黄桃缶詰
SINCE 2015
活動再開!2019年4月発表をめどに小特集「曖昧なる境界線」が決定!(1/28)
はる「ロジウラ」、misty「時間喰いのモービーディック」の原稿を掲載しました!(11/25)
しばしの間休載。(9/12)
少女の瞬間 新嶋 樹
まだほんの幼いころに少女の指は縮んだ。中指が薬指と同じくらいの長さになった。少女はそれまで自分の手のかたちがどんなにきれいで、その指が、自分のもっているどんな人形の指よりていねいに一本ずつ作られているのかを意識しなかったが、指のことがあってからは、いつでも手を見るようになった。先生が黒板に書く言葉をノートにうつしとってしまい、遅い人をまっているみじかい間や、体育の時間にひざをきちんと揃えて体育座りをしているときや、父が洗い場でからだをこする合間の広い湯船のなかで、少女は自分の手指を見、なんてきれいな指だろうと考える。家に帰ると真っ先に自分を抱きとめる父のかたくささくれた手指とはちがう、ほのかに内側からしろくひかって見える、なにかおおきな存在による精巧な細工のような手を意識する。すばらしい手だ、と幼いながらに思う。母が弟の爪を切るのを見ている。弟の爪がはじけ飛び、カーペットの上に落ちるのを拾う。三日月形に弟のかみあとのある爪の表面を指の先でつまんで圧迫し、その痛みをたしかめ、わたしの指の爪じゃない、と思う。母や弟に見られないようにたっぷりその感触を味わってから、カーペットの毛のすきまにねじこむ。少女は誰に教わったこともないが、自分で爪を処理する。爪切りのわきの、ヤスリの部分で毎日削るので、いつでも伸びない。もっと幼いころには切ってもらっていたのかもしれないが、少女はもう覚えていないし思い出す気もない。この指はわたしに与えられたもので、弟の爪と同じように扱われるものでないと、指のことを考えながら、しかし少女はたえず、自分の中指が自然に伸びていないことを意識させられているのである。どれだけ少女がものさしをあててみても、ひっぱってみても、そらしても折り曲げても、少女の中指は薬指と同じ程度の長さしかなかった。
伯父のやっている喫茶店を手伝うために、母は自転車で森の中の坂道を上っていった。まだじゅうぶんに若かった母の耳をひっかくように、女たちの噂が飛び交う店である。母には女たちが木にとまって樹液を吸っていく虫のように思われた。ジャズのうすく流れる、冷房のきいた店内で、伯父はフライパンのたてる音によって耳を覆い、その妻はなじみの客とすっかり打ち解けて喋っている、というのが母の店につとめはじめたときの店の印象で、母はそのどちらの道も選ばなかった。何カ月働いても店員としての遠慮を崩さなかった。客から話しかけられても、あいづちをうつか、笑みをうかべて、うしろにさがっていくような態度をとったが、それがこの店の客にとっては失礼にはうつらない、というのを何度かの学習ですぐに母は知っていた。母は耳を覆うのではなく、客の言葉を聞きながらも入っていかないようにしたのである。そんな母だが一度だけ自分にまつわることを客の前で語ったことがある。喫茶店で六年のあいだ働きつづけた母だったが、四年目の冬に客から、「あなたはお子さんがいらっしゃるの」と聞かれたのである。ええ。そのような言葉を投げかけられるのは初めてではなかったので、ふだんのようにうなずきとも礼ともとれる動きでさがろうとすると、ふだんとはちがう言葉がかえった。わたしはこの喫茶店の店主のことを知っている。ひとりで来店したその女は言った。あの人と同級生なのわたし。そうですか。母が店主の妹でずっと手伝いに来ていることも女は知っていた。そこまではよかったのだが、碧ちゃんはお元気ですか、と女が少女の名前を口にしたとき、急に母にとって目の前の女が、木にとまって樹液をすっていく虫ではなく、重みのある、それでいてひどく実在感のない存在にうつった。そのとき客は女ひとりである。女は身じろぎひとつしなかった。母は口の端をわずかにもちあげて、うすく、寄るか寄らないかの皺で、笑みをつくった。どうともとれるように。女は、碧ちゃんの指は、と言う。すこしみじかいようですけど、どうしてですか? 笑みをはりつかせたまま母は考える。悪意以外の何物とも母にはとらえられなかった。女は自分が娘の指について語るとは思ってはいないだろう、そしてこの女は、二度とこの喫茶店には来ないだろうと考えたとき、母の口は、娘の指についての話を語ることにしたのである。
かんたんな話です、と母は前置きする。娘が六歳になる直前のこと、いつものように夫とじゃんけんをした。二人とも仕事が終わってきちんと家にいる日には、どちらがかわいい子どもたちを風呂に入れるか、じゃんけんをする、バカみたいな習慣がうちにはある。言葉を切って、ふと口を閉じたときにつくられる、笑み、口もとのうすい皺が、相手にもたらす効果を意識しながら母は語る。その日勝ったのは夫だった。夫の脚にからだじゅうくっついて、子どもたちは浴室に向かっていった。しばらく子どもたちの声と夫の声が反響しながらリビングに聞こえていた。そういうとき、わたしは見ているテレビのワイドショーのボリュームをさげる。夫と子どもたちの、意味はわからないけれど楽しそうな語らいが、耳をやわらかくくすぐるのに任せていたいから。ずいぶん時間が経っても出てこなかったが、長風呂は別にめずらしくもなかった。しかし廊下の暗がりの奥の浴室から、ひとりきりのリビングにふいにたまろうとする、なにかたまりかねるようなものを消してくれる三人の声がしばらく聞こえなかった。やがて浴室の戸が開く音がした。それで安心した後に、何か大きなものが思いきり倒れるような音がした。そこで、切迫感、という言葉を使って、母は一旦とまったが、訂正はしない。もう、履いていたスリッパをぬいで浴室に向かっていた。そうすると、浴室の外、脱衣所のとびらが半分開いている。まず見えたのは全裸の夫の腰。洗濯機を背にして夫が見下ろしているのは、やはり裸の背から湯気をたちのぼらせる娘。息子の泣き声が、かたくしめられた浴室から聞こえていた。前にのばした娘の右手は、血にまみれている。しゃがみこんで見ると床には湯だまりや埃カスにまじって血の通路ができている。血をたどると、脱衣所のとびらにつながっている。はさまれたんだ、と夫が言った。だれが、なにを、どうすればこのとびらに指がはさまるの? とゆっくりたずねた。おれが悪かった、碧が近くでしゃがんでるのに気づかないで、とびらをしめてしまったんだ。それだって、こんな器用に人の指をはさみこむようにはできてないよ、とびらっていうのは。夫は泣いていた、わたしも泣いた。娘のやわらかい中指の先は、とびらと床にはさみこまれた。切断こそなかったものの、骨は粉砕した。医者は、時間はかかるが、傷跡もとくに目立たず問題なく治ると言ったが、そのすぐ後で少し指がみじかくなってしまう、とわたしたちに告げた。それは問題なんじゃないですかとわたしが言うと、医者は黙りこんだ。
「かんたんな話です」母が言い終えるまで、女は出されたコーヒーに手をつけず、青色のマニキュアをつけた指をもてあそびながら聞いていたが、やがて顔をあげると、「詮索してしまったようでごめんなさい。じゃんけんであなたが勝っていれば、娘さんは助かっていたのかもしれないんですね」と言った。つらい話をわたしなんかに聞かせてくれてありがとうございます。女は去り、母がその女を喫茶店で見かけることはたしかに二度となかった。伯父の妻は女のことを推理した。「碧ちゃんの同級生の母親って線がいちばん濃いね」と言った。「ほかに碧ちゃんの指のことを知っている人はあんまりいないもの」母はそう言われてみれば女のすがたを学校で見たことがあるような気がしたが、たしかにそうとはいえなかった。伯父が、自分の妻以外で、血のつながらない女の親しい知り合いはいないと言うと、「たしかにそう、とはいえないわね」「そりゃそうだ。どんな風に言ったって、たしかにそうかどうかはわからないよ」その言葉は、自分に向けられたものなのではないかと、母には思われた。
