黄桃缶詰
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活動再開!2019年4月発表をめどに小特集「曖昧なる境界線」が決定!(1/28)
はる「ロジウラ」、misty「時間喰いのモービーディック」の原稿を掲載しました!(11/25)
しばしの間休載。(9/12)
化猫日記(第二回) 光枝 初郎
【主な登場人物】
光枝初郎(主人公1) 長男
光枝洋介 父
光枝和恵 母
光枝里菜 妹
きー(主人公2) 黄色の猫。以下の猫も全て光枝家のペット。
レイ 白黒の猫。
ティアラ 灰色の猫。
千代子おばさん 光枝家のお手伝いさん
長浜寧々 光枝家のお手伝いさん
前回までのあらすじ
光枝家のペットは化け猫だ。いつもはその正体を隠してのほほんと暮らしている。光枝家の長男・初郎は問題児で、大学を卒業した後も実家暮らしで働きもせずにぐうたらしている。そんな広大な屋敷である光枝家のお手伝いをする、若い長浜寧々と初郎は事もあろうに一晩の情事を結んでしまう。時を同じくして化け物界隈では不穏な動きが生じ、きーをはじめとする猫たちも徐々に感づいていったのだった……。
事件
暑い、熱い、夏の日だった……。結婚した夫に早くに先立たれ、一人の男の子と一人の女の子以外には頼る親戚もいなかった千代子さんは、子供たちがいちおうの成人を迎えたあとも自分の生活だけは何とかしようとやりくりに必死だった。月曜日から水曜日までは光枝家の家政婦を、それから残りの日はパチンコ店で働いていた。休む日など無かったし、休もうとは思わなかった。千代子さんは空いた時間にミステリーの小説を読むのが好きだった。何も仕事が無くなった夜更けには西村京太郎とか、松本清張とかを読み、そうするとたまに娘から電話が掛ってくる。息子からはこちらから掛けないと出てこなかった。二人の子供が、生きていてくれたら、それでいいと思う。私は子供たちが無事に生きていけるように、邪魔にならないように、そして何かあったら頼れるようなお金を遺していくために、それだけの為に生きている。
その日、千代子さんは光枝家のやけに長くて埃だらけの廊下の拭き作業からはじめた。廊下を拭いている間も、暑くて、木造建築の一階だからそれなりに涼しくもあるのだが、リヴィングや他の部屋のふすまを開放して、そこからエアコンの冷房風を受けないと、やっていけられないような熱の溜まり方だった。
その日は、何故か、外の公園の蝉たちの音が静かだった。しかし、そんなことに千代子さんは気付いてもいなかった。ようやく廊下を全て拭きあげたかという所、ピンポーンというチャイムが鳴った。家の者はお兄さんも含めて皆外出しているので、この使用人たる私しか居ない。リヴィング部屋に備え付けてある遠隔モニターを見ると、それは光枝家の妹の里菜ちゃんだった。千代子さんはホッとして、インターホンに応対した。
“あ、おばさん? 仕事を早退してきたの”
まあ、あの真面目な里菜ちゃんが、仕事を早退だなんて、暑さのせいかしら、大丈夫かしらと思いながら、“すぐに玄関を開けますね!”と言って、千代子さんは玄関へ走った。
玄関を開けると、千代子さんの目の前に、実に大きい、鳥の頭をして、首から下は人間の胴体や手を持っている物体が現れた。それは優に二メートルを超えていた。千代子さんは絶句した。先ほどインターホンに出ていたりなちゃんはどうしたのかしら? いたずら? しかしいたずらにしては……。
二メートルある巨漢の首から上は、鋭いクチバシに、今は閉じている瞳を持った、大きな鳥の頭としか言いようがなかった。それはどうも仁王立ちをして、無言でいるようなのだ。一方の千代子さんも、事態の異様さにただ絶句し、逃げることもできず、ただ距離を取ったままぼうぜんと玄関に立ち尽くしていた。
その時、大きな頭の鳥の、薄く閉じた瞳が微かに開いた気がした。何か聞こえる。“……使用人、A……”
その意味は何だろう、と千代子さんが考えている間に、鳥は再び瞼を大きく開け、血走った眼で千代子さんを睨み、そしてそれまで収めていた左右の羽をバサッと広げると、忽ち玄関は彼の羽だけで覆い尽くされた。実に素早い動きで、千代子さんの体は鳥の左右の羽によってがんじがらめにされ、千代子さんが声をあげようと思った瞬間、彼の鋭いクチバシが千代子さんの心臓めがけて、ザンッという音とともに深く突き刺さった。
声をあげることもできずに倒れた五十代女性の左胸を中心に、それからもクチバシは何回かズシュ、ザシュと鋭く肉体をつき、血肉が溢れ返った。やがて千代子おばさんの息の根が完璧に止まったのはそう遅くないことであった。
