黄桃缶詰
SINCE 2015
活動再開!2019年4月発表をめどに小特集「曖昧なる境界線」が決定!(1/28)
はる「ロジウラ」、misty「時間喰いのモービーディック」の原稿を掲載しました!(11/25)
しばしの間休載。(9/12)
幸せの裏に 序章 はる
―白昼の悪夢―
冷たいビル群が聳え立つ都心に、隠れていた太陽が真上から熱を当ててくる。
大勢の人々が忙しなく足を動かしていく、いつも通りの光景を眺めていた。
「でさー、そいつが――――」
昼休みだか何だか知らないが、学生であろう人が増えてきた。
なんて目障りな。
真面目な空気が流れていたはずの道に騒がしい声が増えていく。
笑いながら、巫山戯ながら、そして、
「うわー、あの人感じ悪くない?」
「やめとけって。聞こえるぞ」
嘲りながら。
ただ壁に体を預け立っているだけの人間に、人は蔑み、時に罵倒する。
見た目が怖いと。服が汚いと。なぜ影に居るのかと。景観を損ねると。治安が悪くなると。あんな人には近づいちゃだめよと。ダメ人間だと。社会の汚点だと。
人々は口軽く、自分を何も知らずして言いたい放題やりたい放題。ゴミや石を投げられることもあった。
無意識なのか、意図してなのか。それとも、これが人間の本能というものなのか。
含まれる意味は別として、人間は他人を馬鹿にする。たとえ笑わそうとする冗談でも、暗い気持ちで聞けば全て悪意の籠もった悪口だ。
会社の経費削減で職を失い、妻には財産とともに夜逃げをされて、手元には服と僅かな食糧があるばかり。収入の目途が無く貯蓄も無くなった今、月払いのマンションに住める筈もなく引き払うことになった。だから今はホームレス。最低限の服以外全て売り払い、会社の手当てと合わせれば生きていくことはできる。だが収入を得ようにも、この格好ではバイトにすら雇われると思えず、会社など論外。再び家で暮らすことなど夢のまた夢なのだ。
それなのに、事情も知らないあいつらは能無しと見下してくる。頑張りもしない他の奴らとは違う。苦労して職を得たのに下っ端だからと飛ばされて、独り身になり、地位も資産も失ったのだ。
ウザい。
仲睦まじそうな男女が汚物を見る目を向けてくる。
憎い。
何処かへ歩くサラリーマンが憐む目を向けてくる。
煩わしい。
警備らしき制服を着た男が怪しむ目を向けてくる。
なぜ嫌う。
どれだけ悪口雑言すれば気が済むのか。
お前たちが捨てたものの行く末だというのに、手元にないから気にしないのか。要はゴミ同然と、そう言いたいのか。こんな不景気社会の産物は、無意味なものだけなのか。能力不足など個人の理由に関係なく、たまたま選ばれ捨てられて、次の職を得る機会にすら出会えないのは偶然であるはずだ。しかし、皆これを必然というように見てくる。
「あんなのがいるから社会が悪くなるのよ」
どうせ碌に勉強していないからそのようなことが言えるのであろう。
「だな。何もしないでああしてたって、何も変わんねえのに」
だからこそ癇に触れる。努力に努力を重ねてつかんだ地位を、基礎ごと取られて転落し、生きることだけで精いっぱいの現状に、救いの手は伸びない。
犯罪者として刑務所に入っている罪人ですら、『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』という憲法二五条一項の社会権の一つ、生存権に守られている。
それなのにどうだ。行事を楽しむ余裕が無ければ、食事や睡眠すら満足に得られない。罪を犯した人間の方が豊かに暮らせるのだから、態と犯罪に手を染めてしまうのがこの社会。一度零落れたら後は負の循環。光が見えることはないのだから、それに触れる可能性もあるはずがない。
「ほんとそれ! あんな能無しなんて要らないのよ」
才能など、誰しもが得られるものではない。
「それこそ、ああいう奴らに努力させればもっと景気良くなるんじゃねえか?」
努力すれば何でもできるほど、世の中甘くはない。
「いいねそれ! 試しに言ってこようよ」
はぁっ!?