少女を助手席に乗せる父の指がサイドブレーキをおろす。少女がシートベルトをひっぱって、胸の前にのばし、ロックする、カチン、という音を父の耳は聞いている。少女は前を見つめている。自動車を動かしながら、父は徐々に深く腰掛け、シートを動かし、ミラーをずらす。指をハンドルにうちつけ、リズムをきざむ。赤信号でとまったときに、父は少女の横顔を確認する。鼻のふくらみ、稜線が、日に映えてしろく、なだらかだが、たしかな輪郭を父に感じさせた。まつ毛がとても長い、と父は思う。こんなに長かっただろうか?「碧、学校の勉強どう」「えっとね、いまかけ算やってる」「九九かー」「二の段いおうか」「おう、ちょっと言ってみ。聞くよ」二の段をそらんじる口元を父が見つめていると、少女の顎がもちあがって、「あっ、パパ」という。父は自動車を発進させる。つぎは三の段。ぜんぶいえる? まだ、六の段まで。少女が笑い、父も笑う。道は空いている。大きなショッピングモールにさしかかる。ショッピングモールに入ろうとする右折車を横目にしながら、パパ、トイザラス! 娘のはしゃいだ声を思い出している父は、隣にいる少女が建物に見向きもくれずにかけ算をそらんじていることを、ハンドルをたたきながら、つよく意識している。少女の声はかわらない。どうしてそんな高い声が出せるのだろうと父は思う。少女の見ているアニメもかわらない。少女の日曜日の朝ははやく、六時半にはもう起きだしている。父がやっと八時ごろになって目覚め、リビングに入ると、子ども向けのアニメを見ている少女に出くわす、それはかわらない。いつだって少女はしっかり起きて、アニメを見ている。だが父はそこに違和感をかぎとるのである。Mの字に脚をたたみ、背をまるめ、首を前にのばし、まばたきもせずに、アニメーションの一部始終を呼吸しようとした娘。「朝ごはんができたから食べなさい」といわれてもまるでテレビと自分を接着したかのように見向きもしなかった娘。父はとなりでなかば泣きだしそうになっている息子を抱きとめ、もちあげてやりながら、子どもの集中力というものはすごい、と思ったのである。全身で集中するのだと。しかし今はどうだろうか? 日曜日の六時半に目を覚まし、アニメを見る少女の脚はMの字である。しかし首を前にのばしてはいない。ただ見ているのである。「朝ごはんできたよ」といわれて、すぐに立ち上がる少女。となりでまだ見ている弟の手をひこうとし、振り払われ、「もうっ」といいながら母親の袖を引く。旺介こないよ、ママ。もうっ、母は弟の肩を、ほらっ、と叩く。弟はいやいやをする。「知らないよ、じゃあ旺ちゃんの分はないよ」母は弟が泣くまでやることもあれば、アニメが終わるのを待つこともあった。少女はそういうとき、奥に流れるアニメではなく、じっと弟と母の方を見ている。父は少女の行儀よく腰かけた席の向かいで目玉焼きを食べながら、そういう少女のすがたを見ているのである。ショッピングモールを通り過ぎ、少女のかけ算はとまっている。しじゅうに。あっ、そうか。ろくしち、しじゅうに、ろくはしじゅうはち。ろっくごじゅうし!「碧すごいよ。よくそこまで覚えられたね」「毎日ママに、聞いてもらってるよ」母は少女がかけ算を覚えた話を父にすることはなかった。
胸の前に少女がボールをもっている。五歳の少女と、八歳の少女、十歳の少女がボールをなげる。五歳の少女はからだにあまる大きさのやわらかいボールを、足元に向かってたたきつけるように投げる。芝生に落ちたボールはほとんど跳ねずに転がる。少女の顔も、投げ終わると足元を向いている。もちあげられた少女の顔を見た父は、すぐにボールを拾い、少女の手に握らせる。まるめた指を一本ずつ外側に反らし、ボールを手と手のあいだにはさみこむのである。また下にたたきつける少女は、転がったボールをそのままにして、近くの家族が遊んでいるバドミントンの羽根を目で追うが、その場にバドミントンのラケットはないのだ。八歳の少女のボールは、山なりの軌道を描く。待ちかまえる父のところに向かわず、近くの木に向かっていく。「あっ、」少女は笑い、走って取りに行く。父は戻ってきた少女のうでをにぎる。少女のからだをねじり、「もっと、きちんと投げる人の方を見て」足を投げる人の方に向けて、体重をうしろに乗せて、投げるんだよ。少女と父がいっしょに投げたボールは、すべって真上にとぶ。二人はバドミントンをはじめる。八歳の少女の日記には、父との一日の様子が書かれる。『今日、お父さんといっしょに公園に行きました。はじめに、ボールなげをしました。お父さんに、なげかたを教えてもらいました。お父さんは、「きちんと投げる人の方を見て、投げるんだよ。」と教えてくれました。前より少し遠くにとぶようになりました。つぎに、バドミントンをしました。風がふいていて、はねがうまくとびませんでした。でも楽しかったです。』十歳の少女は日記を書かない。日記帳はいつか用意したランドセルのなかに入ったままである。少女のボールは父に届くようになった。少女がボールを投げる。父がボールを返す。五回、六回もすると少女は飛んできたボールをしっかりつかんで、「ねえ、パパ、どんぐり拾おう」という。「まだはじめたばかりじゃないか」「どんぐり拾いたい」少女が足元のどんぐりを拾うのを、父は手伝った。自動車からコンビニのふくろをもってきて、そのなかにいれた。少女の右手の中指にまかれた絆創膏がはがれかかっている。少女はトイレに行くと言い、個室で絆創膏をはぎとった。ポケットから長くつながった絆創膏の一枚だけをとり、ていねいに巻いた。ふるい絆創膏と包装紙は汚物入れに捨てた。
隣の子をひとり抜いて少女はラストスパートをかける。「腕をふって! 顎をひいて」先生のみじかい声を聞きながら、見学している友だちは少女の走りが加速し、前の子を抜いていくのを見つめている。友だちは地面の砂を指でなぞっていたが、最後の一周になって、少女が遠くでどんどん前にいる子を抜いているので、手についた砂を払った。ゴールライン付近、自分の目の前で、いきなり少女が早くなったように友だちには思われた。先頭の子がゴールする、そこでとつぜん空気が重たくなったように倒れこもうとするのを先生がトラックのなかへ誘導していく、その半周手前で、今少女は最後のカーブにさしかかる。前には二人の子がいる。ひとつ前にいる子は、顎をもちあげて、目もとじて、赤白帽子もぬげ、息たえだえ、という様子に友だちには見えたのだが、外側から大きくカーブを描いてかわしていく少女の走りはもっと力強かった。さらに前にいる子との距離もぐんぐん近づいていく。「最後までしっかり!」「がんばれ」「おおっ」直線に入ると、寒いなかで女子の走りが終わるのを待たされている男子たちも二人のあらそいを注視して声を出しはじめる。前の子は少女の存在を意識しているようだ、歯をむき出して、肩をゆらし、胸をそらして少しでもゴールに近づこうとしているが、かえってバランスをくずしている。友だちは、いける、と思った。少女の腕はいま、しっかりふられて、前の子との間にはさまる空気をとりのけようとしている。しかしその差がからだ一つ分まで近づいたとき、友だちには、少女がふっと力を抜いたように思われた。