黄桃缶詰
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スマホとボーカロイド 踊る猫
山下澄人氏が自身の作品をスマホで書いているということを知り、それで氏の小説に興味を抱いた(不勉強にして読んではいない)。スマホはなんでも出来るメディアだ。その気になればDTM用のアプリをインストールして音楽を作ることも出来るし、映画を撮影することだって出来る。それはそれでひとつの形態を形作っているわけだから、その方法論が安直であるか否かについてはとやかく言うほどの問題ではない。奥泉光・いとうせいこう『小説の聖典』でも語られていたように、パソコンの普及が小説を新しくさせるという可能性もないではない。
そんな折、田中慎弥氏の『孤独論』という本を読んだ。『孤独論』自体は美点も欠点もある(田中慎弥氏らしい)書物なのだけれど、小説の執筆について基本的にはパソコンもなにも使わず――スマホなんてもちろん論外だ――鉛筆を使って原稿用紙の升目をひたすら埋めているらしい。この姿勢にも興味を抱いた。むろん、スマホで書こうが鉛筆で書こうが出来上がったものが優れた小説なのだとしたら、それで良いではないかと思う。そこはもっと柔軟に考えたい。
ふと「歌と文学」について思いを巡らせた。「歌」は言うまでもなくフィジカルな営みである。肉体を使いこなして、リズム/グルーヴの中に身を委ねて歌うこと。それが良しとされる。そこには快感があるのだろう。歌ったことのある人間にしか分からない解放感が……だからこそ人はカラオケに行くのだろうし、より深い自己表現を目指して(『シング・ストリート 未来へのうた』の男の子のように)バンドを組んだりするのだろう。
だがしかし。初音ミクの台頭によってボーカロイドの楽曲が数多く作られているのも現実だ。もちろん私は無限大に膨れ上がるそれらの曲を全部聴いたわけではなく、それどころか二、三曲程度しか聴いていないのでなんとも判断出来ない。これもクオリティや膨大に生産される量が潮流を凌駕するのではないか、としか言いようがない。改めて確認しておくと、優れたものはスマホや鉛筆、肉声や機械的な声を問わず素晴らしいのだ。
ここまで書いて脱線することにした。アンドリュー・ニコル監督の『シモーヌ』という映画を思い出したのだ。古今東西の数々の女優の演技をプログラミングさせることによってヴァーチャルな(つまり存在しない)カリスマ的女優を作り上げるという喜劇だ。『トゥルーマン・ショー』の脚本家の映画、と書けばあるいは通じやすくなるだろうか。そのようにして俳優もアイドルもいずれヴァーチャルなものとして登場し演技する時代も遠くないのかもしれない。
だというのであれば……それでも人間に残されているものがあるとしたらなんだろう、と。人間にしか出来ないこと、帯びさせられない特性……そういうものがあるとしたらなんだろうか。これは多分その人間の書くもの/歌うことがライヴ感を伴っていることではないかと愚考する。臨場感に満ち溢れており、完璧にコントロールされたものではない(コントロールはむしろ歌い手自身が「する」ものだろう)、そんな一回性のスリル。それが人間のライヴ演奏やパフォーマンス向上に貢献している。
しかし、と思ってしまう。そんなものが必要なのかどうか……スマホで書こうがボーカロイドで歌おうが、それをコントロールしているのは「人間」であることに他ならない。だからいずれ AI がそういう作業をやってくれる日も来そうなものだけれど、そこまで未来の話をすると風呂敷が広がり過ぎるのでここで留めておきたい(そう遠くない内に谷崎潤一郎や三島由紀夫を、あるいはデヴィッド・ボウイやプリンスをシミュレートした小説や音楽が出るのかもしれない。が、それらが人間のものを超えるとは思えないのだが……)。
だからスマホで書くのもボーカロイドで歌わせるのもそれ自体は極めて事務的な営み、ということになる。だが、それらの操作は肉体性を欠いている。例えば YMO はテクノポップに属しているが、実は汗みずくになりながら高橋幸宏氏がドラムを叩くことで成り立っていたのと一緒で「肉体」を使わないと生まれないなにかがあるはずなのだ。それがなんなのかは私には分からない。リズムを規則正しく刻み、一分の狂いもない小説や音楽にはないなんらかのバグが肉体を介した作業には必然的について回る。それが肉体を介した小説執筆や音楽制作の魅力ではないか。むろんそれは致命的なミスをも招きかねないのだが。
隅々まで念入りに作り込まれた/プロデュースされたものを選ぶか、あやふやな(昔の言葉で言えば「ファジー」な)ものを選ぶか……むろんそれは人次第だ。決して音を外すことのないボーカロイドを選ぶか、アドリブでスキャットを入れたり縦横無尽に対応出来る歌手を選ぶか。私は後者を選ぶ。機械には咄嗟に出来ない遊び心、結びつけようのない柔軟な思いつきを――それが失敗に終わるとしても――挿入出来る。いやそんなことはスマホで小説を書いていても出来るではないかと思われるかもしれない。しかし、可能性としては一文字書いたあとに次の一文字を書き記す過程で生まれる閃きと、予測変換を使えば次々と打ち込める閃きの間には差がある。
こんなことをパソコンで書いている時点で説得力がないのだが――あるいは懐古主義者の戯言と思われると思うが――人間の脳の働きは(スマホ/パソコンにさえ依存しなければ……なんならグーグルに依存しなければ)決してバカに出来たものではないと思う。そんなことをここ最近考えている。(了)