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化猫日記

 

光枝初郎

 

 

 

 

 

第一回

 

端緒

 

 しとしと、激しくはないが小さい雨粒が粘っこく、乱暴な男から放出される体液のように執拗に降りつづける雨の日だった。僕の視点は、左折する道路と、その脇に四世帯が住むこぢんまりとしたアパートメントの建物を捉えていた。住宅街を突き抜ける道路の交差点で、灰色の大きなジープが胡散臭そうに通り過ぎて行った。僕は恋人と手を繋いでいた。二人とも並んで傘を差していた。透明なビニール傘には、雨粒がだらだらと付着し、垂れ下り、アスファルトの地に滴り落ちていく。雨は世界を見えにくくしていた。

 公園に隣接するアパートメントを僕らは通過しようとしていた。六月だったか七月だったか、公園の木々は緑々としていて、健康的なイメージを放っていた。このままさらに道路を右折すると、僕の家が見える。その時に既に〈予感〉があった。

 〈予感〉はこう告げていた。何かとてつもなく悪い、悪いというのが適切でなければ法外な、現実感覚からはとても離れていることが起きる、それを「君たち」は目の当たりにするのだ、と。僕は疲れた手でビニール傘を持ち、もう片方の手で恋人の手を引っ張りながら、家に近付くに連れて途方もない〈予感〉が大きく高鳴ってゆくのを感じた。僕は吐き気を覚えた。

 雨は依然として変わらぬ勢いだった。決して大きくはない雨粒の上から下へのたゆまぬ流れが、視界を覆い尽くし、世界はぼんやりとしていた。あらゆる境界も曖昧なものと成りつつあった。雨は道路を流れ、そのまま排水口に流れ込んでいった。僕は理由のない緊張に襲われた。固くなった僕の皮膚感覚を、手を通して恋人も敏感に感じとったかの様であった。いよいよ僕らは公園の先に行った所を右に曲がった――。

 そこからは我が家が見えた。僕が嫌いな、苦手な日本式の家屋である。二階建て、庭には松や梅の木などがアンバランスに生えている。屋根は瓦式であった。その瓦にも容赦なく小雨が流れて我が家を覆っていた。敷地の右方には車庫があり、父の車があった。オレンジ色のワゴン車――父の自慢の車だ。ナンバープレートをこちらに向けて、停まっている(父は電車で会社に向かったのだった)。そして僕は度肝を抜かれた。

 父の車のすぐ傍に、異様なほどの大きさの猫が立っていたのである。猫の顔は人間の十倍はあろうかというくらいの、横に長い、異様な物体であった。目がぎらぎらと光っていた。猫は黄色い毛をしていて、腹は白く、後ろの二本足で立っていた。その長さは僕ら人間の身長を僅かに超すほどであった。

 僕は咄嗟に、これはうちのきーちゃんだ、と気付いた。僕の家では猫を飼っている。しかし勿論それらは通常の猫のサイズだ。あのようにワゴン車を優に超すくらいの化け物じみた生き物である筈がない。しかしあの猫はうちのきーちゃんだと直感で気付いた。きーちゃん!

 そのきーちゃんは、化け猫となって、車の運転席の方を向いていた。何なら車庫の中で背をかがめるくらいの態勢をしていた(本物の猫背……)。僕はただ傘を差したまま、道路の曲がり角で足をわなわなと震わせていた。横にいる恋人のことも考えられないくらい、途方もないショックと、一時も目を離せないという緊張感で満たされていた。きーちゃんは、やがて、その大きな前足で、車の鍵を回して開けた……車には、父が買って家に運ぶのを忘れたままの、ペットの餌が大量にあった。きーが特に好きなカリカリと、魚肉の詰まった缶パック、それに犬用の餌(家では犬も一匹飼っていた……)も。きーはそれを狙っているのだった。彼は運転席のドアを器用に開けて、大きい上半身を何とか車内に滑りこませ、カリカリがたくさん入ったスーパーのビニール袋と、缶パックとを、二本の前足でうまく抱え込んだ。そして、車内からするりと身を抜けるようにして元の態勢に戻り、何か手をこすりあわせるような仕草を見せた。すると、誰も乗っていないワゴン車のドアはカチッと音を立てて閉まっていった……。

 繰り返して言うが、僕と恋人が立っている場所と、その車庫とは、目と鼻の先であった。僕はいつ我が家に居る化け猫が見ているこちらを振り向かないかと、尋常でない緊張に襲われた。それでも一歩も動けないのだった。僕の眼前にはうちの大きな、大きなきー猫の挙動、それしかなかったのである。僕は生唾を呑み込んでいた。

 そして不図した瞬間、化け猫は消えた。消えたというより、始めから何も存在しなかったかのように、車庫には鍵の閉まっている父のワゴン車が停まっていた。雨は降り続けていた。そこで僕は、思わず手を繋いでいた恋人の方を振り返った。恋人は僕の視線に対して、何事も無かったかのように、

 “ん? どうしたの”と言い、それから僕の尋常でない表情を読み取って、

“どうしたの。顔が真っ青だよ”

と言った。恋人は何一つ見ていなかったのだ。僕は白昼夢を見ていたのかもしれない。自動車がまた一つ、後ろを走りぬける音がした。僕はしばらく立ちつくしていた。

 

