黄桃缶詰
SINCE 2015
活動再開!2019年4月発表をめどに小特集「曖昧なる境界線」が決定!(1/28)
はる「ロジウラ」、misty「時間喰いのモービーディック」の原稿を掲載しました!(11/25)
しばしの間休載。(9/12)
グランビスト建国記 序章
常磐誠
連載第一回「運命られた邂逅」
潮風が吹く石畳の道の両脇には、お世辞にもきれいとは言えないトタンや古ぼけた看板のような物体が粗雑に組み立てられたような建造物のなり損ない達が並んでいた。そのなり損ない共を見ていくと、視線が上に向かっていく。小高い山の方にまで、粗末な出来損ないの集まりは続いていく。空は仄暗い雲に覆われていて、辺り一面には雨の匂いがたちこめていた。
視線を少し下ろしてみると、不自然なまでに真っ白な霧に覆われた空間がある。空に雲一つない時にさえも深い霧に覆われ、誰も見ることの叶わぬその先から、何か甲高い叫びとも、呻きとも取れぬ響きがあった。そして刹那。白く輝く美しい何か、が空へ駆け昇り、すぐに消えた。
その瞬間を見た者は多くなかったが、その全てが後に、口々に語ったという。
――あれは間違いなく、龍であったと。白銀に輝く、うら長き大蛇の如き龍神様であった、と。
少しだけ。そう。ほんの少し。何かの甲高い音が響いたその場所から徒歩三分程度。彼の歩幅で三分程度離れた位置。これまたお世辞にもきれいなどとは言えない、それでも先ほどの場所より多少はましに見えるボロくて小さな家から、一人の男の子が姿を現した。名前はリク。オプスパベル国の身分制度のせいで、苗字を持たぬ少年であった。髪の毛はクリーム色、瞳が青く輝いている。
その瞳は家の南側。件の声が響いた方向とは真逆の方向にあるゴミ置き場の方を向き今にも駈け出さんと煌めかせている。
「お待ちなさい、リク。ちゃんと挨拶くらいはして出て行きなさいな」
家の中からやや低く響くその声に、
「わかってるよ。ぼく、もう赤ちゃんじゃないんだから、大丈夫。剣も持ったし、すぐ帰るから。いつも行ってる所に行くだけだから。それじゃあ、行ってくるね。お母さん」
そう返事をして、「行ってらっしゃい」の言葉も聞かずに彼は家を飛び出して行ってしまった。その「行ってらっしゃい」の声も、その者の見てくれも、幼いリクのお母さんとしては幾分年老い過ぎている女性は、「…………」深いため息を一つ吐くなり、木桶を一つ持って家を出る。大した用事ではない。今日の夕餉の支度をするために井戸の水を汲みに行ったのであった。
リクが向かったゴミ置き場には大小様々なゴミが、申し訳程度の分別をされてぶちまけられている。ぶちまけられて、という文言からその程度が察せられる通り、この場には大量の虫がわき、異臭がたちこめる。誰もここに好き好んで立ち寄ることはしないのであるが、リクは違う。いや、リク以外にも背格好の同じくらいの子供たちが大量にいるのではあるが、リクがここにいる子らと異なるのは、その目的である。
子らは当然ゴミの中から日々の生活に活かせるもの。例えば、まだ食べられる残飯やら、売って金にできる金属片やらをかき集めるのであるが、リクの場合はというと、
「うわぁー。今日も一杯埋もれているなぁ」
という感嘆の声とともに拾い上げたのは、本。絵本のような子供向けでない、使い古されてはいるがまだ辛うじて本としての役割を保っている学術書等の類である。リクはこうしてゴミの山に埋もれた本を拾い上げては読み漁ることを好んでいた。
