黄桃缶詰
SINCE 2015
活動再開!2019年4月発表をめどに小特集「曖昧なる境界線」が決定!(1/28)
はる「ロジウラ」、misty「時間喰いのモービーディック」の原稿を掲載しました!(11/25)
しばしの間休載。(9/12)
炎天下の受刑者 光枝初郎
23:58 17/7/2018
sin666:炎天下の中で限界を感じたら「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と心の中で唱えるだけのゲーム。これであなたはキリストの気持ちになれます宗教勧誘。
sin666:僕はまともな人間じゃない。信じられないほどのろくでなしだ。ろくでなしな僕は、しばしば自分がろくでなしなことを忘れて「平均以上である自分を信じたい自分」に戻ってしまう。しかし自分の強みは、自分がろくでなしだからこそ分かる世界の歪みや感性をキャッチできることなのだ。
sin666:僕は地獄の篝火の中に丸ごと放り込まれて大満足だ、あと何回もこれが繰り返されるんだ……すべての温度は地獄の篝火のなかに、最も冷たい氷の微笑から、竜龍の火焔まで全ての温度は地獄の篝火にある。僕は焼き尽くされている。全て! 焼き尽くしてくれ! 醜い罪を、そしたらば華麗なる罰を!
sin666:ダンテの創造した地獄は最高だ。煉獄より幾分マシだ。罪は永劫贖われることがない。あるいはシーシュポスの神話。僕は僕の罪をまるでペットのように扱う。火にくべても焼き尽くされることのない僕の罪。頭に鈍く響く、数え切れない苦い過去たちの断片。ワレハワレヲサバキタイ。
sin666:僕は地獄の中にいる。ここはとても静謐だ。狂気のセレナーデの中では全てが安泰だ。僕は自分の罪を篝火にくべる。自分の罪がゆっくり、ゆっくり燃焼され、しかし決して焼き尽くされることは無い。僕の頭と右腕に鋭い痛みが走る。僕は痛みに我慢強いから、痛みの中に自分を浸らせる。これが罪の味。
sin666:煉獄では何が待っている? 落胆? 後悔? もう一度言おう、「私は人間ではない」ーー地獄と煉獄を取り仕切る幾多の悪魔たちにすら近いのだ。私は私の罪と共に生きる。
だから私が死ぬまで、罪よ、罰よ、炎天下のなかでいつまでも輝き続けるのだ。私の友よ!
I 地獄の刑苦
地獄の夏を自転車で走っていた。うだる炎天下のなかで試しに「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と唱えてみたら私はたちまち「内部世界」に入り込んでしまった、否そこは炎天下の地獄だった。いや、煉獄かもしれない。どちらにせよここは世界=外だ。それは私の望んだことでもあった。エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。これが世界の外に出る呪文だ。
たちまち、昏がりの岩壁の中にくすぶる篝火を見つけた。燃え盛る火は松明によって段々と大きくなり、苦しみにも似た愉悦の嘲笑を炎の主は私に浴びせた。
「お前の罪を、我に見せよ。お前の過ちを我に見せ、その卑しい首を垂れろ!」私は思わずゾクッとなった、それが恐怖に存するものかマゾヒスティックな悦びに由来するものか私には判別しかねた。もうそれだけで私は額いっぱいに驚愕なる量の汗をかいた。景色は揺らいで、混濁する。私の意識が景色に混ざりはじめ、炎は私の恐怖に比例して目の全てを焼き尽くす。炎、炎よ……。そなたは何故に恐いのだ。炎は全てを呑み込み、焼き尽くす。灰になる前に、概念として生きたままの焼き身として凍結される。そう、炎は時間を止めるのだ。生でもなく、死でもない、いや、真の死と言えるかもしれない、「存在の消去」。痕跡すらをも呑み尽くす。
炎の主、カルシファが私の腕を強引に掴んで喰んでいってしまった。
「罪一号よ、さっさと出てきやがれ!」そうして私の右腕は血肉を剥き出しにしながら燃え盛る炎の中へくべられた。罪一号、友人をすべからくの裏切りに処せる。私は、永遠にして最も貴重な友人を高校時代に手に入れながら、私の不徳により全てを失ったのみならず、彼らに不信頼と失望を与えてしまったこと等。瞬時、私は高校生の時の〈自己〉へと変貌した。夢の中で高校の友人たちが残酷なまでに炎舞を披露する。。大人になって彼らは大人となったはずの私に言う。