 

   第一章 猫、僕、家

 

 我は化け猫である。名前は主人がつけてくれたものがある。全て親父殿によるものだ。我はきーと言う。正確には、きな、らしい。正確さはどうでもいいらしい。我は彼らが我の名前をどうするかを決めていたのを横で聞いている。まゆ殿が言うには、

 「きなは絶対だめ! 変!」

と、親父殿による正式名称の方につっかかっていた。親父殿は、

 「きなこのきな、だ。なーきーちゃん。どうせ愛称できーになるんだから、何でもいいんだよ」

 「だからってきなは絶対ダメ! 反対!」

しかし結局それから話はうやむやになってしまい、我の正式名称は結局「きな」になってしまったのだった。しかし主人家の誰もが我のことを「きー」と呼ぶ。我は大変それを快く感じる。“きー”と呼ばれると、我の喉から胸にかけての実に気持ちいい部分が、柔らかく撫でられるような感触を覚える。我は自分の名前を気にいっておる。

 我は、最初はこの家のものではなかった。別の人間たちの所で生まれた。確か白鳥とか言ったか……あまりにも昔すぎて憶えていない。我らは五つ子で生まれた。我らを産んで、我の母は死んでしまった。母の柔らかい毛と、たっぷり詰まったミルクのことを憶えている。小さい我らは、母が死にかけであるにも関わらず、みんなでおっぱいを吸いにいったのであった……皆が吸っている途中で、白い猫である母は天に召されたのであった。

 小さい我は馬鹿だから、母が死んだことも気付かず、只一人でずっとおっぱいを吸っていた。無くなっても吸っていた。そのうち、白鳥家の妹殿が、我らの母猫を持って行って、何処かに埋葬してしまった。

 我は良く眠る子猫だった。お母さんのおっぱいの感覚をよく夢想した。目を閉じると、そこにお母さんの匂いや、おっぱいの味、ふさふさとした暖かい毛の感覚、それら全てが蘇り、再びお母さんに会えるような気がしていたのだ。我は本当によく眠っていた。兄弟の中で一番眠っていた。人間の白鳥の一家が、我々五つの兄弟をどうするかを、慎重に話し合っているのが暗闇から聞こえた……五匹も無理じゃ、そもそも春菜が猫を連れてきたのがおえんかったんじゃ、家では猫は飼ってはいけなかったんじゃ。だけどお母さん……。大体このマンションではペット禁止じゃろが。そうは言うけど、お前だって随分シロの事は可愛がってやったろう? お父さん、あなたにも責任がありますよ。春菜に甘すぎるんですよ。しかし、この子猫たちはどうするんだ? 私は飼いたい……。無理、無理。絶対私は許しませんよ。お父さん……。春菜、さすがにもう家では飼えないよ。可哀そうだけど、この子たちを別の場所に置いておこう。きっと、あの公園なら、誰かが拾ってくれるよ。……。

 そうやって我々は夏の暑い日、公園の真ん中に堂々と捨てられたのだった。五匹が入るにしては狭すぎるダンボール箱に詰められて、我らはぱんぱんだった。だけどあれはあれで楽しかった気がする。我らは捨てられたという哀しさをあまり実感していなかった。我が居眠りの内に聞いた我らについての処遇を、他の兄弟も聞いていたのだが、我らはそれをきちんと理解する知性をまだ持ち合わせていなかった。ダンボール箱の中でさえ、たしょう投げやりな気持ちで目をつぶっていた我は、いつの間にか一番下になってしまった。さすがに重いし、何せよく動く。うわ、誰かがションベンした、その匂いも何だか夏の湿気でむせて、無茶苦茶だ。上の奴らはよく動くなぁ……。

 これが、主人達との出会いだった。

 我は気にせず眠っていた。半分自棄だった。しかして眠っている瞼の暗闇のその奥から、ミインミインという夏の蝉が鳴く声が、三重にも、四重にも交差して聞こえてきた。さんざめく夏。わっという人の声がして、ダンボールが開けられ、強い夏の光が差し込んだ。

 最初に我らを出迎えたのは、母殿であった。母殿は、近所の人から、公園にダンボール箱が捨てられてたぶん子猫が入っている(ミャーミャー聞こえるから)、主人達の家では動物を飼っているから、ちょっと空けてみて欲しいと言われて、悩んだ挙句にとりあえずダンボールを開けてみるのだった。まさか五匹も居るとは。そして後から、まゆ殿と、兄殿が現れた。

 この二人の兄弟は、初めから我らを可愛がってくれた。我らの内の、一番上であったヤマクロは、初め捨てられたことに危機感を覚えて人間たちを警戒していたが、そのヤマクロの警戒でさえも、二人の兄弟が我らを可愛がる内に、解けていった。我は五匹の兄弟の中で、相変わらず一番下になってギュウギュウ押し込められていた。そんな我を、母殿とまゆ殿が気付いて、ダンボールの外に出してくれた。しかし、馬鹿な我は、眠気をこらえきれず、また再び兄弟たちにギュウギュウに押し込められながら、一番下にいってしまった……。