オプスパベルでは本は大した値段で取引されない。ましてや一度こうしてゴミ置き場に出されてしまったような汚物だ。到底金にはならない。だがリクはゴミの汚れを丁寧に拭きあげて大事そうに抱えて歩く。その様子が周囲の子供や大人の目に奇異に映ることは当然のことであり、それが元で絡まれてしまうことも多々あったが、そんな時は背中の剣を抜いてしまえば解決だ。実際に斬りつけるのではない。その剣は所々が錆び、刃こぼれしていた。実用には堪えない代物であることがリク自身にもわかる程だ。でも、同年代の子らは武器を持たぬし、大人でも一瞬はたじろぎ身構える。その隙に逃げ去ってしまえば良いのだ。逃げ足には自信があった。
剣をなぜ持っているのか、それをリクは知らない。これがどういう経緯で母の手元に入り、そしてどうして自分が持っているのかを母は教えてくれないのだ。もっと不思議なことを言えば。自分には容易く、そう、幼く小さな手指しか持たぬリクが片手で扱えるほど軽いこの剣を、母は渾身の力を込めても持ち上げることができない。「こんなガラクタなんて、見るのもイヤだよ」と小言をぐちぐち言いながらも、捨てることも隠すこともできやしないまま、今もリクの手許にあり続けていた。
ゴミ置き場から今日は二冊持ち帰る。いつもは三冊くらい、最高で五冊拾ったこともあるのだが、その時は流石に前も見えないし重さでふらふらしてしまうしで大変だったので、今日は少なめにしたのだ。帰り際、「よぉリク。いつもお勉強関心だねぇ」化粧気もなく褐色のボロボロとした肌をした女が話しかけてきた。足が悪く働くことができないのに子沢山なこの人は、決して悪い人ではないことをリクは既に知っている。
「うん。おばちゃん。今日も皆頑張ってるね。……ところで今日は自警団の人たちって……」声を潜めてリクが問うと、
「んあぁ。それは安心しな。アンタが来るちょっと前に立ち去っちまったよ。しばらくは戻ってこねぇさ」頬をボリボリ掻くと一緒に垢やら何かの汚れやらが一緒くたに落ちていくのが目に見える。それが異常なこととは思わない。リクも実際、体を綺麗にする、なんていうことをした覚えが特にない。せいぜい、ラウァ。お母さんから濡れタオルで体を拭いてもらうくらいだ。いや、さすがにもう数えで八歳になるのだから、体くらいもう自分で拭ける。けど、ラウァがどうしても拭きたそうにするから、そうさせてあげているにすぎない。
「そっか。ありがとうおばちゃん!」
そう言ってリクは意気揚々とその場を去り、家への道を歩き出した。その背中を見て、女がつぶやく。
「それにしたって何であの子は勉強なんてするのかねぇ。苗字なしに生まれっちまったら、学校にも行けないし、まともな職になんざ就けやしないってのに」
リクはその本を持って、行くべき場所がある。学校などではない。苗字なしにそのような場所へ行く権利はない。そこはいかにも身分の高そうな子供達が、いかにも立派そうに、——それは多分我が家で自らの親がやっていることの真似をしているのではないか、とリクは思う時がある——胸を反らしては苗字なしの子供達を得意気に見下して鎮座する場所だ。その為に、学校は苗字なしの住む貧民街と平民の住むある程度まともな区域との境目に建てられていて、更に校門には門兵まで立っているのだ。
今から行く場所へ行くには、そこを通らなければならない。リクは、気が重く感じる、なんていうこともなくそこを通り過ぎていく。通り過ぎていくその最中、背中にチクチクとした視線と何かクスクスとした笑い声とを感じたが、それもリクは気にしなかった。何せここは学校だ。オプスパベルの学校とは、上級なり平民なり、それなりに身分を持った子供達が、そうでない子供達を見下し嘲笑するための場所だ。「アァ良かった。俺は、僕は、私は、あいつらとは違う」そんな気持ちで通うことを強いることさえする場所だということを、幼いリクも知っていた。……それは全て、母に教わったことだった。リクは母から沢山の事を教わった。ここに列挙するにはあまりにも多い諸々の事を、教わった。今からリクが行く場所は、そんな母から、決して行くなと教わった場所だ。
