吸い込んでしまって透明だった。「良い天気だね」と無邪気に窓を開けた栞の横顔は、何となく僕を幸福にさせた。空白に流れ込んできた彼女の肌の色も、形も、線の細さも、実際はよく判らない。ただ感覚として肌の内側に這入り込んでくるばかりである。

 僕と同じ美大の同期だった彼女は、僕が随分長い間大学に顔を出していないことを心配しているらしかった。しかしそのことをあえて口に出すようなことはしなかった。風が流れ込んでくると、栞の細い黒髪は頬の表面を擦りつけるばかりになる。口元が緩やかに開かれ「たまには散歩でもしようよ」と素っ気ない口調で言う。出来るだけ僕を傷つけたくないのだろう。明るい陰りがちぐはぐに縺れた表情が語っている。

 スウェット以外の衣服に袖を通すのは久しぶりだった。僕は意外にもその気になっているらしかった。これだけは特別なのだろうと、頭の中で言葉が鳴る。言葉が危なく口元から飛び出してきそうだったので呑み込んだ。三十分ほどかけて外出用の服を選び、苦労して着替え終えた僕を見て栞は「どうして長袖なの」と笑う。そう言う彼女も袖の長いカーディガンを羽織っていたことを指摘すると「これは夏用だから」と曖昧な答えを返した。「君は流行とかわからないでしょう」

 吸い出されるように外へ出る。マンションの一階のオートロックを抜けると様々な物が眼球の表面にぶつかってきた。アスファルトが正面へと真っ直ぐに伸びてゆくその沿線上で、木の幹が黒褐色をきつく締め上げ、煉瓦で囲まれた土の区画から垂直方向にそそり立っている。長方形の電光看板が奥に隠れ、群青色の下で広がる白い壁を阻み、台形状に遠くの方へと拡がってゆくと思いきや、末端で色の薄い空気と緩やかに混じり合ってゆく。僅かに質感の異なる家々の表面は絶え間なく横向きに拡がり、一つの幅が広い遮蔽物を形作って、それが結果として車道の一本線を生み出しているように見える。その路肩で、前頭部ばかりが肥大化した乗り物が一台止まっている。窓枠の中では楕円形の影が揺れている。

 僕自身がぼうっと立ち尽くしていることに気がついたのは、いつの間にか握られていた手を栞に弱々しく引かれていたからだった。「どうしたの」と傾げる首が、心配から生じる同調をひた隠そうという試みの感情の動きであるということが、僕には理解出来た。

 一歩前を栞は歩き、僕はその背中を逃がさないように追ってゆく。この位置関係がしばらく続いた。「これじゃあ、二人で散歩しているのかわからないね」不意に振り向いた栞は困惑の笑みを浮かべている。「ごめん」と咄嗟に言葉が口から飛び出した。どうして自分が謝っているのか僕には判らなかった。栞も不思議だったらしく「私は笑っているんだよ」と不自然な説明口調で言って、それ以降僕たちは並んで歩くようになった。握っていた掌は汗ばんでいた。

 歩いている間、たえずつきまとっていた感覚に頼り切っていた僕は、殆ど何も見ていなかったのだと思う。「あ」と栞が小さく声を零して立ち止まった時、僕はやっと自分の周囲の状態を認識したのだった。自宅から徒歩で十分程度かかる駅まで向かい、その周りをぐるりと一周した後、行きと同じ道を戻ってきてマンションへと帰ろうとしていた途中だった。栞の視線は一点に注がれていた。視線の延長線上に僕も目を向けてみると、車道の端にしゃがみ込んでいる男の姿があった。膝の上で目玉の出張った分厚いカメラを構え、歩道を挟んだ位置に立てかけてあった錆びた看板に狙いを定めている。看板には「飛び出し注意」の文字、その隣には右手を挙げ、左足を前に出し、その体勢が現実的に平衡感覚を失っているものだから、いびつな造形になっているアニメのキャラクターの絵が描かれている。このまま歩道を進んでゆくと撮影の邪魔になるからと栞は立ち止まったのだろう。カメラを覗き込んでいた男は、その場に立ち尽くす僕たちの存在に気がつくと軽く頷く仕草をとって一歩引き、歩道の線をなぞるように片腕を動かした。栞は頭を下げて歩き始めるので、僕も同じように進む。通り過ぎた後でシャッターの鳴る音が聞こえた。