第二章 憐れむべき家族
初め、こともあろうに、親父は千代子おばさんの死と彼女の死体を隠そうとしたのだった。第一発見者は妹(家族間での信頼によるものだ)。妹はヒステリーを起こし、警察に電話すべきかさんざん迷った挙句、まだ勤務時間中だった母を呼んだ。そうこうしている内に父が帰り、間もなくして僕も帰宅した。玄関に打ち捨てられたようにして横たわっていた千代子おばさんの死体は悲惨だった。何か鋭い包丁のようなもので胸を刺されたのだろうか、彼女が着ていたエプロンごと真っ赤に血に染まり、千代子さんは絶命していた。僕はすぐに警察を呼ぼうとした。すると、親父が僕の手を止めた。
「なんで? こんなのすぐに警察呼ばないとやばいじゃん!」
しかし親父は頑固だった。だから僕は千代子おばさんの死に何か親父が関係しているのではないか、と思った(思わずにはいられなかった)。あろうことか、最近ますます気狂いになった親父は、僕らの間で犯人捜しをはじめたのだ! これには家族全員が糾弾した。
「まず、里菜。一番はじめに死体を見たというが、だいたい第一発見者が疑われるんだぞ。お前は犯っていないのか」
「何で私がおばちゃんを殺さんといけんのんじゃが! 私はただ普通に会社から帰ってきて、したらおばちゃんがこんな姿で玄関で血塗れで倒れとるけん、パニックを起こしたんじゃが! それでママを呼んだんよ」
親父はどんどん陰険な目つきになって、妹を糾問していった。
「なんでそのとき警察を呼ばんかったんじゃ。何も無かったら、普通に警察を呼ぶじゃろうが」
「だって、だって、私どうしたらいいか分からなかったんだもん! それよりパパだって、こうして警察にすぐ届けようとしていないの、おかしいんじゃないの?!」
二人の諍いを見かねた母が、泣きながらこう叫んだ。
「もう、止めてよ、二人とも……。お父さん、警察を早く呼びましょうよ。死体をこんなところに置きっぱなしで、絶対いいことが起こるわけありませんよ。ああ、もうくらくらする……」そうして母は本当にその場に倒れ込んだ。妹も泣きながら崩れてへたりこんだ母親をなだめようとした。
「初郎、お前はどうなんじゃ。大体、今日はお前は仕事に行ったんか」
「行ったわ。だから帰るのが遅くなったんじゃ」
「いつもいつも休んで、今日だけ行っているというのもおかしいじゃねえか。本当は、お前、昼までこの家に居たんだろう」
「だから、会社に行ったって言ってるだろう! いつもいつも休むって決めつけてるのは、そっちの方じゃないか。何なら会社に連絡してみるか?」
「おう、確かめようじゃないか」「でも今はもう会社は閉まってるよ」
「じゃあ、やっぱり、まだ分からないな」
「そういう親父はどうなの? なんですぐに警察に届けようとしないの?」
僕は歯ぎしりする思いで、父親を睨みつけた。
「使用人の人たちが死んだら、疑われるのは俺達だからに決まってるじゃないか! 絶対こんなことがあってはならないのに…… もう我が家はおしまいだ……」
親父はそう言ったまま、表情をどんどんと強張らせていった。僕は絶望しか感じなかった……。
結局、警察に届けがいったのはその日の夜七時を回ってからだった。電話をしたのは母だった。震える声で、人が殺されている、というのを警察署に伝えた。直ぐに現場に向かいます、と迅速な対応がなされ、通報は終わった。死体は依然として玄関に残されたままだ。各々はそれぞれの部屋に閉じこもっている。ここは異常だ。
……我は、哀しんだ。千代子おばさんは、眼を開けたまま絶句していた。心臓あたりの胸を中心に、あられもない射し傷がある。人間ならば、包丁やナイフを凶器と捉えるだろう。だがこれは人間同士の殺人劇では無い。玄関には、我ら猫なら簡単に気付ける、白黒の羽毛が僅かに散らかっていた……これはおそらく鳥の化物によるものだ。先日見た、黄金の鳥の主か誰かの。千代子おばさんは、そいつに殺されたのだ。だが何故、レイや我ではなく、主人の家の者を巻き添えにする? 我は非常に腹が立った。レイとティアラはびくびくおびえている。兄殿や親父殿は喧嘩にあけくれて、我達に餌をくれるのも忘れている。我は、誰も居なくなっているリヴィングに、レイを呼び出した……。
“おい、レイ、気付いているか”
“なんですか、きー兄さん”
“これは、鳥の化物の仕業だ”
“えっ”
“玄関から白黒の羽毛が見つかった。これはカラスか、それとも……とにかく、鳥の化物に違いない。僕らと同じ類のね”
“……”
“お前は、最近めたらやったら鳥たちを乱獲していたろう。それについて、カラスや公園の鳥たちが、怒りをあらわにしているらしいんだ。そのことは知っていたか?”