 後に主人達の家で一緒になる存在、おてんばのレイは、この時点ですでにその性格を発揮していた。レイは独りで勝手にダンボール箱から出ると、日光に照らされた熱いコンクリートの上を、はじめはそろりそろり、そしてすぐに慣れてその小さな足つきでチョロチョロ動き出した。まゆ殿と兄殿はそれを大変面白がる。そのうち、母殿が“この子たち、お腹減ってないかしら”と言って、家からカリカリ飯と、水を持ってきた。ヤマクロはそれを警戒したが、勝手にダンボール箱から出ていたレイは、独りでぱくぱく食べ始めた。我は相変わらず目を閉じていた。しかし、まゆ殿が我を再び外に出してくれ、我は水の存在に気付き、匂いを確認してからチロチロ舐めた。暑かったから大変潤った。

 その内、カリカリも水も十分に含んだレイは、公園のコンクリートの上をぐるぐる回ったかと思うと、途端に放尿しだした。チョロチョロチョロ……と水のような尿が、レイの下から広がった。“この子たち、どうする”と母殿は多少神妙な顔つきで、一同に尋ねた。すると、背の高い兄殿――水色のジャケットに、短パンを履いていた――が、出しぬけにこう言った。“とりあえず今日は預かっておこう。ケージが家にあったはず。とりあえずその中にこいつらを閉じ込めておいて、親父が帰ってきたらどうするか相談しよう” これにまゆ殿も同意を示した。すると母殿も、“そうねぇ。他に猫を預かってくれるところなんてないわよねぇ” そうして我らは、この家の許に一時避難することとなったのだ。

 

 あの猫たちを拾った夏もこういう感じだった、と木々の間を幾重にも駆け巡る蝉しぐれを耳にしながら、僕は自宅に帰って来た。自転車を車庫の脇に停めて、とりあえず犬の様子を見る。白いチワワは体の半分を土や砂で汚しながら、尻尾を振って僕の帰りを歓迎する。チワワは室内犬だ。それなのに我が家ではこいつは外で飼われている。僕は彼(オスである)が家の中で飼われるべきである、と只一人主張し続けた。それを父、母、妹の三人が反対したのだ。理不尽、実に理不尽なことだと思う。そもそも室内での躾け――おしっこを規定の位置ですること等――に失敗したのは妹なのだ。躾けに失敗したからといって可愛い子犬に外に放り出すのは人間のエゴだ……とまで僕は言いたくなるが、別にこいつは家の外にいても番犬のように活き活きと生きていてくれるから、心配ではない。それにもう随分時間が経った。

 チワワを抱きしめたあと、家の中に入る――中には誰も居ない。僕は玄関を入ってすぐの部屋に入る。

 ここは書斎である。書斎以外に、一階には台所としてのリヴィング、父の部屋、物置き、使用人たちの部屋(後述)、二階には妹の部屋と母の部屋がある。書斎は現在、僕と父がその使用権を争っている最中である。こう書くと家族のドタバタ劇みたいだが、事はそう楽観的ではない。僕は大学を卒業して現在無職であり、父は心の奥底で早くこの面倒な長男に家を出て行って欲しいと願っている。

 もともとこの家は、死んだ叔父と叔母の家を引き継ぐ形で、僕ら家族が昔の家から引っ越してきたのだった。昔の家は西洋式で、基本的に部屋にはカーペットが敷かれ、壁は厚く、各人の部屋はプライヴェートが守られていた。この家は和式で、とにかく壁が薄い。二階で一番奥の母の部屋の扉が開く音も洩れなく一階に聞こえてくる。何となくみんながみんなを監視している、監視されているような状態に慣れない。扉も、横方向に開閉するタイプで、いちいちガラガラと音を立てる。基本的に床は畳が多く、木造建築で、一階は寒い。この家族の中で、僕だけがこの家に馴れていない。昔の家の方が良かったと未だに思い続けている。僕が県外の大学に通っている間に家族が引っ越してきたのも一因だが、その頃の僕は大学を卒業してすぐ実家に帰るなんて想定もしていなかったし、そんな自堕落な自分になることだって夢見てさえいなかった。

 話が脱線したのだが――書斎は、もともと叔父のものだった。おそらく父は昔から、書斎という空間に憧れていたのであろう。書斎で落ち着きたい、自分の部屋以外にも書斎は俺のものだ、と言ってきかない。いや、父は書斎にとりつかれている。それが如何に異様なものであるか、それは病的、まさに病気そのものなのだ、彼の書斎や家に対する執着心・心理は。

しかし、僕としても、書斎以外に自分の部屋として使うスペースが無いのである。二階は母と妹がもう使用している。物置は狭いし人が住むような場所では無い。では、残された「使用人たちの部屋」とは何か? それを次に伝えよう。とにかく今は親父も仕事に行っているから、僕はこうして書斎で自由に涼んでいるわけだ。

 

 我は日中は普通の猫として振舞っている。いずれにせよ元の姿に戻るのは主人たちが寝静まって以降、深夜のことだ。日中は、主人たちが朝ごはんを用意してくれたあと、外に出掛け、うろついてから、再び主人たちが戻ってくる夕方に我も帰る。

 我は探索が好きである。といっても、居心地の良い、昼寝をするのに良い場所を見つけるだけだ。我は土の匂いが好みだ。主人の家の近くには田んぼがいっぱいあるので、我は田んぼを耕す人の目を盗みながら、端の方でどっこいと身をおろす。雨が降る日など、我は好みであるが、主人たちは我の足裏が汚すぎると、大層怒る。それでもやめられない。