——迷いの森。皆がそう呼ぶ森に行く。皆、というのは苗字なしの子供だけでなく、苗字なしの大人達、いや、そればかりでなく苗字を持っている人たちでさえそう呼ぶ恐ろしい森。迷い込んだりしたら、本当に抜け出せなくなってしまう森が、ここを抜けてあともうちょっとだけ歩いた先に、広がっている。
年に何人もの大人も子供も、迷いの森に迷い込んでは行方知れずになっているような、そんな森だ。オプスパベルの連中も、流石に最初から何もせずに放置した訳ではないが、派遣した兵士一師団までもが出てくる事叶わず、ある日無残に骸だけが投げ出されたかのように入り口に打ち捨てられ放置されていた、という件があってからというもの、投げやりなロープと、『この森入るべからず』の看板を設置するだけのおざなり対応に終始している。——リクの母はリクに対してこう言っていた。「この地区に住んでいるのはどうせまともな身分でも平民。多くは苗字なしなのだから、誰からが迷い込んでも、『どうせ苗字なしだ』で終わるんだろうよ」と——苗字なしには、文字一つ読めない者も珍しくないというのに。ちなみにリクは文字を読める。母から教わったものの一つが、文字だった。母は物知りで、この国、オプスパベルの文字だけでなく、その隣近所にある国々の文字についても、教えてくれた。だからリクは、両手に抱える重たく分厚い本の文字を読むのに、さほど苦労しないのだ。
迷いの森についてまずリクがすることは周囲の確認だ。人に見られないよう、薄暗い入り口で身を屈めて静かに入り込んでいく。これはあまり苦労しない。人通りは少ない場所だ。人がいても、苗字なしの子供になんて誰も興味を持つものか。素知らぬ顔で俯いてジィッとしていれば、関わり合いになりたくもない、と人は立ち去っていく。森に入れば、——ここからが重要だ——身を屈めたままの姿勢で、こそこそと歩く三十歩の先、右手の大きな木。季節は冬が春に変わる頃。背の高い草、リクの全身が見えなくなってしまいそうなほど長い草に纏わり付かれながらも、リクは目印の常緑樹を見つめる。すると、
「やっほ。リク。今日も来てくれたんだ」静かに木々と、背の高い草を揺らす風に乗って、リクにだけ聞こえる声を響かせる者があった。「うん! 今日も来たよ。遊ぼ! ソラ」リクは両手に抱えていた本をどうにか左腕一つに抱えて、自由にした右手を木の上へと伸ばし、言った。「うん!」と答えた子供のような声の主は腰掛けていた目印の木の枝から元気よく飛び降りた。地面はいつだって日がまともに当たらないためか柔らかい。ストンと両手両足を揃えて着地したソラという名の子供はリクの右手を柔らかく掴むとニコっと微笑む。リクも、それに合わせ微笑み返すと、そのまま二人は森の奥へと消えた。
リクとソラの出会いは一昨日のことだった。母におつかいを頼まれたついでにまたゴミ置き場に行って本を拾っていたのだが、そこで自警団に見つかり追いかけられてしまった。自警団に捕まってしまえばどんな目に遭うかわかったものではない。彼らは名ばかりの集団で、オプスパベルの下層民、つまり苗字なしが住まうこの一帯の治安を守る大義名分のもとに気に入らない存在を——時には平民や子供にさえ平気で手を上げることがある——リンチする連中だ。リクは必死に自慢の逃げ足を発揮し迷いの森の入り口まで駆けた。
勿論リクは迷いの森へ入る気など毛頭無かった。そこへ入り込めばどうなるか、そこについて母から聞いた言葉を忘れたりなどしたこともなかった。だが、迷いの森へ入る道以外の全てを、一体どのように連絡を取り合っていたのだろうか。自警団に待ち伏せされてしまったのだ。どうしようかとリクが泣きそうになりながら迷いの森へ後ずさりをしていたその刹那、その手を一気に引き込んだのがソラだった。