“……”
“これは、そうした鳥たちの、報復だ。だが、なぜよりにもよって我が主人の家のおばさんなんだ……なんで人間を巻き添えにしたんだ……”
“……”
“……とにかく、直接的な攻撃が、我や君にも、すぐにも及ぶかもしれない。我らは、今すぐ会議をしなきゃならない”
“じゃあ、ティアラも呼んだ方がいいの?”
“そうしてくれ。今夜、外で話そう”
――……それじゃあ、あなたが今日一日経験したこと、洗いざらいしゃべってもらえませんか。あなたの情報もね。まずはお名前とご年齢、ご職業などからお願いしますよ。
父「――……はい、はい……。私は光枝洋介、五十五歳。昭和三十六年四月四日生まれです……私は高校の教員です。高校で地理を教えています……教材研究は世界地理です。今中国に凝っていてね……中国の開発部と未開地区の対立、宗教対立なんかを研究しています。それから今の学校には社会科の先生が不足していてね。現代社会や世界史なんかも生徒に教えることがあります。学年主任は今までに三回、いや四回か、勤めましたかねぇ。赴任先は県内に限られていまして、しかも主に県南の地域をだいたい五年くらいで異動しています。今朝は……今日もモチロン学校でした。今朝の寝起きは、やたらだるかった……睡眠不足が祟っているのは承知でしたが、なんだか黒い血流みたいなものが、頭や、肩に溜まって腫れているような気がしたものでした。それでも起きあがりました。朝八時には向こうに着きました。社会科の席に着く前に、廊下をずぶぬれで走っている女子生徒がいるのを見かけました……私はどうしたんだとその生徒に問いました。部活動でランニングをしにグラウンドに出たら朝にゲリラ豪雨があったと。私は気付かなかったのですが、まぁ車中でしたし、多少ぼうっとしてたこともあったかもしれません。社会科には私より先に二人の先生が着いていました……世界史の新田先生と、それから現代社会の天地先生ですね……私は天地先生とは仲良くさせてもらっていてね。天地先生の情報? 確か五十四歳、男性、妻子あり、九月生まれで、趣味は囲碁。時たま天地先生と一緒に昆虫採集に行きますよ。県北とか、県外の山に行ってね……まぁこんなことは喋ってもしょうがない。私は天地先生と少し談笑してから、今朝の新聞を読みました。脱原発訴訟初勝訴、小学生家内暴力殺傷事件、日経平均株価の半年ぶりの上昇、サッカー日本代表のO選手が不倫スキャンダル、くらいでしたかねぇ……八時半になると、私は担任の二年E組に向かいました。また、今朝社会科ですれ違ったずぶ濡れの女性生徒が、今度はちゃんと制服に着替えて、「先生、今度分からない数学の問題教えてね」と言ってきました。そいつは私たち教員にもするすると可愛らしい猫の手を振りまいてくるような、誘惑の美少女なんですよ……私は「馬鹿、数学のことは岡田先生に聞け」と一蹴しました。美少女はまだ何か言っていましたが、私はE組に入りました。
入ると、サッカー部の主将の安部と、それから剣道部の春崎実織が目に見えました。この二人は私にとって意味があって、というのも二人とも背が高くて、それにほとんど学校を休まないのです。八時三十五分の時点でこの二人の姿が確認出来たら、それはほとんどこの日は異常なし、例えば春崎が学校を来るのに使う電車が雨風で遅れているとか、安部の身に何かあったとか(そんなことは中々考えられないほど、安部は事故にも合わない、頭もいい、めぐまれた奴ですが)、そういう不吉なことが一日の最初から飛んでいってくれます……だから今日も私は安部と春崎の姿を確認してから、ホッと胸を撫で下ろすのでした。今日感じていた正体のない不安さえ、吹き飛んでいったようでした。