順位は変わらないまま、前の子の胸がゴールラインをわった。「いい追い上げだったよ」先生が抜きそこねた少女の肩をたたく。「すげー」男子から声が出る。グラウンドの内側の待機ラインにすわった少女は、上気していたが、笑顔で周りを見回している。友だちには、まだ少女が余裕を残しているように思われた。喜んでいるようにも悔んでいるようにも思われなかった。「碧ちゃん、カード見せて」持久走大会のあとで少女のところに友だちが行くと、少女はポケットからきれいに折りたたんだカードを出して見せる。「三位じゃなくて、二位になれたんじゃない、碧ちゃん」「えー、なれないよ」少女は手を振った。あとちょっとだったよ。うーん、もう限界だった。そうかなあ。あーあ、つかれた、「そのカードあげるよ。環ちゃん」「えっ」「だってこれ、先生に出さなくていいんでしょ。環ちゃん休んでたし、つまんなかったでしょ」「えー」友だちは教室に持ち帰って、カードの中央に大きく書かれた「3」を取り囲む、くまとうさぎの笑顔に色を塗った。色を塗っても、ちっとも自分のものには思われなかった。友だちが少女の席に返しに行くと、「えー、別にいいのに」「だってこれ、碧ちゃんのじゃん。三位になって、うれしくないの」「わたし別に誰かに勝ちたくなんかないもん」少女はカードを受け取って、またきれいに折りたたむと、道具箱のなかにしまった。その後ふいに思いだして友だちがこっそり少女の道具箱をのぞきこんだとき、そこには整然とならべられた色鉛筆やハサミやノリがあるばかりで、順位カードはおろか、友だちの道具箱に入っているような、ねり消し、中途半端に折られた折り紙、誰かに宛てるつもりの小さな手紙のようなものは、どこにもなかった。
少女はプリントを配る。列の人数をかぞえ、「はい、どうぞ」と笑顔でわたす。「先生、手伝えることありますか」朝、クラスでの挨拶の前、十分の短い休み時間のとき、帰りの会の前のあわただしい空気のなかで、少女は先生の机の隣に寄って声をかける。「もうランドセルの用意終わったの」「はい。何かありますか」じゃあ、と言って先生が渡したプリントを、少女はあっという間に配ってしまう。他にはありますか。「いつもありがとう」あわただしさのなかで、少女に対して全力の賞賛を投げかけられないことを、先生はもどかしく思う。「今日の先生のスーパースターは、長谷川さんです」先生は少女のことを紹介する。「いつも、真っ先に先生のところに来てくれて、お手伝いしてくれるんです。どうもありがとうね」帰りの会では、クラスの全員で声をそろえて、その日のスーパースターに「ナイス!」を言うことになっている。「ナイス!」少女を賞賛する、その一瞬の後、また他の子どもにも目を向けなければならない先生は、いつも手伝いを率先してやろうとする少女に、そのつど満足なフィードバックが与えられないことになやむのだ。「本当に、よく心配りのできるお子さんです。まだ三年生で、ここまで周りのことを考えて行動できる子は、なかなかいませんよ」「そうですか。まあ、お手伝いすることは、好き、みたいですね」先生が身を乗り出して言うのに対して、母が答える。先生は、茶菓子を前にして座っている。母は茶菓子を置くだけで、それを先生に、食べるようにはすすめない。先生がひとつ前に行った家では、羊羹を取り出して、先生の自転車のかごに押しこもうとした。そうでなくても、どうぞ、お飲みください、いろいろ回られて大変でしょう、というような声を先生にかける家がほとんどである。すべての家で飲んでいるわけにはいかない先生には、母のような無言の気配りがいちばんありがたい。最低限の礼儀として出されただけの茶である。「おうちでも、長谷川さん……碧さんは、お手伝いしているんですか」「ええ、ときどきやってくれます」「へぇ、どんなことを?」先生は語尾をあげる。身振りをまじえたり、大袈裟に言ったりするのは、先生なりの、信頼を得ようとして行うポーズである。「弟の世話や、お風呂掃除、」母は言葉を切る。「最近は、料理も好きですね」なるほど、おうちでも、いろいろとお手伝いしているんですね、えらいなあ。でもだらっとしていることも、いっぱいあるんですよ。えっ、学校ではそんなそぶり、見せませんけど。家では、なんだかぼうっとして、話しかけても、返事しないことがあるんです。へぇ、つかれてるんですかね。さぁ、それはわかりません。「先生、手伝えることありますか」休み時間のときでも聞いてくる少女を、先生は、ありがとう、と手伝わせる。先生は少女の様子を見る。勉強も運動もよくできる。少女はことさらアピールしないが、乗法の筆算も、解き方をあっという間に覚えたように先生には思われた。手伝いはよくする、しかし友だちと遊んでいないわけでもない、「図書室行こう」と笑顔で誘いかけ、友だちと同じ本、ミッケやウォーリーのような、遊べる本を読んで笑っていることもあるし、タイヤの上で友だちとじゃんけんしているところも先生は発見したことがあった。それでいて、先生の必要としているタイミングに、滑り込むように、少女は、そっと手伝いを求めるのである。隙がない、と先生は思う。先生は少女を叱ったことがない。その隙のなさ、引っかかりのなさが逆に、先生の心には引っかかった。ところで長谷川さん、少し気になっていることがあるんですが、お聞きしてもよろしいですか。碧さんの右手の指には、いつも絆創膏がまかれていますね。どうしてなのでしょうか。先生は喉元に出かかったその質問を母にしなかった。身体的なことについては、保護者からの情報開示がない限りは、ことさら尋ねてはいけないと、学んできたからである。しかし少女がいつも絆創膏の上から指をなでるようにさわる、そしてふとした瞬間に見つめていることに気づいた先生は、気づいてしまった事実に対して、意味を考えずにはいられない。先生は絆創膏の下を見たことがない。
「パパ、シートベルトしてよ」家を出てから三つ目の赤信号で母が言う。「ああ、」父はサングラスをかける。「今日はよく晴れてるな。行楽日和だと思わないか、ママ」「シートベルトをしなさいよ」ハンドルに指でリズムをきざむ父の、もう片方の手がベルトにのびる。ベルトをつかんだ手が腹の上を這う。ベルトが、固定される前のところで、とまっている。「どうして、シートベルトをきちんとしないの」後部座席で目をつむっている少女の足の裏が、両親の座席のあいだに乗っている。少女は靴を脱ぎ、リボンのついた靴下の裏を、二人の視界の端に見せている。弟はさらに後ろで、少女の肘の下に顔を埋めている。少女はその日午前三時に目を覚まし、それ以来眠らなかったが、自動車に乗り込むとすぐにくずれて静かになった。「いやぁ、行楽日和だなぁ」父はほほえむ。「パパ! 信号青」父がアクセルをふみこむと、家族のからだは後ろに引っ張られる。もう、どうしてそんな乱暴な運転なの。笑おうよ、これから楽しいことが待ってるよ。わたしは楽しいことが起きる前に誰かさんの下手くそな運転で死にたくない。大げさなやつだな。ほら、車間距離。前よく見て。父はシートベルトを離し、母の頬にさわろうとする。ちょっと、やめてよ。なんだよ、べつにいいだろ。よくない、なんでいきなりそんなことしようとするの。奥さんだからに決まってる。なにを拗ねることがあるんだよ。いいから、前見て運転してよ、子どもたちの前で、恥ずかしいでしょ。なにが五歳と二歳の子どもにわかるって? べつにセックスしてるとこ見せたわけじゃないだろ。なに言ってんの、変態。おれのこと、変態だって思うんなら降りろよ。父は笑っている。降りたい気分よ。