「あれにか?」
巫山戯るな。
「そう! どうせ何もできないんだしさ。面白そう」
これまで装ってきた平常心は、既に無くなっていた。
「おいおい、大丈夫か?」
「まあ見てなって」
先程手に入れた、冷ややかな物を握る力が強くなる。
それを伝う汗が、付着した何かに濁らされた。
「あの、おじ――――」
一振り。
だが、それに反応した彼が、彼女を庇うようにその身を曝す。足元がおぼつかない状態で攻撃を受け、耐えられず倒れる。腹が斬られ力が抜けた体は重力に吸い込まれていく。それを仕留めようと腰横に下段で構えた刃を上に向け、重力に逆らいながら突き刺した。
彼の胸部には、手に握られた木製の柄が見える。背中からは血が噴き出している。肺を貫通したそれは、下向きに、力強く引き抜かれる。彼はその力に抵抗できず、宙に舞う血液とともに勢いよく地面と接吻した。
「っはははは!」
大きな充足感と笑いが込み上げた。
こんな簡単なことではないか。
躊躇う理由がどこにある。
「もっと……獲物を…………!!」
運が良いのか悪いのか、その様子を目撃した人間がいた。それは、さっきの二人を親切に送り出した仲良し七人組の五人。その中のリーダー的存在だった一人が、威嚇しながら仲間の為になろうとしている。しかし、既に亡き人となっている彼に気付くことは無く、一方的に彼女に近づいてきた、ただのナンパ野郎だと思ってしまった。それが、彼らの運命を決めていた。
「理恵から離れ――――」
それはもう、人間を超えた動きだった。否、人間ではなかった。
まともに言葉を話せておらず、最早咆哮を上げているだけ。顔が理性を持った生物のものと思えないほど欲に満ち溢れ、怒りと笑みと、嘆きと喜びと、苦しみと快楽とが入り混じったような、正に本能の顔だった。体格も違う。十分な栄養が取れず痩せ気味だった筈なのに、今は着ていた服がはち切れんばかりに膨らんでいる。
一体何があったのか。男は化け物となってしまった。
化け物の握る細長い得物は、本来の銀と付着した赤により照る。化け物が近くの寿司屋から無理やり奪ってきたそれは、既に片手で収まらない程の命を奪っている。そして今もなお、その数を増やそうとしていた。
だが化け物は、直ぐ殺そうとはせず、敵対した一人ひとりの脚を斬りつけていく。動きを止めたのは、近付いて来た五人全員を斬り付けてからのことだった。暴走していながらも、確実に獲物を仕留めるために、先ずその足を封じることで逃げられなくしたのだろう。
突然動き出した化け物に、目が追いつかず動揺していた大学生男女は、自分の身が傷ついたことで漸く自身の危険に気が付く。だが時既に遅し。異変に気付いた一般人は直ぐその場から離れ、まるで闘技場のような空間ができる。その中に、足を斬られ自力で動けず痛みに苦しむ五人の男女と、これからの愉悦に浸る化け物だけが存在した。
結末など、考えるまでもないだろう。
化け物の後ろで、周りの野次馬に手を伸ばし、助けを求める女子が一人。それを察した化け物の動きは速い。直ぐにその手を斬り落とし、叫び声もろとも、魂を体から引き離した。
化け物は止まらない。抵抗してきた腕は斬り飛ばし、逃げようとする脚は斬り落とす。動かない相手にも何の躊躇いなく刃を突き刺す。赤い池や噴水を作り、時折快感の顔を見せる。
学生たちの半数は既に息を引き取り、まだ意識がある学生も、その命は風前の灯火だった。横たわる六人の体。つくり上げた光景に、化け物は満足しているようにも見える。
「それ以上動くな!」
怯えの無い声が響く。
声の元を見ると、青と黒の制服姿らしき男が数人いた。
その中に、あの女の姿があった。一番憎らしい、化け物を揶揄いに来た女だ。
いつの間にか姿を消していると思ったら、一人で助けを求め、逃げていたらしい。
「グゥゥゥ……」
そんなところにいたのか、と。
化け物の心には、それしか映っていなかった。
何も聞こえず、何も見えず、何も感じない。
ただ体が動くに任せ、一つとなった獲物に襲いかかる。
その先で、警官が黒い物体を構えているとも知らずに。
―悪夢の目撃者―