「お前、ふざけんじゃねえ!」
「あなたのせいでどんだけ迷惑がかかったことか」
「見損なったわ」
「もう近づいてこんで、絶対」
「お前がそんな奴だったとはな、せいぜい生きてろ、じゃあな」
……私は今でもその夢に怯えている。
カルシファは次の務めをさっさと果たすべく、まだ茹で上がりもしない私の右腕を放置して、今度は再び私の体の根元から左腕を外しにかかった。信じられないほどのスピードで私の肩は脱臼し、そうして私のあらゆる関節が外れた。痛みがないのだ。私は死んでいる。此処は冥界。痛みを感じるのは刑苦においてだけなのだ。このあたり地獄といえどもどこか優しさすら漂わせている。そして私の左腕はまたしてもずっぽりと、大量の血飛沫をあげながら一つの物体へと変容していった。いわば葉っぱのついた枝のようなものだ。いとも簡単にポキリと折れるものだと私は自分を嘲笑った。血飛沫だけが鮮明で美しい。
「罪二号よ、さっさと出てきやがれ」
カルシファはしゃがれた声でそう言った。私の罪二号——男性たるの私が何人もの女性を痛め、傷つけ、裏切ってきたこと。私は思う——男性は、女性を傷つけるために存在でもしているのだろうかと。私は私の男性性が嫌になっていた。私は幾人もの女性を傷つけ、女性性を嘲笑し、暴力をふるい、あるいは恐怖のどん底へ突き落したり、苦悩を与えたことは幾重にも。私はいつも過去のこれらの行いを思い出し、独我論的に苦悩し、独我論的に酔い痴れる。痴ったことでろうか。私は馬鹿の実体である。しかし、馬鹿は傷つけていいことの免罪符にすらなりえない。私の内なる〈自己〉は遠慮がちにさらに罰を求めた——そして私の左腕も万遍なく再びの篝火にくべられた。燃焼していく、私の左腕、いや私の罪が。その罪は消え去ることは決してない。保存されるのだ——見せしめの為に、後世の人の為に、裁判資料として。私がこんなことをやらかした、こんな女性を傷つけた、自らの母親と自らの最愛の女性を傷つけたこと、何たる恥! 死して贖えと。
「おい、お前、いつまで自分に酔い痴れている。まだ残っているんだぜ」
カルシファがもはや両腕の亡くなったただの棒でしかない私の身体に呼び掛けた。
「お前さんの最後の罪……第三の罪、それはお前自身さ!」
そう言うとカルシファは私の棒と化した惨めな身体の中心めがけてぐっと強烈な一撃をお見舞いした、その一撃は無論胸を突き破り、まだほのかな温度の残る心の臓を完璧なまでに取り出した。第三の罪、そう、「私が私を殺した」こと——まさに、狂気に見舞われて散々大切な友人や優しい女性たちを迫害してきた私は、ギリギリのところで私の脊髄一本を支えていた理性をついに殺害せしめたのだ。私はここで気付いた。右腕を取られ、左腕を取られた棒のような私にも、まだ理性が、正常な、ぎりぎりのところで私自身を私として成りたたせている理性という中心が残っていた、それは心臓の事だった。この理性は——狂気を止めるまでに至らなかった。私の狂気はいつから私の理性を超越しだしたのだろうか? その制限を超え、荒れ狂うままに、やりたい放題に? 私の理性は……たがが外れたのは、やはり私が精神病に陥った時だったのだろうか? だとすれば私はやはり異常者だ。しかも、私は精神病を患うことによって異常者となったのではなく、元から異常者だっただけなのだ。私という異常者をまだかろうじて隠していた理性、仮面、演出は、結局のところ私の異常性=狂気を止めるまでにはいたらなかった。この理性を最後の審判として罰に処せなければならない。こればかりは私もつらかった。狂気に囚われた私は、いつもどこかで理性の声を聞いていた。私の理性とともに私は行動していると思い込んでいた。理性は悪くないはずだ。だけど私の理性は「善く」はなかったのだ……私はガックリときた。もはや心臓すら抜き取られて、プラスチックと同等存在、肉塊となった以前=私は、そのまま膝をがっくりとついて、残っていた「頭脳」——頭ごと大きな松明の火の中にくべられていった……
Ⅱ 煉獄の作法
地獄の炎は全てを焼き尽くす、がしかし灰が残る。以前=私であるところの肉塊は地獄の篝火に万遍なくくべられたあと、全てが灰と化した。灰は私だろうか? いずれにせよ灰となった以前=私はこの時点では「言葉をもつ」ことができない。地獄の門番カルシファはすっかり軽くなった以前=私の灰をかき集め、ふっふっと息を一息二息吹きかけてから、煉獄の連中に売り渡しやがった。