母は父の方を見ない、助手席側の車窓へ目を向けながら話をつづけている。ああ、そんならこっから蹴り出したっていいよ。子どもはどうするの、あんた二人を育てられるの? なんでおれに育てられないって思うんだ、おれのこと、甲斐性なしだとでもいうのか。自分でわかってんじゃん、ほら、赤! シートベルト。少女の目が開いている。前方の座席のあいだにのせた脚の先から、世界が真っ青に広がっている。かげの濃い父の肩や、母のうなじがわずかに前の座席からはみ出して、ゆれている。二人の声が少女の耳を反響している。碧と旺介だったら、どっちをとる。やめてよ、そんな話。こういう話をもちこむのは、いつもおまえだよ。おれたちは、ふだんは仲のいい家族じゃないか。ハンドルをたたく指がとまっている。少女はよく父に対し、「ハンドルいっぽん、じこのもと!」と歌った。「マッチ一本、火事の元」を替えた歌である。家族で自動車に乗るとき、父の運転に対して、母の「ほら、危ない」が始まると、少女は後部座席から身を乗り出し、父が片手しかハンドルにかけていないのを見て、指さして歌い始める。「おもしろいこと言うなあ。そんな歌、どこで覚えんだよ」「わかんない」父も母もそのときは笑っている。けれど今、少女は身体を起こす、その開いた目で、父のハンドルを見ようとはしない。座席からはみ出した肩のわずかなゆらめきを、じっと見ている。おれはお前がどっちをとるか、わかるよ。わたしも、あんたがどっちをとるかは、わかるのよ。少女のまぶたが、ぐっとさがる。ふたつの大きな目を覆い隠す。少女がもう一度目を開けると、前の座席の二人はもう何も喋っていない。「パパ、トイザラス!」少女はおもむろにさけんだ。
つい三十分ほど前には通りいっぱいに広がっていたランドセルは絶えてなくなり、友だちが別の友だちに会うこともない。友だちは誰かに会って、「これからどこ行くの」と聞かれたくない。三度も聞かれたことがある。「どこ行くの」「ちょっと忘れ物したから、学校行くんだよ」友だちにとって、それがいちばんいい嘘だといえる嘘だった。はじめに聞かれた時は、公園行くよ、と言った。いいな、あたしも行こうかな、ちょっと待っててよ、たまちゃん、ランドセル置いてくるからいっしょに行こう。友だちにはその言葉を遮ることができず、そのまま目的地を変えてしまった。友だちはそうして嘘のつき方を学び、嘘をつかなくても済む時間帯を見計らうことを覚えた。横断歩道をわたり、細い路地に自転車を向けると、周りの家の間隔はせまく、互いに圧迫し合うようになる。家々の小さな庭につめこむように植えられる樹木の緑が、友だちにはどぎつくうつった。路地を抜けた先に、ヒーリーズのウィールの回転する音が響いている。友だちから挨拶することはなく、いつも見つけるのは少女で、声は上から降ってくることもあった。声の出所に戸惑う友だちのこめかみに、紙飛行機がぶつけられ、仰向くと、窓から身を乗り出して手を振っていたのである。環ちゃん。ヒーリーズであそんでいる少女のすがたはウィールの音が反響するばかりでどこにも見えないが、とつぜん自転車が重くなったかと思えば、うしろを少女がおさえつけている。友だちは、靴の音がこちらによく聞こえるように、自分の自転車の音を少女はよく聞きとっているのだ、と考える。「プリントもってきたよ」「ありがと」少女は玄関の扉を開け、開けっ放しのまま、上に駆けていく。階段をのぼる足が家を揺らしている。友だちは自転車を庭の隅に置き、玄関に入って、「おじゃまします」とお辞儀をすると、自分の靴を脱ぐ。脱ぎ散らかされている少女の靴をそろえる。「あら、環ちゃん、いらっしゃい、いつもありがとう」友だちは母に向き直り、またお辞儀をする。「今、お菓子をもっていくからね。お部屋にどうぞ」友だちが階段をあがっていき、右に折れるところで少女が飛び出してきて、わははは、ともたれかかったので、友だちは階段を二段すべりおち、うしろについた手を軽くひねった。プリント、つぶれちゃったよ。少女は友だちの肩をおさえて引き上げ、部屋につれこむ。「なにしてあそぼうか」「わたし今日は公文あるから、長くいられないよ」「ああ、そうなの」母がもってくるポテトチップスを、少女は笑いながらお盆にぶちまける。「ありがとう、ママ」「ありがとうございます」母はいつも、「いいえ。ごゆっくり。いつもありがとうね」と言ってさがるのだが、友だちはその言葉を発する時に母が見せる笑み、落ち着いたトーン、垂れかかる長い髪を見るたびに、胃の奥に重たい液体を流し込まれるような気分になるのだ。少女も母親に笑顔で礼を述べるのだが、友だちにはその笑顔がもはや、少女を覆い隠すほどの効果を見せていないどころか、かえってしらじらしいもののように思われる。二人は学校ごっこをはじめる。柱にさげられた小さなホワイトボードに、734÷5、と書いて、花野さん、これが分かりますか。はい。もっと返事は大きく。はい! 二人は顎を引き、うなずきながら笑う。ねえそれ、センセーのマネ? 授業中に喋っているのは誰かなッ? ねえ花野さんッ? 二人はいっそう笑っている。友だちがホワイトボードの前に行き、筆算をしてわたすと、少女は、そう! 今花野さんがやったこと、みなさんわかりましたか。きちんと、位を揃えて書いていくのが大事ですよね。赤いペンで丸をつけ、じゃあもう一問! 今度は別の問題出すよ。また一学期の問題だ。ホワイトボードの問題をわざと間違えて見せながら、友だちが後ろをのぞくと、少女はポテトチップスをほおばっている。センセー、授業中にものを食べていいんですか? いいのいいの、センセーは特別! 二人は笑う。あれあれ、その答えでいいんですか花野さん? センセー、わかりませーん。ふぅむ、じゃあ席について……。『うそつき』と書かれた折り紙を手にした友だちは、次に何をするべきなのか分かっている。先生は気がつかないようだけれど、本当に気がつかないんだろうか、と友だちは思う。実は気がついているんじゃないだろうか、でも気がついてもつかなくても、どちらも少女が今、教室にいない事実に変わりはない。もう何通も、がらんどうの少女の席の後ろに座る友だちに運ばれているその手紙を、はじめに渡されたとき、友だちは開けることができなかった。友だちは少女のいない前の席に指を伸ばして、道具箱に、手紙を放り込み続けた。『みんな知ってるよ』『あまえんな』そのうち開いたままで渡されるようになった手紙を、友だちがそむけきれず目に入れた瞬間から、友だちは知っていて手紙を運ぶようになった。少女を嘘つきというなら自分も嘘つきだ、友だちは少女の前で笑顔を作る。クラスメイトだって大人だって誰ひとり嘘をついていない人はいない。手紙のなかには一本指のみじかい手が描かれたものもあった。少女のことが友だちには少し分かるような気がする。完ぺきな人に見えていた少女が今自分の前で靴を脱ぎ散らかしているのも分かる気がする。友だちは放課後、少女の家で学校ごっこに興じながら、ねばりづよくこねて作りあげた自分の笑顔が、本当の、喉の奥から湧き上がってくるような笑顔に変わろうとする瞬間を意識する。少女の首を抱き、うなじの香りをかぎたいような気になるし、長い髪に手をからませて、きれいだね、と言ってみたい気になる。けれどそうする腕と手で、友だちはどうしようもなく少女に折り紙をつきつけたい気になるのである。少女はきっと笑い方を知って笑っている自分を知っていて、なお笑っている、友だちは自転車で路地に入り、ヒーリーズの音を聞いた瞬間からもうそのことを知っている。それは友だちにはたまらなく重たいことで、少女の家に行き、自分の届けたプリントが丸められゴミ箱に捨てられているのを見るようなとき、友だちがはっきり自覚することをまだ望んでいない古くて新しい種類の感情が、徐々に、おさえきれないほど胸のうちに膨れ上がってくることに、友だちは悩みつづけている。