 今日もまた新しく発見した畑の草叢でうとうとしておった。自分で幾らかの砂埃を落として、主人の家の玄関をゆっくりくぐる。夕暮れ。コウモリの死体が転がっていた。コウモリは胸の部分を赤く血で染めた以外には身を固くして真っ黒になっており、ほとんど原形を留めていない。その周りを、たくさんの小さい蟻たちが囲んでいた。……また、レイのやつが殺ったか。もしかしたらティアラかもしれない。最近、彼らはコウモリを殺してばかりだ。きっと、そのうち、戦争になるか、そうでなくともコウモリの方から訪問があるだろう。その時相手をするのは我なのに。

 猫ならぬ溜息をつきかけて、我は家の扉の前でみゃーみゃー鳴いた。しばらくすると、兄殿が扉を開けてくれた。「きーちゃんお帰りー!」兄殿は背が高い。我から見ても、一段と迫ってくるような感じがして、それがちょっと我には怖い。我はみゃーともう一鳴きして、家の中にそそくさと入る。お腹も減ってきたが、とりあえず疲れた。廊下でごろりとへばりつく。

 レイたちも帰って来た。我の帰りに続いて、レイとティアラも帰って来た。我はレイにメッセージを伝えたかったが、ご飯のあとにしようと思いなおした。あいつめ、何も反省していないだろう。第一、鳥やコウモリを殺したら、主人たちが一番怒るじゃないか。勝手に怒られていろ。しかしあとあとの面倒はこの我もしなきゃいけないのだ。

 きー猫は、レイとティアラが兄殿に晩御飯をねだるのをぼうっとした目で眺めていた……。

 

 この家についての話の続きをしたい。大事なことだが、この家には家族の四人以外に、使用人というちょっと稀な人が存在する。千代子おばさんと、寧々さんというのがそれだ。この家は四人で住むには広すぎるし、叔父と叔母の時代にも使用人さんというのが存在した。叔父が死に、追いかけるようにして叔母が先立ってからは、使用人も居なくなった。しかし、僕たちがそこに引っ越すことで、家事全般を担当する母一人で掃除や洗濯をこなすのは無理だった。といって、僕たち残りの三人の協力がなかなか効果的でない。

 そこで我が家では二年前から思い切って彼女たちを雇っている。仕事は基本的には掃除全般で、他に昼に誰か家族の者がいるときは昼ごはんの用意、そして夜に必要であれば母のサポートをしてもらっている。月曜日から水曜日までが千代子おばさん、木曜日から土曜日までが寧々さんの担当だ。

 一階の、物置の隣には、割と広い部屋が残っていて、そこを千代子おばさんと寧々さんの部屋とした。夜遅くまで手伝ってもらうときは、その部屋に泊ってもらってもいいことにする。ところで、この部屋に関して、僕と父、そして寧々さんに関して事件があったのだ……。

 先ほども言ったように、父は僕が書斎に転がり込むのを良しとしないのだった。父はまずそう呼ぶことしかできないほどの様態で、“書斎に取り憑かれて”いた。それに父は僕を撥ねつけるように、さっさと働け、そして金が貯まり次第出ていけと脅す。僕はその圧力に耐えかねて、一時期使用人の部屋を貸してもらうことがあった。

 一年前の冬。始まりはこうだ。父と、書斎の使用権をめぐって、食卓で茶碗が飛び交うほどの激しい喧嘩をして、僕は千代子おばさんが休んでいた部屋に避難した。その後、母と千代子おばさんになだめられながら、僕はその日を、使用人部屋で過ごすことに渋々決めた。それ以外の選択肢が考えられなかったのだ。その部屋は広かったので、千代子さんも気を使ってくれて、半分のスペースを僕に貸してくれた。千代子さんは若い時に当時結婚していた旦那さんに先立たれ、その後も何人かの男性と付き合ってみたが、結局うまくいかず、今はこうして独りで過ごしているのだ、とその日の晩に僕に語ってくれた。綺麗な瞳を持っている人だ、と僕はまるでどこかの小説のようにも感じてしまう悲痛な話を聞きながら、千代子さんの具体的な情報を耳にするのはこれが初めての事だな、と思った。火曜日だ。寒い冬だった。二人で熱い日本茶を飲んで、しんみりした空間を共有したことを今でもはっきり覚えている。ガス・ストーヴがごうごう音を立てていた。

次の日も、僕は父と言葉を交わすこと自体が嫌だった。それで、仕方なく使用人部屋で本を読むなどしていた。千代子さんはその日、気を遣って、千代子さんの家に帰った。僕は罪悪感を覚えながら、だだっぴろい部屋の木造の天井を睨み続けた。物置きに住むわけにはいかない。使用人さんにも迷惑はかけられない。母と妹も部屋は決まっている。何故、何故父は僕を苛めるのだろう。酷過ぎる話ではないか。家族である僕の部屋がないのに、その部屋を割り当てず、知らんぷりを決め込み、書斎を独占しようとする。僕は父を憎んだ。激しく憎んだ。