 

*

 栞はあまり外に出たがらない僕に対して「毎日必ず一度は散歩をすること」を義務として課すようになった。それは彼女なりの気遣いだったのだろうが、義務を一日でも怠ると栞はひどく不機嫌になり、僕が謝るまでマンションに一切来なくなるようなことすらあった。そうなると僕は非常に困った。時々彼女が部屋に届けてくれていた食料こそが、部屋から一歩も出ない僕にとっての唯一の命綱であったからだ。彼女が来なくなると、否が応でも僕は買い物へ出ることを余儀なくされる。目的のために外出するということは、僕にとって最も為難い行為のうちの一つだった。だからそういう状況に陥ることはなるべく避けたかった。いつしか僕は上手い具合に栞の企みに乗せられていた。

 散歩には栞が一緒についてきてくれることもあれば、僕一人で行かなければならないこともあった。彼女には僕と違って外の世界があった。

 一人で散歩をする時は、道中で撮った写真をメールに添付して栞に送ることが規則になっていた。そのため僕は近所の風景を何枚も写真に納めていた。やがて携帯のカメラを覗き込んでいる時ばかりは、外に出たくないという気持ちも何となく軽減されていることに僕は気がついた。外出の際、携帯電話は僕の必需品になっていた。

 公園を散歩していて老人に声をかけられたことがある。むやみやたらに周囲のものに携帯電話を向けていた僕に対して、老人は文庫本を膝の上で広げながら隅のベンチからちらちらと視線を注いでいた。そのうち彼は立ち上がると緩慢な動きでこちらへ歩み寄ってきて「さっきから何をしているんかな」と、背後から画面を覗き込みながら言うのである。「写真を撮っているんです」と月並みな言葉を返すと、そんなの見ればわかる、と前のめりになっていた身体を無理に後ろへ反らして笑う。

 写真じゃ完全に風景を写し撮ることは出来ないと老人は言った。風があり温度があり触った時の質感があり、そうして初めて風景なのだ、写真はただの絵にすぎない、ただの模様にすぎない。なるほど確かにその通りかもしれないと思った。老人はひとしきりのことを喋り終えると眉をひくひく上下させながら自分が元々座っていたベンチへと戻っていった。二、三度腰を浮かせて座る位置を変えてから、手元の文庫を開いて右手の親指と小指で挟み込む。表紙に浮かぶ色彩と形が周囲に奇妙に同化して、張り詰めながら徐々に融け合い、僕は携帯電話をすっかりポケットに仕舞い込んでしまっていたことに気がついて、慌てて取り出す。

 

*

 部屋の中は蒸し暑く、冷房をつけても肌を垂れてゆく汗が引く気配はなかった。ぬるめの温度でシャワーを浴び、身体から水分を完全に拭き取ってからリビングへと戻ると、いつの間にか部屋に入ってきていた栞がテーブルの上に何かを並べていた。形や大きさに規則性はないものの、よく見てみると、それは彫刻のような木製の細工品だということが判った。彫刻、空間、彫刻、空間、彫刻……等間隔に配置されたそれらの物質は互いを圧し合うことも包み合うこともしない。華奢な手つきがその硬さの数ばかりを増やしてゆく。栞は僕の存在に気がつくと楽しそうに身体を揺らした。いつ来たんだと僕が尋ねると「鍵、開いてたよ」とこちらも見ずに言葉を返す。カーテンの開いている掃き出し窓が透過させる西側からの陽射しは既に弱々しく、じきに黒く溶けた影が部屋の中まで入り込んでくる予感がする。