その音が通りから聞こえてくる。空気の抜けたタイヤ、油の切れたチェーンをいじめる、こころもち急いた音。今日はまだやってこない友だちのタイヤの音ではない。少女はしゃがんで窓から隠れ、自分の部屋のドアをしめる。ドアの鍵はこの間、母と争ったときに壊してしまった。母はそのとき逃げてきた少女の後を追い、少女が部屋の中に閉じこもり、鍵をしめようとするのを、鍵穴をおさえて阻みながら、何度も、碧ちゃん、碧、みぃどりぃ、碧! と声色を変えた。少女は大人の力に負け、ドアをこじあけられ、侵入され、母に抱きかかえられた。少女は両脚を折り曲げ、力をこめて母の腹を蹴飛ばした。母はうめいたが、抱きすくめる腕のやわらかい圧力は変わらず、爪は接触しかかっている少女の額に向けられることなく、碧ちゃん、お母さん分かったから、もうあんたに何も言うつもりないから。少女は、母が自分のことをふだんのように、ママ、といわずに、お母さん、と言うことの意味を考えた。そしてそのときはうなずいたが、二度、三度と同じようなやりとりが繰り返されるにつれて、少女には、母に抱きすくめられることが、とてつもなくおそろしいことのように思われはじめる。少女は同じように、父にも抱きすくめられている。もう四年生だから、いやか。言いながら、帰宅したばかりの父は、外の空気をまとって少女をつつむ。父の顔が頬に当たる。父の髭は夜にはもういくらか伸びている。ううん、パパ、いいよ。少女もかがみこむ父の背に手をすべらせる。今日はいっしょにお風呂入ろうか。いいよ、ご飯食べたら、呼んで。父に抱かれるとき、少女は、この人は臭くって動物のようだ、と思う。今、その音、一連の音は、最終段階に入っている。自転車のタイヤが回っている音、家の前で止まるときに立てるブレーキの音、スタンドに後脚をのせる音、家の門を開ける音、革靴の石畳を鳴らす音、玄関の前に立ち、インターホンを鳴らす、その機械音が、落ち着いていた家の中を勢いよく飛びまわるとき、少女はもういくつかの選択を終えている。一度しめたドアを開ける、二階にいるか、一階にいるか、二階の残りの二室ならば鍵をしめられるし、実際にそこに隠れたこともあったが、少女は一階に降りる。トイレは狭い。リビング、時間のなかったときはダイニングテーブルの下におさまったことがある。テーブルクロスにかくれて見えないかと思われたが、意に反してすぐに見つかった。母が玄関に出る。お世話になっております、お忙しいところ、申し訳ありません、先ほどお電話させていただいたんですが。とんでもないです、いつもありがとうございます。どうですか、碧さんの様子は。はあ、いつも通りです。あの、いつも通り、というのは。行きたくない、と言っています。そうですか、宿題などはどうですか、花野さんが届けてくれていると思うんですが。いただいたプリント等はやっていますが、それだけですね、それだけしかやらないので、不安です。弟さんにお渡しした方がいいですか、友だちの方が、励ましになると思ったんですが。花野さんには申し訳ないですね。教育センターの方は、どうでしたか。どうって言っても。お話はできましたか。まあ……。碧さんは、今、お部屋に? すいません、いつものように、逃げてしまいました、家の中にはいると思うんですけど。そうですか。入られますか。すみません、それじゃあ、少しだけ。碧、田中先生が来てくださったのよ、きちんとご挨拶しなさい。長谷川さん、こんにちは。一足ごとに声が近づいてくる中、笑いだしたい気分になる。こんにちは、という挨拶を学校で四六時中同じクラスにいる子どもに先生が使うことはない。少女にはそれがえらく軽くひびくように思われる。コックをひねると、水がいきおいよく流れ出す。少女は半分ほど浴室の扉をあけて、シャワーの音を家中に放出する。昼間でも日のあたらない廊下を通って、それが二人の人間にぶつかりつづける時間を肌に感じながら、少女は濡れそぼった靴下を脱いで、浴槽のへりに腰をおろす。風呂に入っている女の子のすがたを、教師が見るわけにはいかないだろう、そう思いながらも、二人がそばまで近づいてくるのがわかると、少女は脚をもちあげ、足指と踵をつけて、ゆっくりと、扉をふさぐようにしめる。冷たい肌触りを足の裏に感じながら。
親類にビールを注いで回り、頭を下げて会話をかわしていく母の様子を見続ける伯父は、同じくその視界から、少女の存在をはずさない。「碧ちゃん」座布団の上にかしこまっている少女はどこを見つめているのか、伯父にはよくわからない。「大きくなったね」「伯父さん、あけましておめでとうございます」「あけましておめでとう。今年は何年生になるの」「五年生です」「早いね。お母さんがうちで働き出して、もうずいぶんになるもんね」仏間にならべられた盆の上に載った仕出しのおせち料理を、数十本の手が箸を伸ばして口のなかに運んでいく。いつも母がお世話になっています、と言って、少女が畳に両手を揃え、頭をさげるのを見て、伯父は、こりゃすごい、と思う。伯父さん、お弁当は食べましたか。うん食べたよ。伯父は少女の長くそり返ったまつ毛がすでに女の色香をただよわせていることに気づく。その控えめながら通った鼻、頂上でややはっきりと折れる顎のライン、長く艶やかな髪がうしろでまとめられているためにあらわになっている耳下の毛のほつれに、母のもっているものと同じ性質の吸引力が感じられるのである。喧騒のなか、伯父が見とがめるまで、同じ部屋にいながらまったく別の部屋にいるような、周囲をはねつけた様子で、背筋を伸ばして座っている少女のすがたを、何年も前から伯父は見たことがあったが、今年はさらに冷たい美しさが増したように思われた。伯父さん、どうぞ、といって少女が伯父に渡した紙コップにはあたたかいお茶が注がれている。「ありがとう、気がきくね」お年玉をあげようか。「そんなつもりじゃ」まだ四年生で、そんなつもりじゃ、なんていえるもんだろうかと伯父は考えながら、胸ポケットにしまっていたスヌーピーの袋をわたす。少女は引こうとしたが、伯父は手にしっかりにぎらせる。「ここで見ちゃだめだよ」もう千円足しておくべきだったかもしれない、と考えたところで、ふと少女を値踏みすることに後ろめたさのようなものを伯父は感じ、少女の顔色をうかがったが、少女はもうお年玉の袋をしまいこんで、また元のように背筋を伸ばして座っているのである。「ありがとう」母が少女の肩に手をのせている。「なにが」「今年もお年玉、碧にくれたんでしょ」新しいビールの瓶とコップをもってきて、母は伯父に差し出す。「当たり前だろ。それにしても大きくなったね」伯父はビールを干す。喉元で出されるのを待っていた、どんどんお母さんに似てきたね、という言葉を寸前で飲み込み、「さっきお茶をいれてもらった。お茶がほしいって思ってるタイミングにね」伯父は少女の視線にふれる。見つめ返したとき、少女はさっと目をはなしてうつむいた。伯父のコップにもう一度母のビールが注がれた。「碧ちゃんを見てると、これは昔っからだけど、人の思うことがわかるのかな、って思うことがある。それで、すぐに気を遣ってくれる。碧ちゃんはすっごくいい子だよ」「猫かぶってるだけよ。こういうみんなが集まる場では、いっつもちょこんと座って、いい顔するのよ、この子は」「そういう言い方はないだろ」旺介君はどこに?「向こうの部屋でゲームしてる。あっちはあっちで、ちっとも挨拶しようとしないんだから」「じゃあ旺介君にゲーム教えてもらおうかね。碧ちゃんもいっしょにやろう」「じゃあ彰伯父さんといっしょに遊んでおいで、碧」「わたしはここでいいよ」少女は母がやったように、親類にビールを注いでいく。碧ちゃん、おっきくなったねぇ! ありがとう、ありがとう碧ちゃん。赤ら顔の親類が少女から酒を受け取るのをともに見ながら、伯父はあの人らと自分も大して変わらない、自分は結局ひとりの親戚でしかない、と思う。「あの子はもう半年も学校に行ってないのよ」「なにも学校がすべてってわけじゃないよ」玄関にいる何人かの親類から離れて煙草を吸い、青空を見つめながら、伯父は自分が小さいころから見てきた少女に対して、また母に対しても、傍観者面を晒していることについて考える。