リクは最初びっくりしてその手をふりほどこうとしたが、背の高い草地へ入り込み、不安定な足下でバランスを維持することの方が大変になってしまった為に叶わなかった。でも、よくよく見てみればその手の大きさ、力の加減、時々見える体つきが、どう考えても大人のそれではないことが、リクにもわかってくる。だから、「ね、ねぇ! ちょっと!」なんていう風に声を出してその子の足を止めようとした。リクの声に反応して今まで手を引っ張り続けてきた相手ははた、と足を止めて、息を切らしながらリクの方を振り向いた。
長い髪の毛がフワリと風にゆれて舞う。それも、今までリクが見たこともないような、美しく空気に透き通るような白く細い、高級な絹のような美しい髪だ。リクは思わず、「きれいだなぁ……かわいいや」そう口走っていて、それを聞いた相手の子が、「……え?」と驚いたような顔と声で返されてしまう。「い、いや! なんでもないよ!」リクがそんな風に顔を赤らめて首を振りながら誤魔化して二、三秒。静寂が来てから、
「危ないところだったね、リク」そんなことを、彼女は口にした。「あ、ありがとう……。あれ? ぼく、君に名前教えたっけ……?」そんな風にリクが聞くと、今度は彼女の方がどぎまぎし始め、「え、あ! あ、あの、ね」いろんな言葉を短く言って、すぐに黙る。その後に、ニコッと笑って、「ないしょ!」そんな風に言ってから、えへへ、と笑う。「え? そうなの? ないしょなの?」とリクが問いかけると、「そうよ。綺麗な女の子は内緒を持ってるものなのよ」得意気な顔をして胸を張って言う自分と年の変わらなさそうな少女をリクは見て、「そしたらさ。名前も内緒なの?」と問う。「あ……えっと、えーっと」そんな風に口を濁しながら少女は空を見上げてしばらく黙り込む。上を向いたのと同時にまた長く真っ白で細やかな髪の毛がふわりとした。そして、「ソラ! わたしの名前は、ソラ!」大きな声で答えた。迷いの森はいつだって木々もそうであるが空までもがうっそうとしている。でも、リクにはソラという名前の語感も、美しく透き通った白い髪も晴天を思わせるように感じられ、まるで彼女の周囲だけはそのうっそうとした空気が弾かれて、新鮮で澄んだ空気が漂っているように思えた。
「へぇ……。ソラ、かぁ! 良い名前だね。きれいだ」そんな気持ちでしみじみとリクが言うのを聞いたソラは、「そ、そう、かな……」と少しだけ顔を赤らめて言った。顔を赤らめる程に照れ臭く感じているのだろう。体も少しだけ横に揺れており、それに合わせて着ているこれまた真っ白のスカートもひらひら揺れる。
「そ、それよりもリク。どうしてあいつらに追われていたの?」ソラが今度はリクに問う。リクがそのいきさつを話して、最後、ソラにこの迷いの森へ引っ張り込まれた部分に話が入った瞬間、「あぁーーー!」リクは叫び声を上げる。ソラがびっくりして体を飛び上がらせてから、「え? 何? どうしたの?」と聞くと、「迷いの森に入っちゃった……ぼく、もうこの森から出られないんだ……どう、しよう……」涙を目に浮かべながらリクはソラに告げる。オプスパベルの一師団がこの森に入り込んだ際にも、出てきたのは骸だけだったことも合わせて。だが、それを聞いてもソラは顔色一つ変えず、「この森にそんな恐ろしい動物なんていないわ。それに、ここってそんなに言うほど迷うような場所でもないし」そうあっさりと答えてあっけらかんとしている。「……ふぇ?」リクの気の抜けた返事。
