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現代ロック詩への覚書  光枝初郎

 「現代ロック詩」ということだが、主に2005~2007年あたりにデビューした日本のロックバンドたちを、その歌詞を参照しながら、詩(言葉)と歌という事物についてつらつらと考えていこうと思う。私は2007年に大学に入ってそれまでとは違うロック音楽を好むようになったが、もうそれから十年もの月日が流れたわけだ。

 2000年代前半というと、代表的なものに限ってもASIAN KUNG-FU GENERATIONやくるり、レミオロメンといったメジャーバンドが台頭していた。これは私の偏見なのだが、文化の移り変わりは(日本でのということだが)5年区切りにして考えると整理がつきやすいと思っている。2010年代前半はじめは、ONE OK ROCKやTHE BAWDIESといった、既成の形式のロックミュージックが不思議なくらい新鮮なパワフルさをもって花開いた様に思うのだが、後にゲスの極み乙女。(現在は活動休止中で理由ともども悲惨でしかないわけだが)を初めとする彼ら同世代の男女混合ユニットを含めたポップロックバンドが多数現れた。当時二十代後半に差しかかった私は情報として入ってくる「若手のバンド」たちを自ら覚えたりしようとは思っていなかったものだ。

 現在は2010年代後半。どんなシーンが待ち受けているのかということはさておいても、私が愛好するのは2000年代後半の、ちょっと不遇で、その不遇ささえも華麗に音楽に昇華してしまえるほどの才能の持ち主たちだ。

それでははじめよう。

 

 

監視カメラの設置を

監視してるカメラを暗視するもの

もう帰るから心配しないで

でも帰るまで安心しないで

 

一斉に神が死んだなら

捏造の神が死んだなら

(THE NOVEMBERS/永遠の複製)

 

 最初にTHE NOVEMBERS(ノーベンバーズと単に表記する)について簡単に説明しておく。彼らは2005年に結成して、2007年にインディーズデビューを果たした。この、とんでもないベースサウンドの緊張感からはじまる「永遠の複製」は、3枚目のアルバム『To (melt into)』の一曲目である。Youtubeなどで視聴して頂ければ分かると思うがとにかく闇の鼓動といったものを感じる。

「監視カメラの……」のフレーズを聴いたとき、あ、監視社会だ、と思った。彼らが監視社会だとか管理社会だとかの哲学・社会学の本を読んでいたかどうかは分からない。しかし、監視カメラが人々の行動をくまなく監視し、その監視カメラを監視するもう一つの怪しい視点が混在するという皮肉をきかせた世界観はこれだけで現代社会への強力な「No」をつきつけているようにも思える。

 この「永遠の複製」の歌詞においては、人々の欲望も快楽も感情でさえも他の何かもっと大きいもの――たとえば社会《システム》のようなもの――にコントロールされている様を悲劇的に描く。それを操っているのが捏造された神なのだとしたら、その神は死すべき定めにあるといってよいだろう。

 

 さて、2000年代後半のJロックにおいてそれ抜きに語れないのは、凛として時雨(以下単に「時雨」)である。彼らの音楽シーンへの登場はノーベンバーズらより少し早く、2002年に結成してから2005年にインディーレーベールよりCDリリースを果たしている。

 彼らの初期の代表曲「Sadistic Summer」では、女性ベースボーカルの345が歌うパートの

 

さらわれたい夏 Sadistic Summer

(凛として時雨/Sadistic Summer)

 

というのが何回もリフレインされて、独特の雰囲気を醸し出す。ここに、文字の連なりであるところの「詩」や歌詞には出せない、「歌」の持つ特徴の一つが現れていると言えるだろうか。歌詞において書かれた言葉たちは任意のメロディを伴って唄われるわけだが、そこで強調部分のサビに該当する箇所だったり、「さらわれたい夏 Sadistic Summer」と永遠に繰り返すAパートのように、ある特定の部分の文章だけが何回もリフレインされることによって、字面以上の存在感を持つようになる。

 このリフレイン手法とでも呼べるものはノーベンバーズやPeople In The Boxでも果敢に用いられている。

 

帰れそう 帰れない

帰れそう 帰れない

帰れそう 帰れそうで

(THE NOVEMBERS/dnim)