 木曜日、寧々さんがやってきた。僕は彼女に、事情を伝えた。寧々さんは分かりました、今日は帰りますから大丈夫です、とだけ短く答えた。寧々さんは髪の長い、ひどくほっそりした女性だ。美人というわけではないが、この家にアルバイトとしてお金を稼ぎに来るくらいには、事情の込み入った人生を送っていた。使用人を雇うことは、僕が県外で大学に通っている間に家族が勝手に決めたことだから、元からあまり関心も無かったし、ただ生活の必要上存在する人、という風に冷たく解釈して、彼女たちとは表面的に付き合ってきた。しかし、先日の千代子さんといい、彼女たちに実際的で個人的な問題を話すにあたって、だんだんと彼女たちの姿・形が僕の心の中で根付いてきたことをその時感じた。寧々さんは、ある種の女性らしい魅力を携えた人であった。そのことに嫌でも気付かされた。

 金曜日の昼、寧々さんが家にやって来た。僕は一人で家に居たので、寧々さんに炒飯を作ってもらった。僕が一人でそれを食べていると、寧々さんがリヴィングに入ってきて、一言こう告げた……「あの、今日は部屋に泊ってもいいですか? 明日も朝からお片付けをするし、私の実家は遠いので……」 僕がまだ親父と部屋をめぐっての争いをしているかどうかを気にかけたのだ。僕は自分が決めることではないが、もちろんいいに決まっている、そういう決まりなのだから、と言葉少なげに伝えた。「分かりました、有難うございます」寧々さんは固い表情を崩さないまま、またリヴィングから出ていって、音の少ない掃除機をかけ回っていた……。

 その夜、親父も妹も帰ってきて、四人で気まずい食卓を囲んだ。僕はずっと緊張していた。親父は一言も言葉を発さなかった。僕は震える気持ちで、こう切り出した……「親父、部屋のことなんだけど……」

 父は僕の目を見ないまま「何だ」と言った。

 「使用人さんのこともあるし、僕は僕で部屋を持たないとマズいんだけど」

 「書斎はダメだ」

 「その理由が分からない」僕は唇を噛みしめた。

母も妹も、父の書斎病に対して説得することを諦めていた。僕はそういう家族に対しても苛々しはじめた。みんな僕の事をほっておくのだ。父は茶碗を置いてこう話し始めた……。

 「いいか、書斎はもともと俺のものなんだ。確かに俺が作業をしていない時は、使ってもいいさ。だから、いっぺん使わせてやったじゃないか。だけど、お前はずっと書斎に居座って、しかも掃除もせず、千代子さんたちに入らせもせず、どんどん散らかしていっただろ。俺はああいうのが許せないんだ。大体、なんでまた仕事を辞めたんだ。仕事は簡単に辞めるものじゃないんだ。いいか、俺たちは火の車なんだ。もう昔みたいに金銭的に余裕のある生活を送れるわけじゃないんだ。お前を大学に行かせたのは、お前を遊ばせるわけでもなんでもないんだ。お前には弁護士か、せめて公務員くらいにはなってもらいたかったぞ。なのに、どっちとも自分から諦めやがって、おまけに大学も留年しやがって。一体お前にどれだけお金を注ぎこんだら、お前は自立してくれるんだ。俺たちはもう限界なんだ。お前をいつまでも面倒見れるわけじゃないんだ。お前は一生そうやって暮らしていくつもりか……お前はまるで寄生虫のように俺たちにすがりつくつもりなのか!」

 僕はたまらずにリヴィングを飛び出し、そのまま外へ出て行った。夜の暗闇の中を、走って、走って、息も切れて、とぼとぼ歩きだし、そのうち目から静かな泪が出てきた。僕は涙が頬をつたっていくのをそのままに、やがて道路の真ん中に立ちつくした……なんで僕はいつもこうなんだ。僕は家族から拒否されている。父には憎しみしか感じない。書斎病書斎病書斎病。それだけじゃない。親父は心理異常だ。精神病だ。偏執的、妄想的、病的……とにかく今の僕が置かれている状況は最低だ。僕はもう死んでしまう……いっそ死んじまったらどうだろう。もう死にたい……この辺で倒れたらどうだろうか。

 僕は試しに、ざらざらした砂利のつく道路にそのまま横たわってみた。正直、車や往来の歩行者が来ないかどうかドキドキした……しかしすぐに立ちあがる気力もない。道路に泪の乾いた頬がついた。道路の冷たさは、正直僕の心を冷静にさせた……このまま横たわっていたい。僕は目をつぶった。闇だ。僕の心は闇だ。光もなく、朝も昼もなく、ただ闇となって、闇と化して、存在を消してしまいたい……しかしそれも長くは続かなかった。なんとなく人の気配がしたからだ。それは間違っていたのだが、ともかくも、まともな状態でこんな姿を人に見られたら、言い訳がつかない。

 僕は、しぶしぶ、我が家に帰っていった……途中で猫に出くわした。きーだ。僕は彼の大きいお腹を撫でた。きーはゴロゴロと喉を鳴らして僕の愛撫に応えた。猫は気楽でいいな。猫や犬のことを考えていると、人間であることの煩わしさが一層際立たされ、嫌な気持ちが増すのだった……。

 それからふと僕は、寝巻を使用人部屋に置き忘れていることに気がついた。大体、こんな状態で、書斎に戻る勇気はない。廊下を歩いても、誰とも出くわさなかった。僕はどこに行けば、今日はどうして眠ることができるのだろう、とぼんやりした思考の中で、長くて昏い廊下を歩き、使用人の部屋の前で立ち止まった。