洗濯物をたたんでいる母の横で、ソファにもたれて弟は九九カードをめくっている。弟は七の段が覚えられない。風呂の壁に貼ってある九九表を見ながら、両親に聞いてもらいつつ毎日唱える。「ひちひちいじゅうに」弟の言葉を母は聞いていて、まちがえるたびに笑う。「きちんと言ってみな。しちしちしじゅうく」「あっ、そっか」カードをめくりながら一度通して言うことができると、チェックカードに○をもらう。はじめて九九カードを学校から持ち帰ったとき、母は「お姉ちゃんのときと、まったくいっしょだよ」と言い、父は「学校教育は進歩がないね」と言った。「お姉ちゃんは、九九どうだったの。すぐおぼえられた?」母は弟のパンツをたたみ、「あっという間だったよ。毎日、言うだけ言ったら自分で丸つけさせてたのよ」「お姉ちゃんすげー」「旺ちゃんはどう?」「無理。頭おかしくなる」「おかしくはならないでしょ」ボールになったパンツがととのった服の山にのせられるのを弟が見ていると、階段を下りる音がし、少女がリビングに入ってくる。「上でなにしてたの、碧」「寝てた」「勉強は」「だって最近、学校のプリント来ないじゃん」弟の目にはいつでもパジャマ姿の少女がうつる。弟には時間がおかしくなったように感じられる。少女は新しい学年になって担任が変わったときに数日だけ弟と同じ登校班で学校に通ったが、それ以降行けなくなった。先生きらい、と言った。四年生のときも、行けない日には、先生がきらい、みんなもきらい、と言った。環ちゃんは。環ちゃんももう来ない、見捨てられたんだ。四月には父が出勤を遅らせる日がたびたびあった。母はその朝班の集合場所まで弟を追い立てて行き、すぐに家に戻っていった。弟はそのとき、周りの子どもや大人の意識が、一心に自分の家に集中しているのを感じた。子どもたちは吸いつけられるように見ている。大人たちは見まいとしているし、ふだんの朝のように言葉も交わしているけれど、小声になり、その口元、頬もぎこちなくゆがめられて、弟の目には、とても自然には思われなかった。集合場所からもはっきり見える、父の肩の上に抱えられて門を出てきた少女はまだパジャマすがたである。少女は父の背から顔を突き出して、涙をながし、聞きとれない声でさけんでいる。パジャマの脚がいきおいよく何度もふられる。裸足が父の胸からのぞくのが見える。自動車にはすでにエンジンがかけられている。父は荷物をおろすように少女を後部座席におしこみ、ドアをしめようとするが、少女の脚がドアをうったらしい、それが顔にぶつかって父がよろける。父が腕をふり、少女をうつ。車のなかに頭をつっこみ、しばらくしてもどすと、母に顔を向ける。ランドセルをもった母が車に入る。通りにひびきわたっていたさけび声はもう聞こえない。アイドリングの音が弟の耳に、あつい鼓動のように鳴っている。父の運転する自動車が出発する。集まった大人たちは騒ぎが通りから消えると、ふだんどおりに見えるような笑顔で、「行ってらっしゃい、気をつけてね」と、登校班を見送った。その日の五時間目に少女のクラスの使いの子からプリント一式を受け取ったとき、少女が結局学校に行けなかったことを弟は知った。新しい担任はいつも弟に学校のプリントをもたせるが、毎日ではなく、一週間に一度程度、まとめてもたせる。このごろではその間隔も長くなった。少女はときどき、見捨てられた、と言う。「お姉ちゃん、どうして着替えないの。ママ」弟は階段をおりてきた少女にではなく、母に尋ねる。母はだまって洗濯物をたたむ手をとめない。少女がテレビをつけると夕方のアニメがやっている。テレビの最前に少女はかたまりついたように居座り、弟も少女の肩ごしにアニメに引っ張られていたが、たえず少女の動かない長い髪、こころもちもちあがった肩が気になるのだ。テレビの画面が消え、リモコンがソファに投げ出されるとき、ふりかえった少女の顔、前へ前へのばされるパジャマの脚、ドアを開ける手、皺の寄った背中、トイレの流れる音、階段をのぼっていく駆け足を弟は追う。「なんでお姉ちゃんは、学校行かなくていいの」「いいわけないじゃない」「勉強できるから?」「勉強できたって、おかしいよ」「お姉ちゃんは、頭おかしいの」丸められた弟のパンツが、弟の顔に投げつけられる。そんなこと言っちゃだめだよ、旺ちゃん。「ほら、九九のつづきを言いなさい」
ネクタイをとって父が脱衣所に入ると、シャワーの音が浴室から響いてくる。カゴに丸められているのは少女の水色のパジャマである。父は帰宅直後ふだんからそうするように顔を洗おうと蛇口をひねろうとして、ふと隣のカゴに手を伸ばし、パジャマにふれる。水の迸り、浴室と父のいる空間を隔てるすりガラスに浮かび上がる少女のうすい黒と肌色のシルエットのうねりにぶつかる水の跳ね音を耳に入れながら、父はパジャマをめくりあげるのだが、そこにはない。以前はそこにかくれていたのである。しかし父は洗濯機の陰になっているゴミ箱からほどなく丸められたトイレットペーパーを発見した。そんなところに母がゴミ箱を用意していたことに、父は今さら気づく。トイレットペーパーを開いてみると、たしかにそこには絆創膏がある。血はついていないが、くたびれねじれた絆創膏がトイレットペーパーにはりついてきしむように広がる様子は、ある時間肌に巻かれていたことを父に想像させるのである。「パパってどんなお仕事してるの」五歳の子どもが分かる形で説明することは難しく思われて、父は言った。「世の中がよくなる仕事だよ」「世の中って?」さあね、なんだろうね、父は少女の素直な質問に笑う。シャワーキャップの上の少女の髪を指で何度もかきまぜながら、「みんなが笑ってほしいんだ」と言う。「笑うといい気分になるだろ」少女のからだを後ろからだきしめ、そのまま腹をくすぐると、少女はキャップの下でわめいて石鹸をひっくりかえした。その石鹸を後ろにすわっていた弟がおさえ、両手でつかもうとすると、石鹸がするっと逃げる。浴室が笑いにつつまれる。三か月ののちに少女の指は縮んだ。父の記憶の群れのなかで少し成長した少女は、弟と脚をからませている。「せまいから旺介、横向いて」「姉ちゃんが向いてよ」「お姉ちゃんの方が旺介より大きいんだよ」二人が腕を組んで取っ組み合っているので湯が波打って、身体を洗っている父にしぶきが飛ぶ。父がそのままにしていると、そのうちに弟が泣きだしている。涙が湯にたれている。父が見ると少女は浴槽のなかで脚を折り曲げて浴槽の狭い辺に押しつまるように座り、じっとしているのである。言い争っていたはずの浴槽は面積が余っている。父は少女の目線を確認する。そういうときになるときまって少女は自分の指を一本一本、なぞりながら見ているのである。右手の指をたしかめていく左手の指が、中指の先の絆創膏にぶつかると、少女は止まり、引き返すように次の指へ向かうのだが、そのしぐさはもう何度となく繰り返されたもので、父もよく目にしていた。