ショートホームルームでは、二人の女子学生が欠席でした……なお二人とも欠席連絡を貰っていたので異常はなし。今週末、土曜日は予備校の模試があるからその連絡と、それからサッカー部が全国大会に出場になったことを、安部を通じて改めてクラスの皆に伝え、そして励ましと応援を貰いました。全国大会となれば、我が校の吹奏楽もこぞって出てくる所だし、世間的にも注目が高い。私のクラスは、勉強だけでなく、部活動、美術、音楽、社会活動、様々な分野に秀でている生徒が多い。5教科もしっかりやっていくが、それ以上に生徒が一人一人得意分野として持っているものをしっかり自分の自信につなげようというのが、私が教師を始めていらいの指導目標なのです。
だから私の受け持つクラスには、勉強が出来る、というより才能が目覚ましい、という風な生徒が多い……これは自慢になりましたかね。生徒は私の生きがいです。才能目覚ましい生徒に、努力すればもっと輝くことを教える。教師にできるのはそんなもんです。あとは、生徒が自分の人生をどう設計していくか、見守ることくらいです。
さて、午前中は私は授業が二コマしか入って無かったので、残りの時間は、金曜日に課される現代社会の授業の予習と準備をしていました。現代社会はコロコロ教える内容が変わるからね……問題集やテキストもその度に新しい発注をかけないといけないのだが、今の学校の事務員はどうもケチで、ものすごく説明しないと折れてくれない。空いた二コマのうち、一コマは事務員との教材購入の談判で終わってしまいました。非常に疲れた。
それから昼は食堂でカツカレーを食べました……テレビでちゅらさんをやっていたなぁ。私は観たことがないがね……生徒が食いいるように見ていたのを覚えていますね。
午後の三コマは全部授業でした。一年、二年、三年とそれぞれ違う学年の子たちが来る。一年生はやる気が無いですね。まあ、進学するか、就職するか、そんな話も決めていないし、社会の地理となれば、やる気のある子でもテスト前に範囲をざあっと覚えて取り掛かるのが普通なんでしょう。地理は言うなればみなの休み時間だ。しかしね、私はけっこう面白いって思ってやってんですよ、自分の授業を。何人かの生徒は、真面目に私の話を聞いてくれたり、ノートを取ったりしてくれますしね……面白いのは、理系に進む生徒でも地理を真面目に勉強している連中ですよ。二年の医学部志望の佐野って学生がいますが、こいつは中々真面目でね。今日も授業終わりに質問に来ましたよ……佐野は美形で、話しやすいから男女問わず友達に恵まれていますが、あいつは優秀な人材になるでしょうね。あの学年なら、ナンバー1かもしれない。三年になって私が受け持つことはないだろうが、もし私に回ってきたら、大学の話や日本の未来の話などをしてやりたいなぁ……。
授業が終わって、学生たちが解散すると、私は社会科で天地先生と囲碁を一時間ばかり打ったあと、スウェットとジャージに着替えて、顧問先のテニスコートの見回りに行きました……朝のゲリラ豪雨が祟ったのか、クレーコートは足もちが悪く、うちの学校で二面あるだけのグラスコートで、生徒たちがスペースを分け合ってやっていました。私は部活動にあまり熱心ではありません。囲碁部や昆虫採集部なんて今どきね……テニスは体を動かすことが好きだからやっているが、試合に同伴しても、助言らしき助言はほとんどしていません。せいぜい、球出しと、キャプテンに何か喋らせるくらい。今日も私はほんの二、三組ほど球出しをして、それから異常に疲れを覚えたので、さっさと切り替えて、学校に戻りました。