『――――のため、夕方にかけてにわか雨が降ることもあります。外出するときは傘を持っていきましょう』
昼下がりの交差点を背景に天気予報が表示される。信号が変わると同時にまくが破られたかの如く人々が流れ出てくる。
「今日も人多いな」
「そうですね」
出番でないことを機にくだけて話すキャスター。その目にはいつも通りの光景が映っていた。機械に動かされる黒い生き物が一斉に動き出す。それが人間だからいいが、虫などと考えればぞっとするだろう。
『続いて各地の天気です』
天気予報を表示していた地図が拡大された。
今日のこの地域の天気は曇りだが、突発的な豪雨の起こる可能性がとても高いというものだった。近年多発している異常気象。これも社会を変えてしまった原因の一つといえることだろう。
とはいえ、異常気象は僅かな異変でしかないことを、スタッフ全員知らなかった。
画面が移動していき、いよいよCM前の締めというときに、それは起こったのだ。
「キャ――――――ッ」
耳鳴りがするほど甲高い悲鳴。驚愕と恐怖で高音となったその叫びがどこから聞こえるものか判らず、スタジオに困惑の空気が流れる。しかし、スタッフの一人があるものを見つけた瞬間、「CM入れて!」と切羽詰まった様子で言うので、何か緊急事態が起きたことは明らかだった。通称・お天気キャスターに何とか締めてもらい、視聴者に何事もなかったように見せかけてコマーシャルが始まる。
「おい、何かあっ――――!?」
番組ディレクターが、一人の怯えるカメラマンの指さす先を見て、息を飲んだ。
赤い。なぜか道路が赤くなっていた。
そして避けるかのように、人々がその一帯を囲む形で空間をつくっていくのが見えた。円の中には、血を流し倒れている男の姿と、その横に立つ刃物を持った男の姿が見えた。
「カメラを回せ!」
「でも今は放送中では……」
「一台残せばいい。他は全てあれを撮れ!」
いきなりの、しかも生放送中であれども、報道魂がこの大事件を見逃すことは許せなかった。お金になるならないという話ではなくこのような事態に立ち会ったものとして。世に伝えなければいけないという使命感だった。既に放送もほぼ終盤の時間。もとよりカメラはコマーシャルの後、一台しか使わないのだ。命令とあれば動きは速い。ケーブルに気を付けながらも多くのカメラが窓やスタジオの外へ駆けていく。
そこから見えた光景は凄まじかった。
如何にも何か格闘技をしていそうな体格の男が、見た目からは想像できない素早さで動いていき、次から次へと刺していく。映画さながらの映像だが、映画では絶対に見ることのできないほど細かなところまでカメラに映されている。
こうもいい風に言っているが、実際のところスタジオに興奮しているものなどいない。出演者は既に位置についているから問題ないが、スタッフの中には今にも吐きそうな男性や恐怖で泣き崩れる女性。カメラには伝わらないが、手が震えているカメラマンやズームしても映した画面を見ていないカメラマンもいる。
「なんというか、すごいものを撮ってしまったな……」
そう言うのも無理はない。殺されたのが一人であれば新聞の一面を飾る程度だが、ここまで大きなものであると号外が出るほどの事だろう。今現場にライバルがどれほどいるか知らないが、自分たちが特等席で事件を見ていることは明白。普段裏の仕事をしている人間が表に出ることになるだろう。
「本番入ります」
コマーシャルがもうすぐ終わるというところで声が掛かる。体の震えや表情などは抑えられないが、そこはプロというだけあり、放送の邪魔にならないよう一切の音がなくなった。だがそれだけで静かになるのはおかしい。外からの騒めきもなくなっている。
出演者を見ていたスタッフが外に目を戻すと、事件に展開があったようだ。
殺人犯である男のまわりは赤く染まっており、そこに六人の男女が倒れていた。そして男の向く先に複数の青い人間、警察がいた。
スタジオにも道路にも緊張が走る。
警察が男に向かって近づいていく中、放送は終わった。すると直ぐに出演者が窓に吸い寄せられていく。それまで事件を見ていなかった彼らはその瞬間、激しい恐怖と生理的嫌悪で体調を壊した。その目の先で、遂に男が動き出した。
