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​光   西安

「コーヒーを一つ」

彼女はいたって流暢なことばづかいで何杯目かのコーヒーを頼んだ。

 彼はやや萎縮して彼女の表情を覗う。いつものように彼女は平然と、いたって何も考えていないというような横顔で、店員と対峙している。

「それで、あなたは一体どうしたいの」

彼女は言った。始まった、と彼は思う。

彼女の前にはカップが置いてある。輝かしいほど白みがかったカップだ。彼女のやわらかげな唇から零れた薄焦げた茶色の液体はカップの丸縁が持つ煌めきを僅かに汚しつつ、店内の照明を乱反射させている。カップの艶やかな丸い縁は潤いに満ち満ちた唇に絆されるかのように色を変えて焼跡のような模様を残したが、鮮やかな乳白色とそのスパンコールのような輝きは常に煌めきを保っている。

「もう一度聞くわ」

 彼女はやや苛々した様子で言った。彼女の頼んだコーヒー・カップが窓から差し込む夕日を受けて艶やかな白みがかった光を放って輝いている。彼女はなお、彼の瞳をきわめて真っ直ぐに射止め、彼もまた、彼女の瞳から目を逸らすものかと意固地になっている。彼女の瞳はまるで、カップを見えない透明の面で覆う丸みを帯びた縁を思わせる。彼女の唇がカップの口に近づけられる。彼女はカップと熱い接吻を交わす。傾きつつある黄昏時の橙を燦燦と受けるカップは白鷺のような肌を火照らせ、頬を染めている。

「あなたは一体どうしたいの」

 彼女は彼を問い質した。カップは皿の上に戻り、白みがかった煌めきを取り戻している。カップの縁が描き出すゆるやかな曲線は彼に彼女の肩から二の腕にかけての肉感を想起させ、カップが持ち併せている滑らかな曲線美は既に彼の中でそっくり彼女と同じ意味合いを抱くようになっている。

わたしたちは一体何の話をしているのだろうかと彼はふいに疑問を抱く。疑問を抱く彼の意識はきわめて鮮明で、彼女の表情の変化一つ一つを、カップの取っ手に施された装飾一つ一つを見きわめるのと同様にはっきり捉えることができる。

彼女はカップに残ったコーヒーを一滴残らず飲み干し、店員を呼んだ。

「コーヒーを一つ」

彼女は何杯目かのコーヒーを頼んだ。彼女の前には使用後のカップが置いてある。光彩を抱いた乳白色のコーヒー・カップだ。店内の照明がカップの凹部から側面にかけてほのかな陰影を創り出し、わずかな濁りを秘めたパール・ホワイトのかげりが彼女を包み込んでいる。丸いカップの艶やかな縁は彼女のやわらかげな唇が零した濾過液でコーヒーの濁りを帯びながらも、白みがかった輝きを放っている。乳白色の照り返しは失われ、細やかにくねる縁の丸みは潤いに満ち溢れた唇に宥められるように変色して薄焦げた茶色の模様を残したが、燦燦とした輝きは損なわれていない。

「もう一度聞くわ」

彼女はきわめて流暢なことばづかいで彼を問い質した。始まった、と彼は思う。彼は彼女の、カップの丸まった縁に似た楕円形の瞳に釘付けとなっている。彼女もまた、彼の眼差しの奥に潜む構造体をじっと見つめているようすである。彼女はその視線を外すことなく、透き通るほど白い手のひらをカップの装飾が附いた取っ手へと持っていく。その装飾は窓から差し込む夕日に絆されるかのように光を反射し、スパンコールの煌めきをちらつかせている。店内の照明を受けてパール・ホワイトの光をあたりに燦燦と振りまくその明るみは彼にありし日の彼女が彼に見せつけた無邪気な白鷺のような肌を惹起させる。

 カップが彼女の口に近づく。彼女の唇もまたカップの口へ近づき、カップはそれを受け入れる。接吻はやわらかげな彼女の唇に薄焦げた焼跡のような模様を残し、潤いに満ちた滑らかなカップの縁は彼女の艶やかな唇によって汚されている。

「あなたは一体どうしたいの」

 カップは皿の上に戻り、彼女の手は元の位置へと戻される。彼女の問いを受け、彼はやや上目遣いに彼女の表情を覗う。彼女はいたって平然と、いつものようにとりわけ何も考えていないというようなようすである。

 ふいに彼は、わたしたちは一体何の話をしているのだろうかと疑問を抱く。彼をこのような状況に追い込んでいるものは一体何か? 答えは明白だった。

「コーヒーを一つ」

 彼女は手早く店員を呼び、本日何度目かの注文を済ませた。

彼女は使い終えたばかりのカップを弄んでいる。白みがかった輝きのあるカップだ。カップは楕円形の口から底部にかけてゆるやかな湾曲を描いており、その構造体を支える陶器は乳白色の光彩を放っている。目覚めるような煌めきは斜陽の照り返しであり、丸みを帯びたカップの縁に残された唯一の汚れは彼女の唇が漏らしたコーヒーの濾過液によるものだ。

「それで」

彼女は言った。

「あなたは一体どうしたいの」

 始まった、と彼は思う。彼女の前にはカップが置いてある。輝かしいほど白みがかったカップだ。やわらかげな輪郭をしたカップの口の周りは丸みを帯びた縁で包み込まれている。