少女は八歳のときに自分の中指に絆創膏を巻きはじめ、以降指を人に見せることはなかった。父は泡のついた身体を流すのもわすれて少女のしぐさを見るときに、ひょっとしてこれはただ見ているのではなく見せられているのかもしれない、と思うのである。父はあの五歳の少女の泣き顔を脱衣所で、また、病院で見ただろうか、と思考する。父は泣き、母も泣き、お互いを罵り合う声に合わせて弟も泣いたが、その様子を、手指に包帯を巻いた少女はただ黙然と聞いていたのではなかったか。いや五歳の少女が泣かずにいられるわけがない。シャワーがとまり、少女がすりガラスの向こうで浴槽に蓋をするとき、父はティッシュをゴミ箱に戻して脱衣所を立ち去る。十一歳になった娘と風呂に入らなくなった今、父の記憶によみがえってくるのは、少女と弟がふざけて頭にのせていたタオルを水面に浮かべ、上からひっつかむようにおさえて膨らませ、「タコ!」という瞬間である。タコを沈めると、細かい水泡がいくつもあらわれてぷつぷつと水面にはじける。そうして次第にしぼんでいくのを、父は笑って見ている。その同じ目、同じ頭が、指を見る同じ年の少女を凝然と見つめ、少女の思惑を考える、そのことを父は繰り返し思いながら、暗い廊下を、まだ靴下をはいた足をひきずっていくのである。
『お母さんがピザのきじを作って、わたしとお父さんがトッピングしました。コーンとベーコンとツナをのせました。おいしそうにできました。』テーブルの上に弟がすわっている。「旺ちゃん、どこすわってるの」ほらほら。母が背中をたたくと弟は絨毯の上に転げ落ちて動かない。白眼をむいて舌を出している。少女がコップをテーブルにならべながら言う。ねえママ、旺介、また死んだふりしてるよ。ふうん。母の指示で少女が弟の脚にまたがり、しがみついてくすぐると、弟は生き返って暴れ出す。『つぎにケーキ作りのてつだいをしました。ケーキにはイチゴをたっぷりのせました。イチゴが多すぎて、テーブルに持っていくときにはみ出してゆかにおちてしまいました。お父さんが、「三びょうルール。」と言って、イチゴを食べました。』弟はヒーターのコードにつまずいて転び、窓に頭をぶつけて泣いている。「まったく落ち着かないんだから、うちのバカ息子は。誰に似たんだか」インターホンの音に子どもたちは駆けだしていく。手を引っ張られた母方の祖父は長身を折り曲げて破顔する。弟は「おじいちゃんこっち」とソファに座らせながらも、後ろで祖母のもつ百貨店の袋を気にしている。弟に中身を尋ねられても祖母は頭を撫でるばかりで袋をもったまますぐにキッチンへ向かっていく。ヒーターの設定温度を上げる母の袖を少女がつかむ。母の承諾を得るとさっそく冷蔵庫から作り置きの茶をもってきて、コップに注ぎ、祖父に渡す。祖父はいっそう顔をくずした。『夕方におじいちゃんとおばあちゃんが来ました。用意がそろって、いよいよみんなでパーティのはじまりです。ロウソクをケーキに六本さしました。弟は一回でけせなくて、何ども何どもふいたけど、やっぱりけせませんでした。お父さんがよこからふくとすぐにきえました。』カーテンをしめ、祖母が電気を消すと、火がうかびあがる。ハッピバースデー、ディアオォスケー。弟は一度で吹き消すことができなかったが、三度目ですべて消した。静かな拍手のあとにあらわれる暗闇のなか、生々しくただよう煙が参加者ひとりひとりの鼻腔に吸いこまれていく。電気がつくと母は包丁をもっている。蝋燭がとられ、ケーキが切り分けられていくのを少女は皿をわたしながら見ている。母は六つに切り分け、弟のケーキの上に、メッセージの書かれたチョコレートの札を差す。大皿からあふれんばかりになっているイチゴを、つぎつぎに弟のケーキやそのまわりに積んでいく。『弟はプレゼントで、かめんライダーのベルトとプラモデルをもらいました。弟はとてもよろこんでいました。おばあちゃんは、わたしにも、シールちょうをくれました。とってもうれしかったです。』「つながらなかった」「どうしてそんなにいそがしいんだ。かしてみろ、おれが電話する」祖父は酒に焼けた顔で母の携帯電話を取り、ボタンを押して耳にあてるが、舌打ちをして返した。「ずっと前から計画してただろ」「今日は土曜日なのにね」走り回る弟のベルトから音が鳴り、赤いランプが明滅した。『とっても楽しいパーティになりました。つぎはお母さんのたん生日です。いっぱいおいわいしてあげたいです。』『わあ、家ぞくみんなで弟さんのおたん生日会をしたんですね! とっても楽しそうです。長谷川さんはいっぱいおてつだいをして、えらいですね。それにしてもお父さんの三びょうルール、おもしろいなあ。読みながら、わらってしまいましたよ。先生も長谷川さんのおうちのパーティにさんかしたくなりました。』
「行ってきます」のあと、しめられた扉の向こうで、「旺介、どうして挨拶しないの」という声が玄関で見送る母にとどく。一年生になったばかりの最初の一カ月、弟は靴をはくときによく泣いた。玄関に腰をおろし、目の前にきちんと揃えられたまだ新しい靴を前に、涙を浮かべてだまっている。母がわきから手を伸ばし、靴をとって、マジックテープをめくる。つま先に近づけられた靴を、弟が足をばたつかせて拒否する、その様子を、少女は靴箱にもたれて見下ろしていることがほとんどで、母と弟の格闘の合間に、「旺介、みんな待ってるよ」「お姉ちゃん先に行くよ」と何度も声をかけるのだが、弟が立ち上がるまでは、じっと待っている。家族がいなくなってから、母は時間を掛けて掃除機をかける。店がはじまるまではまだ時間がある。毎日どうしてこんなに汚れるのだろうと母は思う。少女のやわらかい髪の毛やシール片、延長コードの裏から出てきた綿ぼこりを吸いとりながら、掃除機に吸いとられていくように意識がぼんやりとしていくのを感じる。スイッチを切り、まだノズルにかき乱された余韻ののこる部屋の空気、つよくなっていく陽差しをあじわいながら、母はソファに耳をぴったりつけてうなだれるように眠りにつく。しかし眠りは結局のところ、母をさらってはいかない。起き上がった母は首のねじれた掃除機を打ち遣ったまま、少女の部屋に入る。箪笥を上から開けていき、そこにつめられている少女の洋服、パジャマ、下着などをかきわける。ゴミ箱に手をさしいれて、丸められたティッシュやコミックの包装などを床に晒していく。母は父が日曜大工で作った木製の本棚から、少女マンガのコミックや雑誌を出してきて、めくる。棚の前にすわりこむ母の頬に陽射しがあたっている。母は少女の部屋に入るたび、本棚から、更新されつづける少女の輪郭と、過去の自分を見つけようとする。自分の子どものころのマンガの絵柄や、セリフの割りつけを思い出し、それから少女のすがたを頭にえがく。少女がソファにもたれてマンガを読むときに浮かべる、顎を引いた、こらえるような笑いや、雑誌の部分によってページをめくる速度を変える手の動きなどを思い出し、自分もああだっただろうか、と考える。母は何も言わないが、少女の部屋はいつも掃除機をかける必要が感じられないほどきれいにされている。勉強机もいつも整頓されており、引き出しを開けても、あっという間に終わらせてしまった問題集や、塾に行かせる必要を感じない点数をつけられた学校のテスト、先生から花丸をもらったプリント、少女がたまに絵を描くときに使うスケッチブックが整然とならべられておさまっているだけである。ところが鍵のかかっている引き出しがひとつあった。そこに鍵がかかっているのを母が見つけたのは半年前、少女が三年生の頃のことだ。