男は警察に向かって真っすぐ駆けていく。映画『十戒』の如く人波が分かれ、道が生まれる。それを止めようとしたのか、横から飛び出てきた若者に容赦なく斬りつけ、そのまま地に伏せた。それを見た人波はもっと距離を取ろうとし、道幅は広くなる。
刃物を握る腕は体の前に構えられ、まっすぐ警察のいる方に向かっている。
「止まれ!」
そう言っているのが見てとれた。警告の為にか、一人が拳銃を取り出し地面に向けて発砲した。自己防衛の為なら犯人に銃口を向けることも許されている警察。それが大量殺人犯であり、放置しておけば死者が増えるだろうという状態であれば、躊躇う気持ちすら窺えなかった。
一瞬気を緩めた男だが、再び刃物を構え速度を上げた。
警察の後ろには、通報してきた女子大生がいる。この子だけは何としても守らなければいけないという責任感が警察を動かした。辿り着くまで残り数秒。もう考えている余裕はない。
警察一人が銃口を男に向ける。そして、
「ンガッ――――――」
一発で頭に吸い込まれた弾丸は、男の命を消し去る。
しかし事はそれで終わらなかった。男が振りかぶっていた刃物が手から離れ、刃先を前に飛んでいく。男の意思でも残っているかのように、狂いなく進んでいき――――。
女子大生の顔面に突き刺さった。鼻の付け根と目の間というやわらかいところに刺さったそれは深々と入り、直接脳を破壊。即死だった。
上から見ていたスタッフはこの様子を確認できなかったが、一瞬のうちに二人が倒れ、死んだことは確かめずとも判り得られた。あまりに残酷な死に様に、ズームで撮っていたカメラマンが気絶したのがその証拠であろう。
「これは、明日の放送、丸々変更するべきかもな……」
その呟きは、小さかれどスタジオに響き渡った。
―揶揄いの報復―
「先輩、遅いじゃないですか~」
それは昼休み後、緊張が戻ってきたあるオフィスでの出来事だった。
丸谷留美はこの会社に長く居る方で、教育係だったのもあり慣れ慣れしい部下も多い。そんな部下の一人から声を掛けられたのは留美が出勤して間もない頃。体調不良という体である午前の欠席は、精神的不安定な状態だったということが実の理由だった。
「仕方ないでしょう。私だって人間なのよ」
最近度々起こる情緒不安定は、日に日に影響を増していった。
独り身になるとき決めた決意が薄れ、奇しくもあの男の姿が頭をよぎる。居るだけ面倒な奴だったのに、良い気晴らしだったと今では思ってしまう。離れたのは――逃げたのは私だ。自ら行動を起こしておいてそれを悔やむなどあり得ない。今頃どうしているだろうか……などという考えは頭の外に投げ捨てる。
「あの鬼教官が人間、ね……」
「教官は基本、公務員に使うのであって、私は違います」
「おい、やっぱり人間じゃないってよ!」
「言ったよな~今。違うって言ったよな~」
本当に馬鹿なのか、それとも解った上でこう返すのか。どちらであっても嫌いだ。上司を馬鹿にすることもだが、日常会話がこのようなものになる若者が許せない。関係を弄んで何が楽しいのか、又は関係を築くつもりがないのか。元々仲の良い間で交わされる話なら気にもしない。しかしそれが一方的なものになると、果たしてこのままでいいのか不安になる。このような人間関係をつくるから、近年いじめが多発しているのではないだろうか。
それに比べてあの人は素直で――――などと考えているわけにはいかない。今は仕事中だ。午前中休んだのに、無駄な後悔で時間を費やしている余裕はない。
留美の仕事は主に事務。殆どの時間を相棒のパソコンと共に過ごす。勿論、情報科学が発達した現代とはいえ紙資料もある。塵も積もり山となってる状態だが、周りの机に比べれば綺麗な方だ。
好きで始めた訳でなく、ただお金を得るために始めた仕事ではあるが、今は何も感じなくなっていた。頑張ろうとも思わず、だからと言ってサボろうとも思わず、機械のように、無機質のように手を動かしている。見ているだけなら仕事熱心の良い社員なのだが、生物感の無さにある種の恐怖を覚えさせられるらしい。