……灰の中に以前の私が宿っている、と思った。私は今球体のようなもので守られている。私の身体は相変わらず両手なし、心臓なしだ。ただ頭脳が、頭が残っている。両足も残っている。そんな半端な私は、半端な煉獄へと送られたのだろうか? 透明な灰のカプセルに守られた私の目の前に、十字架の仮面——本当に仮面だろうか、もはや何が何だか分からない——をつけ黒装束に身をまとっているすらりとした体つきの男が現れた。私の目線にはわざとか気が付かずにこの透明な灰カプセルを胡乱な目つきで眺め、しばらくして静かな語り口でこう告げた——「私はXだ。この灰の中で煉獄というものの作法にあずかってもらわねばならん」そうXという男——牧師?——が言うと、透明な身体の私を包んだ灰カプセルは一つ、二つと増えて全部で五つくらいのかたまりになった。
「まずは一つ……一つの記憶と断片だ。お前自身がその記憶の中に入り込み、苦しみ、そして出てこれんことを願え」そうして私は、ある具体的な記憶の中に落ち込んでいった……その落ち込みの感触はとても気持ちよく、美しく、甘美な香りさえした……
***
(受刑者による中間メモ)
欲望と狂気は区別されるべきだ。しかし、ドストエフスキーの『地下室の手記』に出てくる「恣欲」という概念はどうか。引用——
「ところで、諸君、理性はたしかにけっこうなものにちがいない、それに異論はない。だが、理性はあくまで理性にすぎず、たんに人間の理性的判断力を満足させるにすぎない。ところが恣欲のほうは、全生命の、つまり、上は理性から下はかゆいところをかく行為までひっくるめた、人間の全生活の発現なのだ。なるほど、このようにして発現したぼくらの生は、往々にしてくだらないものになりがちだけれど、やはりそれは生であり、平方根を求めるだけの作業とはちがうのだ。」
——ドストエフスキー『地下室の手記』(新潮社、2013、江川卓訳)pp.52
私は混濁する頭の中で考えていた——ドストエフスキーの凄まじき処女作品『地下室の手記』。諳んじるまでに覚えている。確か、最初の方でこんなくだりがあったはずだ。そう、私は地獄の門番カルシファに怯えて私の内の理性と狂気の対決を考えていたが、たとえば狂気と欲望という概念はだいぶ違うものだ。そして、このドストエフスキーの描く主人公が使う「恣欲」という言葉もまた欲望と微妙にずれている。「恣欲」とは、恣に欲望を作動させる、自由/勝手な人間の行動心理というくらいのことだろう。それは果たして狂気と言えるのか。確かに、欲望の駆動原理は精神分析学をもってしても摩訶不思議な説明かあるいは謎の探求にしかなっておらず、ありていの定説は「欲望は暴力的なまでに自在に動き回る」である。欲望は暴力とある関連がある、或いは暴力は欲望と関連している。欲望のその動作は暴力的であるとしばしば形容される。欲望は力なのだ。ところで、純粋な力は、「正義」のpowerとしても、悪たるの暴力としても、どちらの方向にも生成する潜在性を秘めている。欲望という純粋な力は、それほどまでに強力なのである。強度としての欲望。その強度が「過剰」になったとき、欲望は暴力へと飛躍=生成変化する。しかしここでまた問い。暴力から狂気へ至る道についても幾つかの橋渡しを考えなければならない。暴力すなわち狂気という理路ないし主義はそれこそフーコーが古層社会の中に見てとったものに他ならないからだ。だとすれば……狂気とは「理性のたかが外れて欲望や暴力が主体の駆動原理となってしまうこと」で良いのだろうか? 狂気とは……私の狂気。それはどうも、「無意識」にポイントがあるように思われる。構造主義的な精神分析(ラカン?)の知見は、意識ではコントロールすることのできない現実生活の外部に、無意識が影響を及ぼしているという態度を仮説として論証した(大まかに言えばだが)。意識はまだコントロールできなくもないが、無意識や夢の領域にあっては完全に主体の外の世界だということである。無意識が程度の差はあれ諸主体の振舞いを規定するという怖ろしい仮説……フロイトの恐怖。