「わたし、ずっとリクとお話したいなって、思ってたんだ。今日はそれが叶ってとってもうれしいから、リクにこの森の中とか、色々案内してあげたかったんだけど、でもおつかいの途中なんだよね。じゃあ、出口まで連れてってあげる。……一緒に来て」優しく差し出される左手をリクは右手でつかむ。見た目通りの、小さくて柔らかい手。その手に導かれるようにして、本当に一本道。まっすぐに歩いただけで、いとも容易く迷いの森の入り口、ソラがリクの手を引っ張り込んだ場所にたどり着いてしまった。自警団も、流石に迷いの森に入り込んだ子供を待ち伏せるようなマネはしていないようで、その姿は完全になくなっていた。辺りはもう、薄暗い。その別れ際、ソラはリクの額を指先でなぞるようにして、「おまじない!」そう言って指を離す。あっけにとられて呆けているリクにソラは言葉を続ける。「このおまじないをしたら自警団、だっけ。あの人達には会わないよ。まっすぐお家に帰ってね。それと、わたしこれからも森の入り口の近くで待ってる。だから、また来て。わたし、待ってるから」そう言ってソラは足を森の中へ踏み入れる。ソラよりも、そしてリクよりも背の高い草を、手で支えて首だけ出す形でソラはリクのことを見ていた。リクの姿形が見えなくなってしまうまで、ずっとソラはそうし続けていた。
それから今日で三日目。リクは毎日ソラに会いに来ていた。二日目にはリクが持っている本に興味を示したソラが、いくつか読んでみたいとページをめくってみたが、「何これ、全然意味がわからないよ、リク。リクって頭良いんだね。こんな難しい本を読んでるなんて」という感想に終わった。もう一冊の本は図鑑で、これを読んでいると時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。
三日目、今日は森の中の泉に案内してもらった。泉に湧く水のおいしさはとんでもなくて、古臭く老朽化した井戸水とはまるっきり違う透明さと舌触りの柔らかさにリクは感動していた。その別れ際には、二人の集合場所も決めた。入り口から、リクの体よりも背の高い草を分け入り三十歩。右手にある大木に、森を案内される時に荷物になるからと置いてきた本があり、それがそのまま集合場所になった。
その次の日のことだった。四日目。リクがまた森へ向かう途中、学校を過ぎて森へ入る道に差掛かる時に、何やら闇市場の方が騒がしいのに気付いた。目をやってみると野次馬が集っているのが見えた。リクがその最後尾で地面にべたりと這って見てみると、何やら自分と同い年くらいの女の子が、自警団の何人かに絡まれている様子だった。
その女の子は、この集落には似つかわしくない美麗さがあった。髪の毛の色が藍色に染まっていて、ひらひらとした白いスカートは、高級感をどこかに感じさせ、どこか掃き溜めのようなこの世界からかけ離れた、そう。彼女はどこかの国のお姫様なのではないか、とさえ思わせてしまうほどの美しさを感じさせた。
そしてリクは思う。……あれっ! ソラだ! 髪の毛の色が純白ではなく、空とも違う美しい藍——リクは生まれてこの方見たことのないものであったが、その藍は美しく透き通る大海の色そのものであった——になっているけれど、あの子は間違いなく、ソラだ。
野次馬の大人達の声を聞いてみると、
「あの子どこかで見たことある?」「いいや。ないな」「どこのどいつだ?」「知らない」
やはり彼女がどこの誰なのかを知る人はいない様子だ。もしかしたら平民、いや。もっと上の上流階級の子供が迷い込んでしまったのかも、そんなことを思っているのかもしれない。リクはソラを助ける、ただそれだけのことを考え拳を握り締めていて、気づけば大人達の股座を潜り抜け、自警団の眼前に立ってしまっていた。