以来母は少女の部屋に入り、少女の箪笥や、本棚、引き出しなどをひとつひとつ仔細に点検しながら、いつもその引き出しを開ける鍵をさがすのだが見つからない。あの引き出し、なかに何があるの? 少女に聞いたことはない。母は少女が公然と自分に秘密を見せつけているのを感じる。開かない引き出しをたしかめるたびに、ざわつきをおぼえる。母にとって少女の部屋をあらためることは日課のようになっていたが、少女が登校を渋り、部屋に閉じこもるようになってからは、そうもいかなくなった。少女は掃除機をかけることもゆるさなかった。父と出かけたり、外で遊んでいたりするような短い間に、こっそりと入ったことがある。少女の部屋は荒れ放題になっていた。ランドセルがいつもぎっしりつまった中身を見せた状態で、勉強机の上に置かれている。引き出しから友だちのもってきたプリントがはみだしている。きれいにならべられていた本も、カバーが外れたり、縦に乱雑に積み上げられたりしている。床にくしゃくしゃに丸められ、捨てられた紙から、少女の描いた絵がのぞいている。はじめて見たときに母は、涙がこぼれそうになるのをこらえるために、首をふったり、手で口元をおさえたりして努力しなければならなかった。この子は、わたしが今、部屋に入っているのを知っている。知っていてわざと部屋を散らかしている。わたしに見せつけているんだ。そう思うのをとめられなかった。母は部屋のものを動かさないよう、落ちているものを踏まないように近づき、ずっと鍵のかかっていた引き出しに近づく。そうしてたしかに留め具が机の引き出しにひっかかり、開かないのをたしかめる。その引き出しが厳然と少女の秘密として存在しつづけるのに対して、母にはもはや、その丸められた紙から半分だけのぞいている絵すら、少女がわざと見せているのだと思われてならない。この部屋すべてがお前の罪のあかしだと、ワンピースすがたの女の子の半身、その屈託のない笑み、半月型の口元が、雄弁に語っているように思われてならない。「行ってきます」元気よく声を出して二年生の弟が玄関から駆けだしていく。そのとき少女の靴は、そろえられたままで玄関に残っている。
隣家の塀の上に白い猫がいるのに気がついた少女は、ゆっくりと身体を起こす。隣の木の茂った枝葉になかば隠れて、猫の胴体にはかげが落ちていたが、たしかにそれはよく洗濯されたような白い色である。窓越しに少女と猫は目をあわせている。少女には猫の鼓動も、息づかいも感じられない。猫はそこに居座り、まるで動こうとしない。両耳につけていたイヤホンをはずす。外の音はもとより聞こえない。足を投げ出して、シートにもう一度深くもたれる。この猫にはわたしのすがたが見える、わたしは見られていると、少女は考える。昼さがりの、母が働きに出て、弟もまだ学校でいないような時間に、ひとりきりになった少女は、屋根のついた車庫の下で自動車の後部座席にもぐりこみ、しずかな時間をすごすことがあった。自動車のなかでは、少女が部屋のなかで過ごすときにふと聞こえてくる、エンジン音、自転車のきしむ音、話し声などが聞こえないことに、少女はあるとき気がついた。近所の三人の母親がなにか話しながら近くを歩いているのを見つけたとき、少女は緊張して前の座席にぴったりからだをつけたが、意に介する様子などまったく見られなかった。少女は少しずつ隠れるのをやめるようになり、さらには人のいるような時間帯を選ぶようにしてもみたが、少女が動かない自動車のなかに座っていることに気づいて、訝しげな視線を向けてくる他人は誰もいなかったのである。自動車の窓から陽がかすかにさしこむ時間、少女はシートのにおいをかぎながら眠りに入る。自動車の中で、少女はやっと眠れる気がする。その眠りからさめたとき、自動車はすっかり陰にかくれ、少女はまだしずけさのなかにいる。猫の目をさえぎるように、少女は自分の右手をつきだす。てのひらと、そこからのびる五本の指。腕をおろすと、まだ塀の上から猫の視線が少女に向けられている。自分に興味があるんだろうか。いや、大して興味なんてないだろう。少女の途切れていた思考が戻ってきて、いくつもの雨粒が連なっていくようにつながっていく。猫がそこで寝そべっているのは、木のかげになっていて風当たりもいいからだ、そうして誰かを見下ろすのに都合のいい場所だからだ。別に見ても見なくてもかまわない、自分の存在は猫にとって、まあ暇だし見てやってもいいかな、程度の価値しかない。今ここでいきおいよくドアを開けて白猫を追い払い、ひとりの時間を主張することもできるけれど、少女はそうしない。かわりに少女は、自分の右手の中指に巻かれた絆創膏に、左手の親指と人差し指で、ゆっくり触れる。絆創膏を何度も撫ぜ、なめらかさを味わう。やわらかい部分をつまみ、かすかな弾力を感じる。明日はきっと自分は学校に行けるだろうと少女は考える。ランドセルのなかには新しい教科書がつめこまれている。一冊ずつ、長谷川碧、と油性ペンで名前を書いた。筆入れのなかの鉛筆も一本ずつ削られており、キャップが外れないようしっかりはめられている。少女の勉強机のわきには、少女の体操服がふくろのなかにたたんで入れられている。「6年2組 長谷川」と母の手で書かれた新しい体操服である。少女の家の前の道路を、よく知っている同級生が自転車で通っていったこともあった。小林君はあんなに大きかっただろうか。真山君は変わらず小さい。まだホビットとよばれて笑われてるんだろうか? 少女は絆創膏に手をかける。親指と人差し指で、しっかり巻かれた絆創膏を剥がしていく。血も何もついていない筒状の絆創膏、少女がもう数えきれないほどに取りかえてきたものである。もう一度、塀から自分を見下ろす動物につきつけるつもりで、少女は腕を出す。いつも爪をかんでいて、指の皮を剥くので、赤くささくれている弟の手指とはちがう、少女の手指である。父の太くみじかい指ともちがう。母のようにいつもクリームを塗っていなければ潤いを保てない皮膚でもない。少女は、ほんの幼い頃からそうしてきたように、自分の手指をたしかめる。しろい手にうきでるほそく青い筋。手の骨。第一関節、第二関節に寄るかすかな皺。手のひらの、決して醜く太くないけれど、長く、途切れない生命線。赤みを帯びる輪郭。少女は毎日、爪を切り、ヤスリで削るのを欠かさない。四本の爪の下部にしろい月が顔をのぞかせている。少女が何年も飽きずに眺めてきた手であり指である。そして少女の視線が最後に中指に向かっていくのも、こうしているときの決まりだった。少女は左手で、中指を根元からなぞっていく。第二関節のゆるやかな丘陵をこえ、第一関節にきざまれたかすかな皺の感触を左手の指がたしかめる。その先に、少女の潰れた爪がある。爪は無理やり指のなかに押しこまれたようにゆがみ、黒く変色している。何本も裂傷のような跡が縦に走っている。少女が他の指をそらすときに、爪のなかにできるような、きいろいほのかな変色は、中指に限ってはほとんど認めることができない。丸みを帯びているはずの指の頂上も、かたくなり、少女が何度さわっても、他の指とはちがう、その指だけの、異質な感触である。少女は右手の指をそろえて伸ばす。本来いちばん長いはずの中指は、薬指と同じ長さである。少女は猫に見せる。せいいっぱい腕を伸ばして見せる。いつの日か誰にも見せなくなった自分の指を、少女は、いつもしずけさのなかにかかえて黙っている。顔をさわると、ニキビができている。十二歳の少女の意識は指から離れる。獣は間もなく塀の上からすがたを消した。弟は帰ってこない。母はその日、六年間通い続けた喫茶店の仕事をやめた。
(了)