私はここで考察を投げる。狂気と無意識にいかなる関係があるのか皆目見当もつかないからだ。ただし、無意識と狂気には何らかの関係性があるのかもしれない。しかし、私の狂気とはいえても、私は私の責任=応答可能性において「私の無意識」というようなことは言えない、私の無意識、私の所有物である無意識などとはとても。無意識、そして私の狂気が私の人生をかなり誤らせたのだ、としたら……。
***
ムネモシュネ。ムネモシュネ……? 目を覚ました私は、黒い男、ブラック・マンと化していた。ただの黒い物体へと化した私、これが煉獄のお作法なのか……覚醒した私はもっと自分の状況を把握する羽目になった。全身が黒色となったブラック・マンの周りに、薄い皮膜のようなものでできた球体が私を取り囲んでいる。その皮膜には、フランス語でこう書いてあった……Munemoshne、すなわち〈記憶の女神〉を意味するあのムネモシュネ、と。
私は言わばブラック・マンと球体たるムネモシュネの皮膜とに二重化した。いずれもが私の確かな、確固たる身体だ。私はこの新しい身体を獲得することによって、この煉獄でどのような裁きを得るのか。そして私の目の前の情景は変わっていった……そこは部屋、あるいは教室のようなものだった。その教室で、驚くことに私そっくりの普通の黄色の肌をした人間と、女性が会話をしていた。ブラック・マンは球体に包まれ、光景という光景をただ俯瞰視するだけの《傍観者》たる地位を余儀なくされていた。私とそっくりの男(或いは、人間そっくりというべきなのだろうか)は、明らかにあたふたとしていた。どうにも下手くそに、それなりに背の高い女性にしどろもどろに声を掛けている。
「……なぁ、なんでだよ、仕方ないだろ、昨日のことは……」
「……」
「……本当に謝るから。本当に申し訳ないと思っている。なぁ、頼むよ……」
「……」
そのとき、ブラック・マンは激情に襲われる。なんということだろう。ムネモシュネの皮膜は赤々と発光し始めた。私はムネモシュネの皮膜に捕らわれた囚人のようなもので、ますます赫くなりつつあるムネモシュネの皮膜に思考をつよく揺さぶられている。……明らかに私は、自分の、かつてあった《過去》の出来事にぬらんとした脳味噌ごと侵食されようとしている。どの記憶? いつの、何年前の出来事、どこの、誰と起こった出来事??
その時、この決して抜け出すことはできない(これも煉獄の作法の一つなのだろう)ムネモシュネの皮膜から見えたのは、私とそっくりの男についに愛想をつかしたらしい女性がこちらを不意に振り返った、つまり女の顔だった。彼女は実に美しかった。そして、静かな怒りと、やりきれない、実に哀しみを漂わせた綺麗な横顔をブラック・マンの目の前で披露していた。
エミだった。
おぉ、エミよ、エミ! 結ばれることこそなかったものの、永遠に先輩と後輩の仲でありたかった一つ年下のエミ、そして現在、私が「エロイ、エロイ、サバクタニ」と叫ぶ前の上の世界の時間においては、もうエミとは音信不通どころかお互いに完全に他人の顔を思い浮かべていたことだろう。エミよ、たとえば君と出会ってその次の日に渡したaikoのCD。そのお返しに君が笑顔で渡してくれたクラムボンのミニアルバム。私たちは音楽でつながっていた。そうだ、私は音楽サークルに入っていたしがない学生だった。音楽を通じて遥か昔、錯綜した人間関係を生きていた苦しい時期があった。音楽は人を救う、そして同時に音楽は人間関係というものをとことん複雑にさせる。エミとの出会いがたぶんにささやかな幸福に包まれていた分、終わりは高い塔のあっけない崩落のように、その崩落のスピードを活かした破滅的な終わりだった。私は罪を犯し、そのことによってエミは私という存在を抹消した。
今、エミの顔をした女性に、ブラック・マンのことはおそらく認識されていない。目の焦点が合っていないからだ。おそらく、ムネモシュネの皮膜に包まれたこの私の姿は不可視なのだろう。私は完全なる犯罪者的傍観者的人間だ。私は記憶を中途半端に手繰り寄せる……それも一つ、一つずつ。エミのことだけではなかった。音楽で築き上げたそれなりに多くの人間との不和や喧嘩や怠惰や憤懣、裏切り、不信、悲しみ、悦楽と青春、激昂と感情の高ぶり、奇跡、栄光、安堵、高揚、そしてそれらすべてはまたしても灰と化したのだった。今の私には何一つ残っていない、それらは全て囚人たる私の背負う、腰にはめるための鎖をつけた重たい鉄の鉛と姿を変えた。私は過去の重力を引きずるのだ、それも最高の低みにおいて!