それが今までの私だったからこそ、会社内でこれほど感情的になっているということが異常事態だった。考えれば考えるほどおかしくなっていく気がする。画面上で事務処理をする速度は変わらないが、あたかも第二の人格が同時に存在するかのように、脳内は黒く染まっていく。パソコンを残して、周りの景色も溶けて黒くなっていく。指の動きが早くなる。それは集中に因るものではなく、怖いという感情。何をしてもうまくいかないという絶望。過去を振り返っても助けを求める人が居ない孤独。理性で抑えきれない自己に対する生存欲。
私は一体何をしているのだろう。こんな辛いところに毎日通って何が楽しいのだろう。何を目指してこんなに頑張っているのだろう。
あの人はもう居ない。心が帰れるところはどこにもない。家に帰ろうが、そこは休眠を取る場所でしかなく、それは翌日の仕事のためのものでしかない。
私は一体何者だ。何の為に生きているのだ。何故今を続ける必要があるのだ。
幼いころから酷い扱いを受けてきた。いや、それは私に勇気がなかったせいだ。運が悪かった訳ではない。親が悪い訳ではない。頼るという勇気すら持てなかった私がいけないのだ。あの時だって、復縁する勇気がなくて、恐れから逃げるために夜逃げをしたのだ。これほどまで経済が滞っている社会で、私はあの人の迷惑にしかなっていないのではないかと。
あの人が嫌いで家を出たなんて、そんなことあるはずがない。どうにもできない気持ちを抑えるために、あの人が職を失ったからという理由で自分を納得させていたけれど、やはり嘘は保てない。もし相談する勇気があれば、こんなことにならなかったのではないか。もし恐怖に打ち勝つ勇気があれば、関係を続けられたのではないか。もし同じ時を過ごす勇気があれば、逃げることなんてしなかったのではないか。
もし、勇気さえあれば――――。
「あの、先輩。この件について聞きた――――」
嫌なことなんて耐えないで、素直に行動する勇気があればいいんだ。
気付くと、無意識で握っていた細身の鋏を後ろにあった『もの』に突き刺していた。
「てめぇ鬼教官! いくらなんでもそれはサツ送りだぞっ!!」
後ろにあった『もの』は、左右から生える棒を包むように丸くなって倒れている。
それを飛び越すように、新たな『もの』が自分へと突撃してくる。
左手に掴んでいたカッターをそれに向けると、『もの』は自ら己の身を切り裂くように通り過ぎる。倒れ込む『もの』の上部、くびれた部分にホチキスを打ち込む。少し痙攣し、やがて『もの』は動かなくなった。
「おい丸谷、動きを止めろ!」
音を発する『もの』へパソコンを投げつける。
後ろから迫ってきた『もの』の側面上部に空いた穴にボールペンを埋め込む。
次から次へ、『もの』は動きを止めていく。
僅か数分後、斑のある赤に模様替えされた部屋で動くのは私だけになっていた。
嫌なことを耐えずに行動すればいい。
嫌なことをする嫌いなものも、耐えずに行動すればいい。
私が欲しいのはあの人だけ。
他の『もの』は何もいらない。
邪魔をするなら止めればいい。
そして、退ければいい。
まだ固まらぬ赤い泥の上をぐちゃぐちゃと進んでいく。
何かに誘われるように進む先はこの階唯一の脱出口。
その戸を開けると、私は身を投げ出した。
この、高層ビル五三階の窓から、私は身を投げ出した。
―目撃者の使命―
「突然発生した複数の事件。CMの後は、これらの共通点を探してみましょう」
「CM入りまーす」
『この薄暗い社会に光を! 福徳――――』
宗教めいた宣伝が流れる中、少し緊張が解ける。昨日のようなことが起こるとも限らないが、生放送という、ひたすら重荷に耐えなければいけない中でのコマーシャルというのは肩をほぐせる数少ない時間だ。謎の連続殺傷事件から一夜明け、惨劇の波紋は日本全域に伝わった。路上で起こった殺人。オフィスでの狂動。ショッピングモールの乱闘。百を超える失踪者、自殺者。その他、数多くの事件がたった一日の間に発生した。そのどれもが『人間らしさを失っていた』という点で一致する。未だどの加害者からも事情が聴けず、あまりに短期多発した事件に警察も対応しきれていない。孰れの事件も被害者は両手に収まる数だとはいえ、これを一般的な事件と認識するにはどうしても無理がある。