「一体これは何なんだ」

「君の部屋、殺風景でしょう。何でもいいから置いた方がいいと思って」

 栞は彫刻の一つを手に取り、「どこに置こうかしら」などと一人で呟きながら部屋の中を忙しなく歩き回り始める。まずキッチンからリビングへと向かって突き出た棚の上に彫刻を一つ置いた。向きを微妙に調整して、気に入った感じに配置出来たらしいことがわかると、テーブルまで戻り、もう一つを手に取る。今度は西側の出窓の端に彫刻を置いて、これでよし、と小さく頷く。テーブルまで戻って一つ置いて、テレビボードの脇に置き、テレビの向いている方向とちょうど同じ方向を、正面が向くように少しばかり角度を変える。テレビの向きを僅かに右側にずらす。テーブルから今度は三つ取って、リビングを出るドア付近に設置してあった本棚のそれぞれ一段目、二段目、三段目に、本を取るのに邪魔にならない位置に据える。ソファの脇に並べてあった小デスクの上にも一つ置く。まだ五つほどテーブルの上に彫刻を残した状態で、何かに気がついたように先程本棚の二段目に置いた彫刻の位置を、本棚の右端から左端へと移動させ、「ここに置いた方が雰囲気出るね、見栄えがいいね」と満足げに頬を綻ばせる。

「やめてくれよ、変な感じがする」

「別にそんなことないでしょう」

「息苦しいよ、すごく」

「そうかな、楽しい感じがすると思うんだけどな」

「君の考えを持ち込まないでくれ」

 栞はふぅんと息を零して本棚の三段目に置いてある彫刻をしばらく眺めていたが、まぁいいやと丸めていた背中を伸ばすと僕の立っている場所まで跳ねる足取りで向かってきた。伸ばしていた前髪が目元を隠して目線をはっきりと見ることは出来なかったが、彼女が何か楽しい企みをしていることは予想出来た。実際それは当たっていて、彼女はスカートのポケットから文字のプリントされた長方形の横長を二枚取り出し、端の方で折れていた部分を人差し指と親指で摘まんで真直ぐに伸ばしてから、そのうちの一枚を僕に向けて差し出した。

「展覧会のチケット。先輩がくれるって言ったから、二枚貰ってきちゃった」

 反射的に受け取ると、それを手にしていたはずの白い手が、こちらに圧しつけるように力をかける。反動で後ろに退いた栞は「明日ね」と拒絶を許さない口調で言い残すと、部屋の隅に縦に積んでいた収納ケースの一番下から白の生地に青の水玉のバスタオルを引っ張り出し、立ち止まる様子も見せずリビングを出て行く。僕は手元に置き去りにされた紙切れに目線を落とす。やがてシャワーの渺々とした音が聞こえてくる。遠い鼻歌の混じった水滴が落ちてゆく破裂は程よく澄んでいる。全てが透けているというのは悪い心地がしない。

 

*

 最寄りから五つ駅を越えた後、ターミナル駅で本線に乗り換え、それから三十分ほど電車に揺られた場所に会場となる美術館は位置している。街中の風景を電車が抜けてゆく間、栞は子供のようにシートの上で腰から上を捻り、「良い天気だね」と窓の外を素早く流れてゆく色彩や形に対して目を細めていた。普段より暖かな感じが肌に当たっていた。時折差し込む強烈な陽の光や建物の陰も、その感覚を壊すことはしなかった。「眩しい」と栞は言う。電車が目的地に着き、車両に備わっていた四つのドアが一斉に開いて下車を促してきた時、僕はほんの僅かに気味の悪い感じを催した。

 展覧会の会場は広かったが人影はまばらだった。平面のフローリングを遮るものはそれぞれのフロアの中心で出っ張っているショウケースだけで、白い壁に沿って展示品の絵画が周囲を覆っている。額縁の大きさやその中に盛られている絵の具の感じが不規則なのにも関わらず、律儀に等間隔に設置されていた絵画の数々は、それぞれの抱え込む四角形の内側へと引きこもってゆくように視界から遠のき、その残滓は浸透して、迫ってこない。僕を連れようと手を引いた栞の腕を僕は思わず振り払ってしまった。彼女は驚いた表情を浮かべて周囲と同化していた。僕は誤魔化すように表面に笑みを塗りたくって、彼女の隣まで進み、少し前を歩こうと思った。栞は音も立てず僕の後ろをついてきているようだった。