「オイオイ。何ダァ? このガキ」
自警団の男が一人、リクに向かって近寄ると舌打ちをして吐き捨てる。
「そ、そそそ、そのっ!」
震えながらリクが口を開くと、「おいおいおい! なんだよこのガキ震えてやがるぜ!」そんな風に男が笑い、それに合わせて別の者共が「こいつ何なんだよ。オイ。しょんべんチビっちまうんじゃねぇの?」「ヒッヒッヒ! 違ぇねえや。あんまり怖がらせるんじゃねぇぞお前ら? こんなにキメッキメでレディの目の前に出てきたのにしょんべんちびっちまったら、恥ずかしくってもう二度と外を出歩けなくなっちまうぜ? ガァッハッハッハッハ!」最後のリーダー格の言葉に一頻り自警団のメンバーは笑い転げる。だが幸運なことにその下品な笑い声が響く間にリクは逆に落ち着きを取り戻し、少しだけソラの方に歩み寄り、手を伸ばせば届くくらいの距離になった。後は剣を抜き、少しだけ威嚇したら逃げ出せばいい。どうせ周りの大人達は役に立ってはくれない。大人達も、自警団のことは怖いに決まっているから。だから、逃げ出して、すぐに入り組んだ小道に紛れてしまおう。いや、ソラと一緒なら、迷いの森の中が一番良い。そう思い、リクが剣を抜いた瞬間だった。リクの右手から剣が弾け飛んで行ってしまった、と思った刹那、左頬にとんでもない痛みが走った。動きを察知した眼前の男がリクの顔を殴り飛ばしたのだ。声もなく地面に倒れこんだリクを、「うっぜえんだよこのクソがっ! 所詮奴隷の分際が!」男が容赦なく足蹴にする。男はリクの首にかかっているタグ――身分証明になる薄い粗末な金属プレートだ――を引きちぎりながら罵声を浴びせ続ける。連中の顔は、誰一人の例外なく、笑っていた。
リクは「ぎゃ!」とか、「あぐっ!」とか「ゲェ」といった声にならないうめき声だけを上げ続けるばかりだ。目からは涙が溢れ出してくる。ソラはそんなリクを見ては「きゃぁっ!」と叫んでしばらくは見ていられない、といった様子で顔を背けていたが、ぐっ、と手に力を込めると、リーダー格らしく、暴力に参加せず後ろで薄ら笑っている男の前に毅然と立ち、「もうやめてっ! この子このままじゃ死んじゃう!」そう叫んだ。自分と知り合いであることを悟らせたくなくてリクの名前を呼ぶことはしない。だが、知り合いであるか否かに最早関係などなく、その願いがリーダー格には勿論この連中に通じることもない。さっきまでリクを踏みつけていた男が後ろから彼女の髪を強引に引っ張り、叫ぶ。「おぉそうだったなぁ! てめぇタグが付いてねぇじゃねぇか! アァ?」痛みにソラは顔をしかめる。すると今度は目の前でニヤついていたリーダー格の男がソラの髪を引っ張っている若い男をたしなめるような声で言った。「おいおいおい。まぁそんなカッカすんなや。相手はレディだぜ」その言葉とは裏腹に、顔には下品かつ下卑た嘲笑い。両腕はソラの下腹部に当てがわれていた。「こんなひらひらしたおべべ着てるような女だ。まぁ今はともかく、何年かしたら上玉になるかもしんねぇだろ!」その手を頬へ一気に移し掴む。ソラの顔が、歪む。「やめ……やめ、てよ……!」それだけを必死に口にした少女の髪の色が、濃い緋色に変わった。この騒ぎを見ていながら何もできないでいる野次馬達が最初にどよめきだし、そして、「お、……おい! 何だテメェ! 気色の悪いガキがァッ!」リーダー格の男は腰のサーベルを引き抜き斬りかからんとする。少女の、髪と一緒に変色した緋色の瞳から涙が零れたその時でさえもリクはパニックに陥っており、何も考えられないまま、「ああーー! あーーーー!」という声だけしか出てこず、泣き叫んでしまっていた。その声を受け、リーダー格の男の手が止まり、「うっせぇんだよクソガキィッ! テメェからぶった斬んぞこの野郎!」と怒鳴り散らす。その時だった。