するとまたあの美少女がいるのです。「先生、今日めっちゃ会うやん!」 その生徒の名は江藤純奈です。江藤は女子バスケットボールに入っている。「江藤、なんでお前はこんなところにいるんだ」そこは校舎の廊下でした。時間帯としても、体育館にいる方が筋が通っている。すると江藤は「今日、朝雨浴びたからさぁ、風邪ひいちゃったみたいで……もう帰ろうと思うんだよね」そう言えば江藤は、この季節にしては何枚も服を重ね着していました。上下の制服に首にタオル、そこから学校用のジャージを羽織って、スカートの下にもジャージを履いている……。「大丈夫なのか?」
私がそう聞くと、江藤は「うん、早く帰る」と鼻をこすりながら、小さくそう呟きました。「そうか」と私は少しぼうっとした頭で返答しました。江藤は背を向けて靴箱の方へ向かいます。私はちょっと躊躇った後、「江藤!」と叫びました。江藤は振り向いて、「何?」と目線だけで聞いてきました。
「数学の話だったら、明日、明後日の午後なら空いてるぞ」
私がそう言うと、江藤は笑みを浮かべて、「じゃあ、なるべく明日行けるように、体直しとく!」とはにかみました。
警察さん、私はこんなこと女房にも絶対言いませんよ。学校で私が何を感じてどのように行動しているかなんて、まともに話したことはないですからね……。貴方がたが今日いちのことを洗いざらい話せ、というから話したのです。
――心配は無用です。伺った話はもちろん、例え親族の間柄であってさえ、完全な個人情報になりますから、守秘致しますよ。事件に関係が無ければ、の話ですがね。
それで、家に着いた後は、どんな感じだったんですか?
――まぁ、それで江藤と別れて、私もスウェットとジャージを着替えて、車に乗って帰路に着きました……今日は平日にしてはだいぶ空いていたのでかなり早く帰ることができました……。するとどうやら玄関の方で女房と里菜が立ち尽くしている。私は車を停めて、怪訝に思いながらその場に行きました。すると、女房が立ち尽くしていたから気付かなかったのですが、女房の足元には、お手伝いさんの千代子さんが、目をひん向いたまま絶命している! 玄関先は大量の血で汚れていて、私の登山用の靴にも、とにかくあたり一面真っ黒な血に染まっていました…… “なんだこれは……!どうした、千代子さんは、死んでるのか??” と私が叫ぶと、その場に居合わせた妹の里奈が、“死んでるんだよ! おばちゃん、死んでるんだよ!”とヒステリックなくらいに叫び返しました。何故……千代子さんが死んでいるんだ……?? 事故死か? 私は倒れた肢体に近づこうとしました。すると、女房が、“触れちゃダメ!”と言うのです。何故? “触れたら、あとで警察とかが来たとき、実況見分になるでしょうが! それでもしあなたの指紋とかが付いて、疑われたら、マズいでしょうが!”
さて、私がこんな状況で気になったのは、兄の初郎の方でした……あいつの姿が見当たらない。“兄ちゃんはまだ帰ってきてないよ……仕事でしょ……”
こんな時間までか? あいつはもっと早くに上がるんじゃなかったっけ? 私は疑問に思いました。私の頭はその時何故か非常に冷静でした。ひょっとするとここに居ない初郎は何か千代子さんの死に関係しているのだろうか……。
大体、千代子さんは私たちが選んで契約を交わした人なのだ……それなのに私たちの家の目の前で死んで横たわっているという一番あってはならぬことが起きてしまった。初郎に話を聞いてみないことにはよく分からないが、この事件がどういう結末であったとしても悲惨な目に遭うのは私たち四人だ。隣近所からは異色の目で見られ、私たちは今後一生負い目を背負った生活を続けなければならなくなるだろう……千代子さんは何故死んだ??