「今日の君、何だか活き活きしているね」 

 その言葉がなければ、僕はいよいよ栞の存在すら忘れようとしていた。 

三十分かけてフロアの一つを回り終えた時だった。階段がなかったので、上の階へと進むためにフロア端でエレベータを待っていた。栞は僕の服の裾を掴んで目尻を下げ、曖昧に笑みを浮かべている。視線が落ち着く先を失っている。どこを向いても跳ね返ってくるという具合だった。

「君はちょっと困ってるみたいだ」

「そんなことないよ」

「僕にだってそのくらいはわかるよ」

「そんなことないってば」

 エレベータが上の階から降りてくる。扉が開くと中に小学生くらいの女の子が一人で乗っているのが見えた。彼女はフロアに着いても一向に降りようとしなかった。どうしたのかしら、と栞が小声で言った。彼女は僕の脇を通り過ぎてエレベータの中へと入ってゆき、しゃがみ込んで女の子に話しかける。女の子は返事をするどころか栞の方に顔を向けることすらせず、真っ直ぐにエレベータのボタンに視線を注いでいる。扉が閉まってしまう前に僕も乗り込まざるを得なかった。僕がエレベータの中に足を踏み入れると、女の子は肉の分厚い人差し指の先で「閉」のボタンを圧し、続けて上階のボタンを圧した。「エレベータガールかしら」と栞は無邪気な声を零した。「ね、エレベータガールみたいね」

 栞はフロアの警備員にエレベータ内の女の子のことを伝え、親を探してあげてほしいと頼んでいた。その間に僕は一枚の絵画を眺めていた。それは所謂ドロステ効果を使用した作品で、周囲に牧歌的な風景が広がる中で、黒い喪服を着た老いた男性が丸椅子の上に腰を下ろし、キャンバスの中に自分が絵を描いている様子を描いている。キャンバスの中の老人も同じように丸椅子の上に腰を下ろして、キャンバスの中に自分が絵を描いている様子を描いている。それが永遠に繰り返され、最終的にキャンバスの中の老人はそれと識別出来ないほどの小さな黒い点になっている。だがその黒い点さえもが、丸椅子の上に腰を下ろして、キャンバスの中に自分が絵を描いている様子を描いている。僕は何故だか恐ろしかった。いつの間にか僕の隣に立っていた栞が「君、前はこういう絵ばっかり描いてたよね」と耳元で呟いた。確かにそうだったかもしれないと僕は思った。目の前の絵画は内側へ近づきながら遠のくように圧し寄せてきた。

「さっき君さ、私が困ってるみたいって言ってたでしょう」

 帰りの電車の中で不意に栞が言った。向かいのシートの上部に取りつけられた窓枠に、ビルや住宅の輪郭が詰まって互いにひしめき合い、西日の黄色さに浸み透りながら直線のおぞましさを歪めていた。その光景が目の隅に留まって離れなかった。栞の声は実直な感じを帯びていた。

「私、今日の展覧会行ってね、自分の絵に自信が持てなくなっちゃったみたい。何だか君の方が、こういうのはずっと向いてるなあって」

「君は僕より勉強してるよ」

「目が違うんだよ。私は目が悪いの、ものすごく」

 僕たちの会話はそれきりだった。ふと隣でシートに腰を沈ませている栞の方へ顔を向けてみると、彼女の伏せた睫毛は何かに甘えているようだった。髪の毛から僅かに飛び出す耳の頭はしらじらと狼狽しており、カーディガンの布の下で浮腫んでいる小さな鎖骨が神経質に弛んでいる。スカートの上で落ち着きなく絡み合う右手の人差し指、中指、薬指、左手の親指と中指はいとおしげに彼女自身の全てをなぜつけ、緩やかに内側へ渦巻きながら混ざり合い、一つの形とも無形ともつかない塊を練り上げてゆく。そうして出来上がった塊は、生々しく僕の眼に媚びてきた。