エミよ、そしてかつての私よ……私は死んだのだ。私の過ちは決して赦されることはないだろう。そう、それでいい。過ちは、赦されないことで、せめてもの慰み程度に、純粋な過ちと高潔な汚名へと変わっていく。それも一つの余興だ……栄光のある汚名を今も私は進んで被ろう、私はその時完全に人間を脱するに至れるのだ! 私はついに人間を超えるのだ! ……
「よく頑張ったな」Xと刻まれた男の口が冷徹にそう告げた。「だが最後のは少しばかり余計だ。人間が人間を超えるわけはなかろう。お前は、どうにもならない腐った人間という事で、ある意味もっとも人間の中の人間なのだ。お前は、まさに典型的な低劣さを有するという観点から、よくできた人間の代表者なのだよ。そのことを努々忘れるな。
……さて、我々にも、それから私にもあまり時間は無い。煉獄の作法の時間はこれでひとまず終えよう。シンよ、とりあえずグッド・バイだ」そういうと、Xの仮面を被った冷徹な男は左手で別れを告げるジェスチャアを作り、あっという間に立ち消えてしまった。ブラック・マンは気が付けば冷や汗で身体が激しく嘔吐していた。
それから間もなく絢爛たる激しい瞬光が輝き、煉獄空間は次々と収斂し、あるいは縮小し、エックスも僕―私もその空間から消失したのだ。
Ⅲ 審判
……気が付くと私という〈自己〉は半透明な身体へと返却をほどこされた。身体が戻ってきた! この半透明上の身体は今の私によく馴染む。もともとが曖昧、両義的で独我論的な矛盾だらけの人間だ。矛盾をもって悪をなす。私の人生はそのように実に短い言葉で要約可能だろう。
私の目の前に、たちまち一つの〈裁判所〉が現れる。それは白色の立方体に近い建物で、私は強制の力によってその門をくぐることを許可される。門の下方に「地獄」とだけ書かれていた、私は再びカルシファの元へ戻されるのであろうか? いともたやすく門をくぐることができた。私は現世へと帰されるのかもしれない。……いまさら何の為に?
私の眼前には、酷く薄汚れた傍聴席と、外見上の〈裁判〉の形をした被告席と裁判官席が対面にして敷かれていた。傍聴席には誰一人として座っていやしなかった(私はほっと一つ溜息を吐いた)。裁判官席は床が高く作られていて、そこに至るための三段の厳めしい階段があった。金の装飾でほどこされた大きな椅子がそこには用意されていた。被告席は縦長に作られていて椅子などは何もない。それら以外はただ白色の、気の遠くなるほどどこまでも白い壁と床があるのみだった。やがて〈裁判空間〉の後方のほうに小さく区切られていた(私はその扉が開かれるまでまったく気が付かなかった)ドアがこの異空間の内部を侵食した。ぞっとした雰囲気が〈裁判空間〉をたちまち包み込んだ。しかしそこから現れてきたのは意外な風貌をした男だった。その男は迷彩色の軍隊服に身を包み、彼が被る帽子は軍隊服にまったくそぐわないシルクハットの黒色帽で、おまけにだいぶ太っていた。彼は大きなサングラスを皺のよく入った顔面にふてぶてしく載せていた。
「ふふん」
男は体格と比例した大きな咳払いにも似た声を出し、傍聴席の前で棒立ちになっている半透明の私を威嚇した。私はまたしても薄やかな汗を額に浮かべた。
「おい、シンよ、そこに立て」
私の名前はシンだったのだ……
シンは考えた。自分の罪の事を。私は名もなき身体、私の躰は極悪なるカルシファによって八つ裂きにされ、充実せる身体を失った。私の魂は灰色の男・エックスによって消滅させられてしまった。私はただの概念となったのだ。シンは概念を自らの内に閉じ込めた。シン……何だろうか、概念に名前が与えられることによって私は皮膚一枚の躰とちっぽけな〈精神〉とを手にした、不確かな色彩で塗れた私の存在の輪郭よ!