……その内に、初郎が帰ってきました。顔面が引きつっていましたが私からすればそんなことはどうでもよかった。「初郎! お前、どこに行ってたんだ!」私は怒鳴り散らしました。それを聞くと初郎はたちまち叫ぶように言いました。「千代子さん! なんで死んでいるんだ! ああ!」「お前、お前は千代子さんの死について、何か知ってるのか!?」初郎はそれには返答せず、ただ「とにかく、一刻も早く、警察に連絡した方がいい。直ぐ連絡しよう」と言って、ポケットから携帯を取り出しました。私は怒りがこみあげてきて、彼の挙動を手で制止しました。
「何するんだ! 話せ!」
「お前は何か知っているんじゃないか? 千代子さんの死について……どうなんだ?」
「お父さん、通報しましょうよ、あなたが帰ってくるのを待ってたんですよ」
「そうだよ……お兄ちゃんの言うことが正しいと思うよ……」
兄と母と妹は通報を催促します……私は……私は、正直、どうすればいいのか分からなかった。しかし、私の心に芽生えたのは、一つの、大きな猜疑心です。それは家族全員を疑う。初郎も怪しい、女房も怪しい、里菜が殺したのかもしれない、云々……だって世の中に確実はありませんからね。家族だって怪しい。今朝から溜まっていた疲れはその時どかんと放たれたような気でした。私の心は家族を問い詰める方に向かっていったんだ!」
「ふむ……。ありがとうございました。成程ねえ……。まだ証拠調べと調査をしてみないといけないことには何も分かりませんが、あなたはここで直ぐ釈放という訳ではいかなさそうです。とりあえず今日明日は、留置場で一日を過ごしてきます。用意はしてきましたか?
「……。はい、分かりました……。」
――それでは次の方……。まずはお名前と年齢をどうぞ。それから今日の事の経緯に至るまでのあなたの一日の行動を詳細にお話しください。
里菜「――……はい。私は光枝里菜。二十一歳。運送会社の事務仕事をしています……はい。家から近いところにあって……事務といっても、電話対応とか、お茶汲みとか、コピーとか、雑用なんです。私の部署には全部で先輩方が四人いて、私は一番の新人。日々教わることも多いけど、楽しくやっています。失敗もあるけれど……先輩方が優しいから。二十八歳で、まだ独身の丸山さんという方がいるんです。丸山さんは一番私に優しくしてくれて、しかも美人で、私とっても好きです。仕事はほとんど丸山さんから教えてもらっています。あと、よくお昼も一緒に食べに行きます。丸山さんはもう八年も付き合っている彼氏がいるけど、中々結婚の話題にいかないみたい。いつもそのことを嘆いています。彼は結婚願望を持たない人なんだそうです。なんでそんな人と付き合っているのだろう! でも明日は我が身です。私はまだすぐ結婚という年齢でもないけど、丸山さんの話を聞いているとどこか心配になっちゃう……。
今日の話でした。もう落ち着いています。それより……家族の方が心配なんです。うちはパパとお兄ちゃんがすごく仲が悪いんです。いつからだろう! お兄ちゃんが中学生に上がった頃は、そうでもなかったけどな……パパも、今日すごい剣幕でお兄ちゃんにつっかかって、千代子さんのことを疑っていました……ええ? パパ、今日は帰れないんですか? そうですか……そうですね……パパは悪い人じゃないんですよ! 決して! でも、うちでも色々あったんです……ママとのこと、お兄ちゃんとのこと、家のお金の事……それでパパは性格が変わってしまったんです。私には優しくしてくれるから、まだ優しい頃のパパが残っていることが分かるけど、でも確かにパパは変わった。警察に捕まっておくのも、この際悪いことではないのかもしれません。私、家族のことが心配で……お兄ちゃんも、本当にだらしないし。お兄ちゃんがもうちょっとしっかりしてくれれば、この家はまだましになるのに。お兄ちゃんがふらふらしてるから、ママもパパも機嫌が悪くなって、私ばっかりご機嫌とりに走らされて、家はギクシャクしているし、汚いし、寒いし……。すいません。口がすぎました。
そう、それでパパは捕まった……いえ、勾留されるんですね。分かりました。すいません。私たちの責任です。私も、ママも、お兄ちゃんも、できることは全て協力するので、パパを宜しくお願いします……それで、今日一日のことでしたね。今日は……」