彼女は思い立ったようにカップを持ち上げ、カップの口元を彼女の潤いに満ちた唇へと近づける。テーブルの上に残されていた皿には細い溝とくぼみがあって、カップと皿の関係はかつて彼が触れることを許された彼女のたおやかな腹部とへその関係にもよく似ている。カップは彼女の唇へと吸い寄せられるように惹きつけられ、彼女もまた、カップへ惹き寄せられるような動きでカップを引きつける。吸いつくような妖艶さで接吻を済ませた彼女の頬は黄昏の空にも似たほのかな橙に染まり、唇の端からは茶褐色の液体が一筋、煌めきを放ちながら垂れ下がっている。

「もう一度聞くわ」

 彼女と彼の視線は彼と彼女の間の宙空で見事に交錯している。彼の視線が彼女の視線とクロスしているのか、彼女の視線が彼の視線とクロスしているのか、もはや定かではない。彼は彼女の瞳を逃すまいと意固地になっていたし、彼女もまた彼の視線を絡め取ったまま動こうとしない。

「コーヒーを一つ」

 彼女が再度コーヒーを頼んだ。始まった、と彼は思う。

 コーヒー・カップが彼女の前に置かれている。きらびやかで透き通るほど白いカップだ。光を浴びてきわめて清潔な風を装っているが、その滑らかに曲がった縁の部分には彼女の唇が触れていった証拠として薄汚れた茶色の模様が刻まれている。乳白色の光沢は窓際の日を受けてやや橙に近い色へと変わり、彼女の頬は、ほのかな黄昏色の煌めきを帯びている。

「もう一度聞くわ」

ゆるやかな光が彼の瞳の端に捉えられる。彼女の白みがかった肌を思わせるカップの装飾が反射した店内照明の残滓のようだ。カップの凹部の端から伸びた半円のリングは彼女のか細い脚の筋肉と同じようなうねりを抱き、細やかな色彩を披露する取っ手の彫刻へと突き進んでいる。更にその下部において辛うじてカップの側面と甚大な美学の間に埋もれる形で潜む陶器の弦は必死に両者を繋ぎ止めようと努めているが、彼の目にそれはもはや虚しいものにしか映らない。

「コーヒーを一つ」

 彼女はきわめて流暢なことばづかいで、本日何度目かの注文を済ませた。

 始まった、と彼は思う。彼女の頼んだコーヒー・カップは窓際で輝いている。彼女の視線は艶やかな光をはらみながら、彼の瞳を捉えている。彼も負けるものかと彼女の瞳を努めて捉えようとしたが、彼女の白みがかった肌が反射するスパンコールのプリズムに惑わされて、捉え難い。

 彼女はパール・ホワイトの手のひらを実に滑らかな所作でカップの装飾部へ運び、その構造体を持ち上げる。後に残された皿へと刻まれた溝とくぼみは、恰も元々そうあることが完全であることを自覚しているかのように、平然と、いたってなにも考えていないという風に佇んでいる。

カップの口と彼女の唇、あるいは、カップの唇と彼女の口、唇と唇、あるいは口と口は漸々と接近し、ある一点で一つに融け合う。彼女の唇は無表情な陶器の唇にあたる部分をかるく覆い、カップから漏れ出した茶色の濾過液を、その熱を確かめるために舌先でそっと絡め取る。甘美なフレンチ・キスを終えた彼女の白みがかった頬はカップに照り返した夕陽に絆されるかのように暖色に色を変えているようである。彼女は元の姿勢に戻り、カップは皿の上に戻され、彼女は乳白色の輝きを取り戻す。

「あなたは一体どうしたいの」

 始まった、と彼は思う。

 カップの前には彼女が座っている。輝かしいほど白みがかった肌を持つ彼女は、やわらかげなその唇から溢れた薄焦げた茶色の液体によってその唇が持つ煌めきを僅かに汚されながらも、店内の照明を乱反射している。

「コーヒーを一つ」

 彼女はオーダを終えた。

彼女の艶やかな唇には潤いに満ち満ちた絆されるかのように色を変えて焼跡のような模様が残ったが、鮮やかな乳白色とそのスパンコールのような輝きは常に煌めきを保っている。彼はふと、彼女とわたしは果たして何の話をしているのだろう、と疑問に思う。だが、そんなことはもはやどうでもよいことだ。彼は実のところそうした疑問を抱いていないのだったし、彼女もまた、彼が疑問を抱くことを受け容れているのだから。

カップの前には彼女が座っている。

 彼女の前にはカップが置いてある。

 始まった、と彼は思う。

 

 ……。

 

 ガチャン、という音が店内に響き渡った。

店員のあなたがコーヒー・カップを床に落としたのだ。あなたは謝罪の言葉を述べながら、さきほど注文を受けたばかりのテーブルを振り返る。あなたは自分の目を疑う。あなたは割れたカップの破片を拾うことも忘れてテーブルへ駆けつける。あなたは更に慌てた様子で周囲を見回す。

そして、あなたは一つのコーヒー・カップを見つけ出す。

輝くほど白みがかったカップの縁は汚れている。あなたは一つ息をついて、カップを手に取る。あなたの顔が、カップの側面に映っている。あなたは一つの物語を見出す。

あなたはふと、新しいコーヒーのオーダが入っていることに気がつく。あなたは再び、新しいカップを運ばなければならない。あなたは皿の上にカップを置き、喧噪を取り戻した店内に戻っていく。

 

テーブルには光がある。(了)

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