 雨の音が聞こえてくる。

 

*

 一つのビニール傘に二人の身体を寄せていたので窮屈だった。眼前を落ちてゆく水が弾く音よりも、栞が提げているレジ袋の中でがこん、ごつんと缶ビールがぶつかり合う音の方が近い。僕はとにかく酩酊したいらしかった。リビングに戻ると程なく二人で一ダースの缶をすっかり開けてしまった。意識が遠のくに合わせて熱が身体の輪郭をなぞって滴る。ふとテレビボードの上に居座っていた木製の彫刻から強い凝視の感じがあった。彫刻は前足と後ろ足と尻尾がついていたので動物のようであったが、先端に頭部がない。僕はその動物をしばらく眺めていた。栞の声が聞こえる。リビングから出て、自分の部屋を覗いてみると、彼女は膝を立てて下半身をフローリングに投げ出し、上半身だけをベッドの上でくみ交わした腕の中に深く埋めて眠っていた。蒼白い横顔を見下ろしていると、いよいよ外側の熱気が鬱陶しくなってくる。僕はシャワーを浴びることにした。外側に纏わりつくあらゆるものを洗い流さなければいけない思いに駆られていた。しかし皮膚のぎりぎりまで迫ってくる熱は幾ら水を浴びても落ちることはなかった。そのうち身体の内側から吐き気が込み上げてきた。

 風呂場から出ると栞の姿はなかった。ベッドの上には人が眠っていた痕跡もない。掛け布団が外周の直線と角を張って、その中にも外にも人の侵入を許さない長方形を描いている。硝子の音が聞こえる。僕は壁一枚を隔てたリビングの有様を脳裏に思い浮かべた。――それは非常に容易な企みだった。透明なコップがキッチンの棚からリビングの側に向かって落ちていった。西側の出窓とテレビの脇と本棚とデスクの上でぱり、ばり、ばりぃぃんと立て続けにコップが割れてゆく。破片が足元に散らばって、ばらばらになり、踏むと足の裏に刺さってしまいそうだったので、僕は爪先で足の踏み場を探しながら硝子の洪水を抜けてゆく。玄関で靴を履いて、傘は持たないままに外へ飛び出す。外は先程よりも大雨になっているらしかった。渡り廊下を進んでゆくとちょうどエレベータが止まっていたので乗り込む。女の子が行き先を決めるボタンの前に立っていたので、「一階にお願いします」半ば叫ぶように言った。爪の短い人差し指が一階のボタンを圧してぐにゅううと先端が反り返る。

 マンションから飛び出すとしばらく走り続けた。何かに躓いて仰向けに転んだ時、ようやく僕の足は止まる。僕は児童公園の敷地内にいるのだった。枝垂れ桜の大樹が緩やかに広げる色のない葉だけが、濃い雨空との間で水滴を受けながらざぁざぁとしなっている。葉は風が吹くと大きく上下に揺れ、梢が僕の頬を掠めそうになる。その時だけ、葉は透き通るほどの黒色を内側から覗かせた。それは脱色された黒色だった。

 僕の外側で僕が影になって公園の中を歩き始めた。地面に背中をつけて風景の天井を見つめているだけの僕に、その動きは見ることが出来ない。しかしそれは紛れもなく僕自身だったので、僕にはその歩き方や仕草や表情を生々しく感じることが出来た。公園の外では顔のない影が歩き回り、降り止まない水に身体を溶かして、建物の壁や公園のフェンスやコンビニの電飾と重なると何も見えなくなる。内側にいる僕だけが、かろうじて形を保てているようだ。僕の影は次第に幾つにも分裂し始める。その中には彼女の影も混じっていた。その時僕はようやく声を張り上げた。僕の声が聞こえたのか、彼女を残して僕の影は公園の泥土に流れ始め、茫然と立ち尽くす彼女はしらじらと幸福そうだった。僕自身にも幸福な感じが暗い明かりとなって浸み透ってくるのを感じた。

 突然顔に光が当たった。見知らぬ男が僕に分厚いカメラを向けている。

(了)

2015年に誕生した

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