 寝巻を、取るだけでいい。そう思って、緊張して扉をトントンと叩いた。しばらくして、「はあい?」という少し間延びした声が聞こえた。寧々さんの声だった。僕は、「僕です。ちょっと入ってもいいですか」と、扉の向こうで聞いた。

 「ええ、いいですよ」と返事がしたので、僕はドキドキしながら扉を開けた。広い部屋の奥で、寧々さんはテレビを見ながらくつろいでいた。きょとんとした顔をしている。そういう表情の寧々さんを見るのは初めての気がした。

 「あの、この部屋に、忘れ物をしたんです……」僕がそう言うと、

 「えぇ、これですよね……」といって、寝巻以外に、僕の持ち込んだ本と、その他諸々の書類などが置いてあるスペースを指差した。

 「すいません、実は先日千代子さんに無理を言って、この部屋を使わせてもらってたんです」

 「はい、実はお母さまからそのことを聞きました。それで……」寧々さんはそこでちょっと躊躇ってから、

 「さっきもお母さまから、直紀さんとお父さんのことを、聞きました。あの……私、気がきかなくてすみません……この家の者ではないのに……」寧々さんは少ししょげた表情を見せた。彼女の長い髪の毛が少し乱れていた。いつもしているエプロンを外して、真っ白のセーターに、真っ赤なロングスカートを履いて座っていた。

 「あの……いいんです。寧々さんはここに居てくれて。あの……良かったら、部屋を半分こしませんか?」「……私は構いませんよ……」

 「あの、その、寝ている時に、襲ったりとか、しませんから!」僕が顔を真っ赤にして叫ぶと、初めて寧々さんは笑った。

 「……はい、大丈夫です」

 

 我は寧々さんが苦手だ。我を可愛がってくれない。一つもおやつをくれない。千代子おばさんはいつもくれるのに、我の大好きなかつおぶしを。寧々さんは暗い。彼女が当番をしている日は、我もあまり家に居たくない。

 ところで我が本来の姿で夜の闇を徘徊していると、遠くから兄殿が走って来た。そこは家からはちょっと離れた、人気の少ない住宅地であった。なんだか、兄殿の様子は普通では無かった。我達猫の目はいいから、遠くからでもよく見える。兄殿は何やら泣いているようだ。そのうち、道路に寝ころび始めた。我は様子をずっと見守っていた。兄殿……また親父殿と喧嘩をしたのだろうか。兄殿と親父殿は、とても仲が悪い。我はそれを悲しく思う。二人とも我ら猫のことをたいそう可愛がってくれるのに、我が願うのは彼らもまた揃って仲良く我たちと遊んでくれることだ。兄殿と親父殿は決していかなる時も視線を合わそうとはしない……。

 不図、兄殿が道路の真ん中で寝ている場所から、何者かの大きい影が兄殿に急速に近付いていくのが見えた。それは、不穏な雰囲気で、必ずや兄殿に危害を加える類のものだと分かった。我は思わず道路を飛び出してしまった。そのとき、我がそれまで徘徊していたお宅の庭の樹がガサッと音を立てた! 兄殿は我が思わずたてた音に気がついた様で、横たわっていた道路からいそいそと上体を起こした……と同時に、兄殿に迫っていた不吉な影も姿を消したようだった。我は再び姿を隠した。兄殿は我を見つけられなかったろう、見たとしてもおそらくそれは通常のサイズの我だ。我はほっとして、そのままお宅の庭に普通の猫として姿を潜めていた。しばらくすると、兄殿は家の方に向かってとぼとぼ歩いていった……。

 あの不吉な影は何だろう、と我は思った。それはあの兄殿の悲しみと関係しているのか。それにしても兄殿は大丈夫だろうか……家の様子は。我は、今日は少しばかり主人の家に戻ろう、と決めた。

 

 私は、いいや私も猫で、名前もある。レイと名付けられたのがそれ。多分片仮名で合っていると思う。

 人間のお兄さんとお父さんが喧嘩をしているのは、私としてもちょっと辛い。私は今、階段でごろごろしている。仕方ないから、ごろごろしながら過去のことでも思い浮かべる。私たちの兄弟のことを。

 私はきーさんと同じ兄弟で、私たちは元々五匹いた。今のご主人の家に引き取られてから、私たちは四角のケージの中で生活をしていた。半分が変な砂(だって水分を吸い込んで固まるもの!)で、私たちのトイレであり、もう半分が私たちがぎゅうぎゅうになって過ごすスペースだった。

 私たち五匹の構成は、きーさんのようにオレンジ色の毛の猫が二匹、私のように白黒の毛の猫が三匹だった。きーさんとペアで、たぶん五匹の中でも一番優秀だった虎さんは、一番早く他の家族の人に引き取られてしまった。野球帽子を被った妙に細い体つきの男の子が、虎さんを乱暴に抱えて、お兄さんとまゆちゃんに「本当にいい?貰っても」と聞いて、返事をもらったらあっという間に虎さんを持ちだしてその場からいなくなっちゃった。あの子供は一体どこの家の子なんだろう。それ以来私は虎さんにも、あの子供にも一度も会っていない(それが何よりも悲しい)。