――それでは、次の人どうぞ……はい、ここにお座りください。基本的なことですが、まずはお名前と年齢、そして今日の事の経緯に至るまでのあなたの一日の行動を詳らかに教えてください……。
母「はい、はい、私は光枝和恵と言います。五十歳。いやいや、あの、私も気が動揺してね……はい。何が何やらこんがらがっておりまして……でもお話します。警察さん。お話すれば家族を帰してくれるんでしょう? 家の者は誰も関係ありませんからね! 千代子さんが亡くなったのは本当に悲しいことだけど……私は家族が心配で……。
今日の朝はいつも通り朝七時に起きて、洗濯物を庭に干してからお化粧をしたり水回りの拭き掃除をしたりで、すぐに家を出る時間になりました。そうそう、妹の里菜が今朝死んだ小鳥を見つけてまたひどく取り乱してねぇ……うちの猫ちゃんたちが悪さをしてくるんです。猫は飼い主に自分が鳥や虫を狩ってくることを誇らしげに見せてくるんです。その鳥がまた家の玄関前にあったみたいで……えぇ……私も気持ちが悪いのでそんなのに構ってられませんでした。どうせお兄ちゃんかお父さんが処理してくれますし。
私は隣町のスーパーでレジ打ちをしています。もう十年にはなるかねぇ……でも最近は酷く腰を痛めちゃって、立ってるのがやっとのくらい。というより、もう限界が来ていて、店長さんとも相談させて頂きながら、入る時間や日を減らしているんです。でも今日は午前中レジを打っててもう痛くて痛くて立ってられなくてね……今日は結構混雑していたので、一時に上がらせてもらって、そのままうちの会社の休憩所でぐったり休んでいたら店長――まだ若々しい三十代の店長でね――が、光枝さん、大丈夫ですかって。本当にしんどいなら今日はもう休んで、整体に行って下さいって。本当に優しいんです、うちの店長は……しかもその整体というのが、スーパーからすぐ近くにあってね! 店長さんが個人的にそこと面識があるのかは分からないけど、私も仕事終わりに通ったりするんです。“光枝さん、またあそこに行ってきたのかな”って。
話が逸れました。とにかく私は早退して、整体さんに行ったんです。受付を済ませたら、待っている先客が二、三人はいたかね。それで私の順番が来て……先生はいつもの先生で、四十か五十の熟練の先生だわね。始めの十五分も揉んでもらうと……本当に腰の奥の奥の肉にどんどん届いていくような感覚があるわ。それはとても気持ちいいものよ。私が楽になりつつあることを先生もすぐに分かってくれて、そういうのが素晴らしい先生よね。患者を大切に扱ってくれる先生は重宝もの。
そこで私がぐっすり眠りかけていたら、突然私の携帯が鳴ったの。ぼんやりした頭で会社先かしら? と思って取ったら、もうそれはびっくりした。「助けて!」里菜の声だったわ。しかも、取り乱すどころじゃない、気が狂ったように泣きわめく里菜の声が……助けて、怖い、ママ、怖い……とりあえず私は落ち着きなさい、どうしたの、里菜、里菜と呼びかけました。そうして……里菜は段々落ち着いて、しかし怯えきった様子で、事のあらましを断片的に語っていきました。とにかく、千代子さんが血だらけで家の玄関に倒れている。動顛している里菜からはそれくらいしか分からなかったわ。私は、救急車を呼ぼうかしら、と言いました。でも、何か里菜はそれを堰き止めるの。もう、死んでいるのは確定しているかのように……。どうして死んでいるって思ったのかしら? 確実に? ピクリとも動かなかったから? 私にはその辺がピンとこなかったけど、とにかく情況もよく分からないし、隣町なのでバスで急いで帰れば十五分もかからないので、整体の先生にお詫びを行って、すぐ出たわ。私の思い通り、バス停にはすぐバスが来た。むしろ、傾いた夕日が射しこむバス乗り場で、ただ座ってバスが私たちの家に近付くのを待つしかないことが酷く応えたわ。里菜の電話はいったん切ったけど、そのまま繋いでおくべきだったかしら……拙い手でメールを打ちました。でもそんなことをしていたらバスは目的地に着きました。近くのビルの通りから我が家まで、脇目も振らすに死に物狂いで帰りました。残された里菜がいるから……!