「深く悩まれているようですね」
「伸寺さん。それはまあ、あれを直接見た人間として、考えずにはいられないですよ」
「実際に見て、どう思いましたか?」
「まるで何かに憑りつかれたかのようでした。事件を目撃したのは初めてなので何とも言えませんが、本能で暴れる虎やライオンといった猛獣を見ているのではないかと、そう思いました」
殺人を犯す人間は、その全ての理性が壊れているわけではない。何かの恨みや報復として犯罪を犯す人間は、強い生存本能に動かされていると言って良いだろう。自分だって行動に起こさなくとも、心の中で消えて欲しいと願う人が全くいないとは言い切れない。しかし無差別殺傷を行う人間の考えは分からなかった。殺人犯は本能に理性を食い荒らされた獣だという意見もあるが、野生の動物は自分が生きるのに必要な命しか奪わない。余計な殺傷は行わず、ましてや同種同士の喧嘩による殺し合いは、人間で言う戦争が起こらない限り発生しない。無差別殺傷というのは過度な自己防衛本能によるものなのか。または過剰な自己愛によるものなのか。心理学には詳しくない為分からないが、もしこの二つであれば、どちらも通常状態よりも何かが多く存在しているが為に起こることといえよう。何かが増えるきっかけというのは、深い悲しみや孤独といった強い刺激だろう。出来事の刺激にのみ反応するならいいが、この弱みに付け込むような呪いや亡霊、いや、もっと現実味を持たせると、病気やウイルス感染症なんてものがあるとしたらどうなのか。とても信じ難いことだが、精神不安定による致死事件の多発は、このような伝播性のある物が原因なのではないかと思ってしまう。
「憑りつかれた、ですか」
「偶然同時に起こっただけなら良いのですけどね」
「これほどの事件が同日に起きて、偶然というのは楽観的過ぎるでしょう。しかし、憑りつかれた、ですか。少し、その方面で調べてみる価値がありそうですね」
すかさずメモ帳を取り出し何かを書き込んでいく彼の現職はジャーナリスト。伸寺というのは愛称で、メディアに出演するたび表示されているはずの本名を覚えている人はほとんどいない。以前はどこかの研究所で働いていたらしいが、その並々ならぬ情報収集能力が買われこの業界へ転職したという。それぞれジャンルを絞って日々取材するジャーナリストが多い中、彼は一人、今後必要になりそうな情報を予測して多岐にわたる分野の情報を集めてくる。今回も事件翌日で原因を自推できる程度の情報を既に集めているようだ。
「そのようなことがありえる、というのですか?」
「いえ、その……」
疑問に思って聞いた軽い問いに、彼は口籠もってしまった。何かを隠しているようには見えないが、困り顔を浮かべていた。
「どこかで聞いた覚えがあるんです。でもそれが何だったか思い出せなくて」
「伸寺さんでも忘れることがあるんですね」
「自分は情報を紙に書いて残すタイプの人間ですから。頭だけに留めて置くことができないんですよね。まったく、困ったものですよ」
先程メモを取ったのは、きっとこれが理由なのだろう。紙に残すとそれが元となり、折角入手した独占情報を漏らしてしまう可能性がある。そのため、敢えて自分の記憶のみに情報を貯める人もいる。しかしそれは難しいことで、身をもって経験したことがあるから分かる。自分も記憶で何とかできるとは思えない。
「スタンバイお願いしまーす」
「では、出番ですので」
「本番前にすいませんね」
「いえいえ、私も良い考えを頂きましたから」