 

さて、凛として時雨の歌詞をもう一曲見てみよう。

 

プラスチック製の現実を 割れないかなって苦しめていた

リズムは今すぐ消して見せるから 僕の代わりに未来を満たして

I was music

 

プラスチック製になってしまった 君は呟いて笑った

左手に透けたギミックドローウィング 頭の中で捨ててみた

 

いいよ おかしくなって

今日は誰になって君を撃ち抜こうか

(凛として時雨/I was music)

 

「私は音楽だった」という半ば意味不明なタイトルのこの曲は、凛として時雨の作詞の書き手TKが放つ相当なまでに統一された世界観の一ヴァリアントである。TKはプラスチックとか、ギミック、テレキャスティック、フィーリングなどと言ったカタカナ英語を歌詞の中に多量に散りばめる。言葉選びは、非常に感覚的で繊細な、時には攻撃的すぎるゆえに触れたら壊れてしまいそうなほどの純なところがある。「いいよ おかしくなって」とまた歌のリフレイン効果によって増された狂気の感覚は、君を撃ち抜こうかと言ってみたり、僕の代わりに未来を満たしてといったように、「君」への愛憎が揺れ動くような感情の原始的状態のようなものを私たちの前にリアルに提示してくれる。

 

さて、次はPeople In The Box(以下、単にピープルとも呼ぶ)である。三人組である彼らは2003年に北九州で結成した後、2007年に残響レコードから初めてのCDリリースを果たした。彼らのCDのタイトルには特徴がある。映像作品を除いて彼らのこれまでに出したCDのタイトルを年代順に並べてみよう。

 

「Rabbit Hole」「Frog Queen」「Bird Hotel」「Ghost Apple」「Sky Mouth」「Family

Record」「Lovely Taboos」「Citizen Soul」「Lost Tapes」「Ave Materia」「Weather Report」「Wall, Window」「聖者たち」(※初のシングル) 「Calm Society」「Talky Organs」

 

シングルの「聖者たち」を除いて全てが二単語から成っているこの統一性も面白い。個人的には「Citizen Soul」などはタイトルとして面白いけど別に政治的なことを前面に歌っているわけではない。だけど「親愛なるニュートン街の」という曲も入ったりしてそこで市民的な存在の生活の様子が歌詞から匂うということがあるのである。2016年のミニアルバム「Talky Organs」は、このトーキーという言葉からして、映画を(トーキー映画、サイレント映画……)を彷彿とさせる。案の定「映画忌憚」という曲も入っている。そういう「オツな」遊び心がタイトル決定からして彼らにはあるということだ。

 

ぼくはきみの翻訳機になって

世界を飛びまわってみたい

高い空を斧でまっぷたつに

箱のなか震える心臓

 

ぼくが飛ばす飛行機のなか

横たわるきみの席はファーストクラス

燃料は楽しかったこと

悲しかったことのせめぎ合い

悲しみには終わりがないね

終わりがないから悲しいね

ぼくはきみの翻訳機になって

世界を飛びまわってみたい

悲しいね 悲しいね 悲しいね

ときどき 楽しいね

(People In The Box/翻訳機)

 

「ぼくはきみの翻訳機になりたい」というのはどういうことだろうか。翻訳機というとひとまずタイプライターとか通訳の人を思い浮かべるが、「ぼく」が日本人で「きみ」がベルギー人だったら、「ぼく」はベルギー語を日本語に翻訳しながら「きみ」の周りに居たい、ということだろうか。若しくは、歌手やバンドマンは広い意味で、ファンや人々の「思い」や「感情」を代弁するようなところがあるから、たとえば音楽家としてきみの声や気持ちを代わりに表現していけるような人になりたい、ということだろうか。答えは分からない。「翻訳機」は不思議な歌詞ではあるが、何か非常に本質的なところをついた暖かい歌だと私は思っている。

「燃料は楽しかったこと 悲しかったことのせめぎ合い 悲しみには終わりがないね 終わりがないから悲しいね」。悲しみに終わりがないこと、終わりがない悲しみ。急に残酷さが現れる。或いは容赦ない現実の悲哀な部分。