 私たちのリーダーだったヤマクロ(白黒猫)は、私たちの中で一番臆病な性格でもあった。ヤマクロと一度喧嘩になったことがあった。それはどういう訳か分からない……いや原因は私か。私たちがケージで飼われている頃(もう虎さんは居なかったので、四匹になっていた)、私は深夜になったのをいいことに、こっそり巨大化した。しても何も意味無いけど、やっぱり元の姿の方が気持ちいいんだ。そしたら、普通のサイズのまんま寝ているヤマクロを起こしちゃった。それでヤマクロは私の姿を見て、ひどく怒った。たぶん怯えてもいたんだろうと思う。私の化猫としての姿は、四匹の中でも誰よりも大きく成長していたから。ヤマクロは怒って、私にすぐに姿を戻すように警戒した。私はふんぞりかえって、ヤマクロに文句を言った。その内みんなが起きてきた。きーさんは眠たげだったけど、別にいいじゃない、深夜なんだし好きな恰好でいさせても、と私の擁護に回った。もう一匹のキューちゃんは、何となくどっちにもつけられず、事態をオズオズと見守っている感じだった。ヤマクロはだんだん激しくなってきた。私は無視を決め込んで、一人トイレの砂の上で尖った尻尾をぶんぶん回していた。ヤマクロがウゥゥゥと激しく唸ったところで、人間のお兄さんが「五月蠅い!!」と起きてきたんだな。私は慌てて姿を元に戻した。実際お兄さんは私たちが争っている現場を見に来て、どうやら一人いきり立っているのが隠せないヤマクロに目をつけて、「こら! 夜だから騒いだらだめだろ! 静かにしてろ!」とどやしをつけた。ヤマクロはしょんぼりして、それから縮こまってしまった。私はちょっとだけ悪い気がして、私もしょんぼりした。いつの間にかきーさんは寝ていた。お兄さんは再び書斎に戻って行ったので、私たちも静かに眠ることに決めた……。

 次の日は、私たちは四匹まとめてお父さんからも怒られた。私たちが夜中五月蠅かったせいで眠れなかったという。それ以来、私は化猫に変身するのを極力辞めた。少なくとも狭いケージの中では誰彼に当たってしまう。それから私は何気なく、ヤマクロにごめんなさいと謝った。ヤマクロは別にいいよ、と言ってくれた。僕も悪かった、君が軽率に変身するのは良くないと思っただけなんだ、と言った。ヤマクロはいい奴なのだ。そのヤマクロも、何日かするとまゆちゃんの友達に連れて私たちの元から離れていった。

 

 ……簡単に言えば、僕はその夜、寧々さんと寝たのだ。僕は自分の欲望を抑えきれずに蛮勇をふるったが、寧々さんはそれを拒みもしなかった。僕は女性と初めて寝るとき、とても緊張する……相手が緊張しているのかこっちがそれを与えているのかは分からないが、僕は震える手で寧々さんを抱き締めていた。彼女はやはり細く、中心が不安定な感じがした。いくら強く抱いても、彼女はそこに存在しないかのようなのだ。その内、彼女は嗚咽を漏らした……僕は驚いて、彼女から手を離した……。

 「すみません…… 直紀さんがそうして下さるのは、全然いいんですけど、何故か……泪が出てきて」彼女は流れる涙をそっと手で拭った。

 テレビの画面も消え、僕の方にある電気スタンドの灯りがともっているだけだった。僕は彼女の布団の上で蛮行に至ろうとしていた。

 「こういうことしないって約束したのに、ごめんなさい……」そう言うと、彼女は驚いたことに微笑を僕に見せた。仄かに口角をあげて、目元が薄くなるのは、彼女の普段の暗くて何事も冷静に受け止めるような静謐な雰囲気を一変させた。

 「いいんです。私、どちらかというと、直紀さんは好きです」

 「……あの、寧々さんの方が年上なので、敬語は止めませんか」

 「いえ、気にしないでください。こういう身分ですし、それにもともと誰に対しても敬語を使う性分なんです。それで、私は直紀さんのことは好きなんです。でも、その好きは、いわゆる恋愛感情ではないんです。私、恋愛感情って、よく分からないんです。誰かが誰かを好きになったり、嫌いになったり、というのは自然なことだし、一応分かっているつもりなんですけど、男女が好きになって、そこからキスをしたり、その、それ以上のことをするっていうか……そこに至るまでの動機は、私には欠けているんです。私、男性とお付き合いしたこと、あるんですけど、全部その、私のそういう欠けている所で、全部失敗しているんです……だから、私は気付いたんです。私は恋愛とは無縁なのだって。私はそれでいいんです。私には私の生活があるし、こうやってお仕事もさせてもらっているし……でも、あの……男の方は、その、したいんですよね?」

急な質問に僕はたじろいでしまった。寧々さんは今度はまっすぐ僕の方を向いていた。僕はその視線に応えようとしたが、寧々さんの決して大きくは無い澄んだ黒色の瞳は、質問の内容とは反対に、何を問いかけようとしているのかが不明なほど純で、こちらの男性としての欲望をまさに欲望として批判しているように思われたのだ。

 「……僕は、僕はよく分からないけど、今付き合っている人はいません。寧々さんに手を出してしまったことを後悔しています。もともとこの部屋に来たのが間違いだったんです。僕、出ます」