家の玄関前には、泣き崩れてぐずぐずしている里菜と、血だらけの惨事がありました。里菜は私に飛びついて来た。私の頭はよく働かなかったわ。でもなぜ、こんな状況で、今日はものすごくいいお天気で、お洗濯ものもすごくよく乾いている……などと的外れなことを考えていました。私の頭は思考停止になったような気がします。
その内に、お兄ちゃんが仕事から戻ってきて、私たちを正気に取り戻してくれました。お兄ちゃんはこういう時こそきびきび動くんだわ…… 何やら横たわっている千代子さんの周囲を回り、それから一目散にどこかに飛んで行ってしまった。呆けた私と里菜は、ただ残された現場で千代子さんの無残な姿を直視するわけにもいかず、通りにも誰も来ず、世界から切り離されたみたいで、そうこうしている内に、なんだか……」
「……もうそのあたりで結構です。最後に繰り返しになりますが一つ。なぜあなたは自分から救急車を呼ぼうとしなかったのですか?」
「それはお話しした通り、里菜から電話が掛ってきてすぐ思いつきました。実際に里菜にそうしなさいとも言ったし……私は……分かりません。どうして里菜が崩れた千代子さんを死んだものと断定したのか……まあ実際に亡くなっていたんですよね……私はもう自分が分かりません。何も分かりません。」
「結構です。あなたも、今日はこちらの事務所に泊って行って下さい。必要なものは全てこちらで用意します。何かあったらすぐ私たちに言って下さい。今回の案件は強い事件性がある為この先どうなるか今のところ見通しがつきませんが、お母さんの家族がうまく困難を乗り越えられることをこちらとしても祈っておきますよ。大丈夫です。あなたのお子さん方は思ったよりしっかりしておられますから」
――……れでは、次の人どうぞ……はい、ここにお座りください。基本的なことですが、まずはお名前と年齢、そして今日の事の経緯に至るまでのあなたの一日の行動を詳らかに教えてください……。
長浜寧々「あの……私は長浜寧々といいます。29歳。独身です。光枝家のお手伝いをさせて頂いております。他にも家政婦としてもう二軒ほど行っています。
私は……今日は自宅で目を覚ましました。自宅というのは、母のいる実家です。水島にあります。今日は、父の亡くなった日でもあります……ですから……私は、母とともに、水島の近くの霊園に行き、父の墓の前で弔いました。午後は、母と一緒に家に戻ってくつろいでおりました。今日はお休みだったもので……後は、もう、警察の方から電話がきて、千代子さんが殺されたっていうのを聞いてとにかく動揺して……そんな感じです……」
「では、あなたの今日の行動については、お母さまから証言が得られるという事ですよね?」
「は、はい? はい……そ、そうです……母と一緒にいましたから。ええ、その……」
「何か隠していることでも?」
「いえ、そのようなことはありません……はい。私は昨日光枝様のお宅のお手伝いをしておりました」
「それは何時から何時まで?」
「朝の十時から夕方五時まででございます」
「それから、あなたは?」
「私は笹沖に借りている独り暮らし用のアパートに戻りました……途中でドラッグストアに寄りましたけど。あの、もういいでしょうか?」
「……分かりました。よしとしましょう」
こうして事件を知る複数人からの長い事情聴取は事件翌日の明け方まで行われた。もちろん僕だって受けた。しかし、一体誰が千代子さんを殺したのか、その死に方からしても自殺はほとんど考えられないうえに、僕ら目撃者の話が芥川龍之介の「藪の中」とまではいかずとも微妙に食い違うので捜査はいきなり難航した。そして、警察署内で時間を過ごす中で家族の父親である光枝洋介は段々と情緒を崩していった。家のことが、学校が、俺の名誉が、地位が、家の書斎が、あぁ家の書斎、あれは俺のものだ、俺の自由、俺の生活……などと勾留所で隣人の迷惑も鑑みずにブツブツわめきだしたというのだ。駆けつけの臨時医師が付き添ってくれた挙句僕と母親と里菜、それに寧々さんは明朝七時過ぎにようやく帰宅を許された。父には心的なカウンセリングと場合によっては治療、処置が必要かもしれないなどと優しい髪色をした三十代の男性医師は言い放った。「処置?」と誰もが訝しがったが、とにかくこの日はみんな甚だしく披露しており、ぐったりした母親が運転する車内で会話などあるはずもなく誰もが疲弊しきった表情で半ば放心していた。家に着くと皆は散り散りになり、家のものは玄関の中へよろよろと入っていった。僕は寧々さんことが気にかかり、彼女を見ていた。寧々さんは二つの瞳を薄く腫らせて息苦しそうにいつもこの家まで通ってきている自転車に跨った。
寧々さんは今やっと僕の視線に気付いたかのように振り返り、そしてまたすぐに目を反らした。
「私はこれで……今後のことはまた連絡させてください」「……はい、はい……あの……」
しかし彼女は踵を返して急いで帰路に着いていった。僕は眠たかった。千代子さんの顔、床に残る夥しい血糊。親父はどうなるんだろう。もう何がなんだか分からない……。
(連載 第二回 終わり)