「悲しいね 悲しいね 悲しいね ときどき 楽しいね」この部分は演奏も止み、ギターボーカルの波多野さんだけの声になる。「ときどき 楽しいね」と呟かれることで、最後に少し救われたような気持ちになる。悲しみや、色んな感情を携えた上で、「ぼくはきみの翻訳機になりたい」と歌うこの歌は、まぎれもなく名曲だ。

 それから波多野さんの歌詞には少々ブラックというか、皮肉というには優しい、鋭くブラックなことをさらっと言うところがある。これも一つのピープルの味わいだと思う。

 

我が子は大切だよ

他人の子よりも

みんな賛成だよ

友達だものね

友達だものね

 

欲望が欲しているのは

欲望そのもの

(People In The Box/皿(ハッピーファミリー))

 

「我が子は大切だよ」と突然誰に向けられたのか分からない言葉が唄われる。そして続く。「他人の子よりも」。“他人”と呼称している所がさらに何かおぞましい。「他の人の子よりも」とかいう表現よりも、「他人」という言葉を使うともっと人間関係の余所余所しさ、我が子だけが大切で他の子のことなんて知らない、みたいな雰囲気さえ出てくる。そして「みんな賛成だよ 友達だものね 友達だものね」これが全く分からない。「我が子は他人の子よりも大切だ」ということにみんなが賛成しているのか。それが友達なのか? 全く分からない。そして怖い。まるで表面上だけは友達面をしていながら、家に帰れば自分――父・母・子の“オイディプス三角形[1]”のことか?――たちのことだけを気にしていればよい、そのことについてだけみんなで了解をし合っているムラのような……。とにかくそのような何かドキリとするような気持ち悪さを優しい声でさらりと唄ってしまうのである。

 

2000年代後半に大ヒットしたロックバンドとして、9mm Parabellum Bullet(以下、単に9mmと呼ぶ)もあげておきたい。彼らは2004年に結成し、2007年に残響レコードからCDをリリースして世に出た。1stアルバム『Termination』は売上的にもその年のスマッシュヒットを記録し9mmという存在を世間に知らしめることになった。

激しい演奏や派手なパフォーマンスが注目されがちだが、フロントマンの菅原卓郎さんが書く詩はとても知的でエレガントだ。

 

閉め切った心の隙間から

漏れ出してくるのは

聞き取りづらい自分の声

僕の罪を追う警察のサイレン

 

かけがえのないものが何か

僕にはわからないんだ

誰が死んだって構わない

真実よりも信じる心が欲しいだけ

(9mm Parabellum Bullet/Psychopolis)

 

『Termination』の華々しい一曲目であるが、9mmの歌詞には「罪と罰」といったドストエフスキーの文学の様な世界観がよく見受けられる。「僕の罪を追う警察のサイレン」とあるが、おそらくこの「僕」は自分が何の罪に問われているか分からないといったようなカフカの不条理小説のような感じさえしてくる。

「誰が死んだって構わない 真実よりも信じる心が欲しいだけ」。そもそも彼らは『Termination』がリリースされる前のシングル曲「Discommunication」がオリコントップ10位に入って大注目された。「Discommunication」は、社会がコミュニケーション不全に陥って、人間関係が社会構造のみならず日々のストレスや被災などによってギスギスし、「コミュ障(害)」を自称する若者の増大とか、人と人との関係性が時代の荒波にもまれて急変化していく現代をそのまま歌っていた。だいたい2007、2008年にはまだ「コミュ障」という言葉は無かった[2]。そんな中で、誰が死のうが事件が起ころうがが構っていられない、何かを信じたい何かにすがりつきたいという必死な〈声〉を、荒々しく歌いあげている9mmには鬼気せまるものを感じたものだ。

 

それでは最後に、ノーベンバーズの最高傑作から引用しようと思う。

 

君の事ばかり考えているわけじゃないけれど

自分の事と同じくらい君の事を考えているよ今も

37.2℃の海から箱舟に揺られ

いつか二人に会いにきてよ

 

草木や花は赤い血を流さず悲鳴をあげることもない

その無口な死の美しさに見とれる時間が好き

誰にも見つかることのない離島で 咲く花にも美がある

ただそれを思い浮かべられないだけ

 