彼は本当に、奇怪が伝染していると思っているのだろうか。あくまでイメージであって、事実がそうであるなど全く考えていなかったが、彼の真剣さを見ると自分の常識を疑い始める。事件や事故、病気や自然現象は日々常識を覆しに来る。それまでの経験が常識であって、前例のないことなど世の中には数多発生している。全てのものも、始めは前例のないことだからという暴論こそ言わないが、この世界を人間程度が認知しきれるはずもない。だから未知は多く存在し、それは人々に夢と恐怖を与える。知らぬが仏という諺があるが、今回の事件の真相を知らずに終えるわけにはいかないし、何もなく終わるとも考えにくい。今後もきっと、何かが起こる。そのために、自分ができることは……。
「あの、今日この後の事なんですけど――――」
分からない。自分でも分からないのだが、なぜかその場所が頭に浮かんだ。これらの事件とは正反対に位置するはずの場所が、鍵を握っているような気がする。何の根拠もなく、ただ勘に任せただけの考え。でも思ったからにはそこに行きたくなる。だから今日取材に行こうと、そう心に決めて声をかけた。本番中に番組以外の事を話すなど普段はしないことだが、それをしたくなるほど心が急かしていた。話した結果、自家用車で、かつ一人であれば構わないと許可を得た。スタジオから離れているため、今直ぐ出発して良いとも言われた。伸寺さんと話していた自分だからこそ何か情報を得たと思われたのか、普段は許されない自分の自発的行動が許された。もしこれが成功すれば自分は出世できる。指示を熟すだけの下っ端から単独行動が許される立場になれるかもしれない。記者としての心得は伸寺さんから習ったもの。彼のようになるためには、まず自分の立場を上げて自由に情報収集ができる状況にしなければいけない。そして自分の技術やセンスを磨き、発揮するのだ。
手軽な取材道具を揃えて建物を後にする。貯蓄を下ろして買った愛車が、とても頼もしく見える。これから相棒になるかもしれないのだ。今更ながら、諦めずに買った甲斐があったと深く感じる。そして、夢へのアクセルを踏みだした。
過信以上に、勝機は隙を生む。その油断は時に命をも危ぶませる。調子がいい時ほど魔の手に気が付かなくなる。現状を忘れ、事の本質を見誤るとどれほどの恐怖が待っているのか。彼はこの後感じることとなった。
―山中への密道―
八月五日、午後三時二十八分。一台の車が国道を逸れ、森の中へと入っていく。車内には男が一人、真面目な表情でハンドルを握っている。先ほどの舞い上がりから一転、真剣ながらも落ち着いた様子だ。今後の人生を決めるかもしれないこの取材は失敗できない。推測で目指しているから確証めいたことなど何もないのだが、ある種の賭けであるこの行動に込める思いはとても強かった。
男の名は新田正。テレビ局入社から二年が過ぎ、そろそろ業績の個人差が目に見えてくるような時期であった。彼は平凡だ。与えられた仕事をきちんと熟すが、望まれたこと以上の成果を出せないと言った状況だった。このブラックなシステムの中、役割を全うできるということは本来褒め称えられるべきであるのだが、個性という個性が溢れた人間社会で生活している彼は、とても肩身が狭い様子であった。彼には大きな好みがなく、また生まれも特筆することがない一般家庭であった。それに加え伸寺のような、所謂才能のようなものも見出せないでいた。現代社会が求めているのは汎用的人間ではなく特殊な、専門的な人間である。しかしそれは努力だけでどうにかなるようなものではない。だから彼は、今回の件を運に頼って動き出したのだ。
水平だった道はだんだんと傾斜となり、これが山へと続くものだと伝えてくる。道案内アプリが示す通りに進んでいるのだ。たとえ初めていくところだとしても迷うことはない。紙の地図というものはあまり見かけなくなり、地図を読み解くという作業も必要ではなくなった。行動する度にその場所を想像し考える必要がないというのは楽であるが、だからこそこのような状況になるのだろう。確かな道を進んでいるはずなのに間違っているのではないかという不安。気配はないが、何かいるのではないかと思えてくる森の中に、舗装された道が続いている。少し前までビルが立ち並んでいた道沿いは、多くの木々が茂っていた。日常の傍にあった非日常へ迷い込んでいるようだった。
「そろそろだな」
誰かに聞かせるわけではないその声は、静かな車内で微かに呟かれた。