 「ちょっと待って!」寧々さんは大きな声を上げた。僕はびっくりした。そして立ちかけた姿勢を直して、再び寧々さんと真向かいに座った。

 「直紀さんが今出て行っても、過ごす場所は無いでしょう。一つだけ、お願いがあります」

 「……何ですか」僕は気恥ずかしくなって、声が小さくなった。

 「……私を、優しく抱いて下さい。たった、それだけ」

 「……?」

僕は震えた。寧々さんは座ったままの姿勢を崩さず、目線を畳の上に落とした。それから、寧々さんはやや上体を逸らせて、瞳をほんのわずかの間閉じた。上体が傾斜したことで寧々さんの首からお腹にかけてのラインがうっすら強調され、さらに赤のロングスカートからは真っ白な膝小僧が飛び出していた。寧々さんのことをこれほど魅惑的だと思ったことは無かった。

 僕は再び立ち上がり、おそるおそる彼女の方に近付くと、今度はしっかり彼女を受け止めて、その薄い唇にキスを重ねた……。

 早朝になって、僕らは同じタイミングで起きた。僕は同じ布団で寧々さんと寝るのに緊張をしていて、あまり眠れなかった。相手も同じだろう。僕は、朝ごはんを作ってもらったら、とりあえず家の外に出なければならない、一刻も早く、と感じた。

 驚いたことに、寧々さんの様子は普段とあまり変わらなかった。もちろん、朝の光を浴びる彼女の顔などは新鮮で、化粧を落としてもほとんど印象が変わらないことにびっくりした。やはり彼女は知的で、静かで落ち着いた佇まいを備えている。そういう一貫性に僕はほとんどおびえそうになっていた。

 リヴィングに行くと誰も居なかったので、僕は心底ホッとして、冷蔵庫にあったハムとチーズを口の中に放り込み、牛乳をコップにも注がずラッパ飲みすると、逃げるように、まさに逃げるように僕は家を飛び出した……。

 この事件のあと、また父が再び関与して、僕と寧々さんと父をめぐる力学関係は変化してくる。一年前の話だ。結論から言うと、僕は寧々さんと、それから四、五回寝た。いや、正確な数は分からない。もっと多いかもしれないし、少ないかもしれない。それはまた後に明らかになるだろう……。

 

 我のあとを千代子おばさんが着いて来る。我はあまり追われるのは好きではない。それが例えかつおぶしをよくくれる千代子おばさんであってもだ。我が逃げて田んぼの方に向かうと、千代子おばさんは諦めて、主人の家の庭の掃除を再開した……。

 ところで、どうも最近、鳥たちの動きが怪しい。先ほど三件先の白猫から聞いたのだが、第一公園で、鳥たちが蝉の声に混じって不穏な会議を開いていると言う……。話題は我が兄弟のレイのことである。

 レイは、ここのところ、公園の鳥だか他の場所から来たツバメやスズメやツグミなどを待ち伏せては、その狩りの本能だけのために殺している。それは猫にはよくあることなのだが、その数があまりにも多すぎて、鳥たちは怒っているという。何かの動物が揃って会議を開くのはよっぽどのことなのだ。それは大抵、自身たちの生命に関わる事柄である。それが一介の一匹の猫について話題になるとは……。レイは我と同じように化猫だから特殊だが、だからといって安心はできない。会ったときに忠告を繰り返さなくては。

 それだけではない……。我は実際に、それらの事態を裏付けるような現場をこの目で直接見たのである。我は化猫と成って深夜の町をフラフラと徘徊していたが、主人の家からは離れた第三公園の近くまで来たとき、不審な動きを見つけた……我は大きい図体を何とか隠して、こっそり見ていた。第三公園では、大きさが八十センチくらいのコウモリの化け物が二、三居た。彼らはぼさぼさの毛の羽を閉じ、やけに大きな目玉をギョロつかせて、闇の中でウロウロと歩き回っている。その彼らの中心に、黄金の毛の色、それは深夜の公園の中で実に妖しい輝きを放っているのだが、我と同じ二メートルくらいの背丈の鳥の化物が君臨していた。我は聞く、これはおそらく足高山の主であろう。足高山は町がある平野にあって標高こそ低いけれども、緑に囲われ、有名な神社があり、過去から現在まで多くの人々にも親しまれてきた山であった。その足高山の生き物たちを統括する、黄金の鳥の化け物がいるとは聞いていた。でも何故こんな下町に降りてくる?

 黄金の鳥とコウモリの化け物たちは、我にもよく分からない言葉でしばらく会話していた。第三公園に来たのは道すがらのようで、長くそこに居座るつもりもないようだった。やがて取り巻きのコウモリたちが公園を出ようとしていった……そのとき、只一匹残された黄金の鳥と、彼らを見つめていた我の目線とがかち合ってしまったのである。その黄金の鳥の眼は、我を不審がるのでもなく、恫喝するのでもなく、ただ静かな温度で我を包むようにしていた……我は視線を外して、そそくさとそこから逃げていった。

 あの時の黄金の鳥の主のお出ましは、今回の事件と無関係とは思えない。どちらにせよ、危機が迫っているのは、我ら兄弟の猫の方だ。

 

                      第一回 了

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