(中略)

 

今日も生きたね 望んでも 望まなくても

これが最期の言葉になってもいいように歌いたい

 

なんて美しい日々だろう

なんて美しい日々なんだろう

君を待つ日々は

なんて美しい世界なんだろう

(THE NOVEMBERS/今日も生きたね)

 

「君の事ばかり考えているわけじゃないけれど 自分の事と同じくらい君の事を考えているよ」このフレーズは実に暖かい。「君の事で頭がいっぱいなんだ!」と悩むフリをする男性など腐るほどいるだろう。しかし彼らが誠実さを有しているのかは分からない。自分の事と同じくらい、大切な人の事も考える。大切な人の事を思う様に、自分の事も考える。「二人」というキーワードでカップル cupple の甘く幸福な世界観を描く歌詞がノーベンバーズには多いが、この一節もまさに二人が寄り添って歩いていく幸福への意志を持つ人たちなのだと気付かされる。

「草木や花は」の連は、一番のAメロでは人間が動物を家畜として殺害し自らのお腹を満たすことの、摂理のようなものをうまく淡く捉えている。それは時には批判意識も取ったのだろうし、あるいは諦めるようなこともあったかもしれないけど、そういう蹴巡を経て、「人間を含めた自然をなお美しいと思えるか」という意識にまで彼らは上昇させたのである。そして、その答えがYesなのであった。「なんて美しい日々だろう なんて美しい日々なんだろう 君を待つ日々は なんて美しい世界なんだろう」。彼らは初めてリリースしたライヴDVDの映像作品の中で、この「今日も生きたね」について率直なコメントをしている。攻撃性と静寂の二極性を行き来するこのバンドは、「今日も生きたね」という楽曲を作り上げたことによって、「世界を心から祝福できる心地になれた」のだという。それもメンバー4人皆がだ。ノーベンバーズの「表現」は、しばしば音楽を超えてビジュアル、ファッション、そしてライフスタイルにまで及ぶ。彼らは、何か確固たる思想の様なものを作品を一つ一つリリースするたびに更新していき、そうして経験値を増した思想は音楽・ビジュアル・ファッション・ライフスタイル・大切な価値観をゆるやかに統一させるのである。そしてこの「今日も生きたね」は、結成10周年を迎えた時の彼らの総決算になったのであった。

「今日も生きたね 望んでも 望まなくても これが最期の言葉になってもいいように歌いたい」このような、いつ死ぬとも分からない世の中で、最期の言葉になってもいいように美しく、歌いたい……そのとき、詩の言葉と歌は一体となるのではなかろうか。「今日も生きたね」。そう優しく歌う彼らの、心からのメッセージ。

 

以上、幾つかのバンドの楽曲を取り上げてみたが、如何だったろうか。

 いつの時代にも傑出したバンドやバンドマンはいる。今回は私が最愛するバンドたちを取り上げた。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTとノーベンバーズの比較についてもいつか書きたいなと思っているし、ゲスの極み乙女。(私は彼らは割と好きである)やパスピエやSHISHAMOといった若い世代のロックについてもいつかは何かを書けるかもしれない。しかし言葉は生まれる(出てくる)のに時間差を要する。まずは、彼らの率直で真剣な歌と言葉を、堪能していこう、これからもずっと。(了)

 

 

※本稿で扱われた楽曲の歌詞は、基本的には筆者が持っているCDの歌詞を参照したが、ないものは以下の歌詞サイトを参照した。

「J-Lylic.net」 http://j-lyric.net/

「うたまっぷ.com」 http://www.utamap.com/indexkasi.html

 

[1] 精神分析の用語。精神分析学では、家族の人間関係が最重要視される。しばしば患者は子として位置づけられ、両親に当たる(両親は必ずしも生きている必要はない)母と父の存在が子たる患者の人間性そのものにとってそれぞれ重要要素になる。

[2] これは断言できる。筆者の経験では、コミュ障という言葉が世間に(若者に)使われるようになったのは2011年か12年くらいのことかと思われる。2007,8年にそんな言葉は存在せず、せめて「KY」くらいだった。KY=空気が読めない(人)、もコミュニケーション不全の一つであることに変わりない。

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