「ここ、か」
都会ではあまり感じられない森の湿気。それをここでは、肌をもって感じさせられる。蝉が鳴き喚き、余計に暑さを感じてしまう。日陰だというのにこの蒸し暑さというのは、日差しを浴びること並みに辛い。
車を降り、鍵をかける。ここは駐車場であるはずだが、車は一台も止まっていなかった。まさか、ここには誰もいないというのか。賭けは空振りに終わってしまったのか。
暑さゆえか、それとも冷や汗なのか。体から溢れる滴が流れ落ちていく。額を濡らすそれを肘で拭うが、あまり良い気はしなかった。
持って行くものは最低限度の取材道具だけ。大まかに言うのなら、小さなメモ帳とボールペン、そしてテレビ記者としては重要なカメラの三つだ。
「よし」
何も感じ取れない現状に焦りを感じるが、とりあえず録画を開始する。声はあとでいくらでも合成できるから、今は必要ない。大切なのはこの場所を、状況を、しっかり記録すること。遠くに見える白い建物に何があろうと、その全てをカメラに収める。この映像は、唯一無二の物なのだから。
一通り外観の撮影を終え、ついに建物の中へ入るときが来た。本来、建物の所有者または権利者に許可(アポ)を取ってからの撮影が基本(セオリー)であるはずなのに、すっかり忘れてしまっていたのだろう。突撃取材になるのは仕方ないが、建物の中を撮らずして帰るわけにはいかない。多少頭を下げることになっても――――。
悩みながら、建物の中へと入って行った。
「…………」
来るべきではなかったと。深く反省している。仕事を終えたカメラは地面に置き、ほんの先程まで通話に使っていた携帯を持った腕はだらりと重力に遵っていた。今程この携帯(ガラケー)を苦に思ったことはない。スマホであればスライド一つで済むというのに、これは態々電話と数字を合わせて五回も押さなければいけなかった。酷く気落ちしている現状に、それはかなり苦痛であった。
別に叱られたというわけではない。そもそも、中に人はいなかった。正確に言うと、”生きた人間は”いなかった。それ以上は思い出したくない。
勿体ないなどという感情は抱かないから、さっさとこのカメラを誰かに渡してしまいたい。直ぐに壊してしまいという衝動に駆られるが、あの給料で弁償できる額ではないことなど知っている。それにこの情報(データ)は自分の気持ち一つで失って良いものではない。ただただ、恐怖と後悔とが混ざり合った複雑な感情を、押しとどめておくことしかできなかった。
サク サク サク …………
誰かの足音が聞こえる。間隔の広いそれはだんだんと大きくなってくる。早いな。さすが緊急車両なだけはある。ドアの開閉音は聞こえなかったが、きっと考え詰めていたからだろう。これでようやく救われる。ここから逃げることができる。
「ありがとうござ――――」
振り向いたそこには、誰もいなかった。確かに聞こえたあの足音は一体何だったのだろう。幻聴だろうか。いやまさか。確かに自分は足音を聞いた。証拠はないが確信がある。では一体……。
答えは直ぐに現れた。視界の両端から現れた腕。ごつごつとしたそれは目を覆い隠す。振り払うこともできないまま、後ろに倒された。
その時に打ったのだろう。この後の記録は残っていなかった。
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○迫りくる猛威、―狂人病―
~~された。
我々はこれを“狂人病”と名付けようと思う。
数多くの精神病が生まれるこの時代。
遂に自らの理性を壊す病が生まれてしまったのだろうか。
無作為に人を殺し始める精神病など、恐怖でしかない。
しかし、これを病気以外に説明できないだろう。
確認されている中で第一の発症者は長居利という~~
(※週刊ミステリー八月第一週号抜粋)
※この物語はフィクションであり、実在する人物、団体等とは一切関係ありません。
※作品中の挿絵は知人に描いて頂きました。
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