やがて気が付くと迷彩色をあたりに全面的に主張しているサングラスの男は裁判官席についた。そして彼はどこからか取り出した一つの小型のブリーフケースから書類とちっぽけなボールペンを取り出し、〈判決理由〉ratio decidensi の書類作成を開始した。
「ふん……もうすでに先走っちまったがな、俺の名はゴドーだ。マクシム・ゴドー」
「マクシム・ゴドー」シンは何も分からず考えなしにゴドーの言葉を繰り返した。
「それでいい。俺の役職の一つは、事物の名を確定させることだ。俺の仕事の既判力は名を授けられた者の人生の一生に渡って及ぶ。つまり、まぁ、名の安定。もうお前が〈この別の世界〉にもう一度来てしまった時をのぞいてな。だいたいこのanotherの方に人間が来たのはもう……百年近く前になるな……ふん」
「孤独がありました」
「それから、ここは〈裁判所〉の体裁を取り繕っているが、これは発注ミスでな。まぁ、実際には、勾留所の取調室と簡潔な処分の言い渡しの合議制と捉えてもらえばいい。いいな、シン? お前の名前はシンだ」
「シン」
シンは段々男の魔術的な声の響きに脳髄を甘美なまでに犯され、半ば夢見心地だった。
「シン、起きろ!」
濁声じみた唐突の怒声に再びシンの頭は冷水をかぶせられた様に蠢いた。
「よろしい。それで、お前はお前の生きる世界、太陽が支配する世界に、それだけで刑苦を背負ってきたわけだ。そのことの過程はお前の書いた中間メモを参考資料とした。昏き欲望についての考察、ふん、確かにちと文学的だ……だが、あまりに文学的すぎる。お前の思考には、本質をそれとして畏怖する勇気が欠けている。それは真理への勇気だ」
「真理への……勇気……」
「そうだ。真理への勇気と畏怖だ。それは俺に近づくための絶対条件だ。二つ。シンよ、お前は俺を知らなければならない。知るをもって、知らない罪を贖え」
「しかし、ゴドーよ、私は貴方を知らないのです」
「痴れた奴め!」
マクシム・ゴドーはがなりたてると、少し喉の調子を悪くしたらしくしばらく咳き込んでから二人の間に沈黙と相対的な距離を作成した。
「さぁシンよ」そう言われてシンは思わず身構え、ゴドーの次の言葉を今か今かと待ち構えた。
「お前の全ての過ちを私は聴こう。こんななりをしているが、私は一つの《司祭》とでも考えてもらえばいい。お前の全ての罪を、心おきなく私に告白したまえ。それができたとき、お前は再び地上に戻されるだろう。」
シンはびっくりした。「そうなのですか? 私は赦されることができるのですか?」
マクシム・ゴドーは深い皺をゆがませながら、ほほっと巧みな微笑を浮かべた。
「性急だ、性急だ。急ぐんじゃない、お若いの。その前に、一つ条件がある。そいつと、告白、この二つをクリアしたら、お前は晴れて娑婆の身だ。」
「もう一つの条件というのは……?」
「先ほど言ったことを覚えているか?」
「なんですか? 私の頭はさきほどからかなり混乱しています」
「虚けものめが。思考を落ち着かせよ。……そうだ、真理の話だ。真理への勇気だ。分かるか? お前は、虚実だらけのお前は、明らかに真実を畏れている。それでは十分な告白はできない。シンよ、お前は今一度、真理を語らなければならない。よいか? 時間が掛かってもいい、さぁ、今からはお前の独白の時間だよ……」
そういうとマクシム・ゴドーはふっと口を紡ぎ、逞しい両腕を抱え込んで、しばしのだんまりを決めたようだ。冷汗は止まっていた。たしかに、この法廷はとても静かで、知らず知らずのうちにこの私へも安堵を許可してくれたようだ。シンの頭のなかは次第に聡明になっていった。
もう、マクシム・ゴドーは口を開かない。おそらく問いかけても、何も答えてはくれないだろう。これは、試練だ。最後の試練なのだ。それは私によって開始されなければならない。
しばらく思考をめぐらした後、私はついに最後の言葉を開いたのである……。
(続)