「すみませーん」
それは一体どこから現れたのか、野次馬たちもこの観衆の中、一体どのようにしてこの声の主が近づいたのか察知できないほど気配なく現れていた。声色も緊張感の欠片もない、突拍子もない発声だった。声の主は、恐らく若い女性。布で目以外のパーツを隠していて、後頭部の隙間からポニーテールの黄色の髪を出していた。
リーダー格の男が手を止めて振り返りざま叫ぶ。「てめぇ今取り込み中だってことくらいわかんねぇのか? おい、おめぇらこいつの相手してやれ!」しかし女性は続ける。「どなたがお相手してくださるので?」女性は笑顔で、と言いつつも目元しか見えないので目が笑っている、としか判断はできないが、そんな笑顔でリーダー格の男に問う。リーダー格に返事を返す者はなく、沈黙が支配する。皆が皆、伸びているのだ。粗末な石畳の上、男の仲間たちは突っ伏している。この一瞬の内に、何が起きたというのか。男には判断ができなかった。自身の理解の範疇を超えた現実に、頭が真っ白になる。「いえね。私っておっちょこちょいなものでして、手と足が同時に滑っちゃいまして……皆さん親切に私を受け止めてくださったのですが、ちょっと打ち所が悪かったのでしょうね」女性がそう言うとクリーム色の髪をした男の子が立ち上がるのを少しだけ手助けし、「早く一緒にお逃げなさい。あちらの緑のテント裏で、待っていてください」そう呟いて背中を押した。
リクは訳のわからないまま、とにかくソラの手を取り一目散に駆けた。なんでぼくは動けるんだろう? どうしてぼくは今どこも痛くないんだろう。あんなに蹴られて踏まれて痛かったのに。血も、止まっているんだ。さっき、あの女の人に触られてから、急に体の痛みが嘘みたいになくなって、血も止まってしまった。リクもリクでそんな思考に混乱していたが、どうにか彼女の言う通り、ソラの手を引き一緒に緑のテントの裏側に到達することができた。とにもかくにも、逃げ切れた。これでもう大丈夫だ。そう思うと、
「ふあぁぁぁぁぁ」体から急激に力が抜け落ちてしまって、その場にへたり込んでしまった。それを見たソラが「大丈夫?」と聞くのと、「お二人とも、大丈夫ですか?」先刻助けてくれた女性がリクの手から弾け飛んだ剣を持って追いついてきたのが同時で、リクはびっくりしてしまって、「うひゃぁ!」と体を跳ね上げるようにして立ち上がった。「怖い目にあいましたね……」黄色の髪の毛の女の人はリクとソラの体についた汚れを真新しい布で拭き取ると、二人共を抱きしめて、頭を優しくなでた。少し急なことでほんの少しだけ驚いてしまった様子を見せたが、「う……うぇえぇぇぇぇ」「うあぁぁぁぁ」安堵感からか、二人揃って泣き声を上げてしまった。
しばらく時間が経ち、落ち着いてからソラは女性とリクに事情を話し始める。彼女はどうやら家を離れて一人で旅をしていた中で迷いの森——もっとも、ソラからすれば全くもって迷う要素のない森であったそうだが——を見つけ外敵のない環境を気に入ってしばらく留まっていたのだがその中でリクと出会い仲良くなり、今日はリクを待つ間に少しだけ国の中を探索してみようとしたところ迷子になってしまったという。
「えぇっ! ソラは迷いの森では全然迷わないのに国の中で迷子になっちゃったの?」
責めるというよりは、本当に単純な驚きの気持ちでリクはソラに言う。
「うーん……。わたしってまだこういう国の風景に慣れてないのかも。どこもかしこも人だらけで、同じような景色に見えちゃうから」
ソラはリトの疑問にそう答えた。
「ソラって面白いね」リクの率直な言葉を受けて、ソラはどきりとした。面白い、という言葉の裏に、『ソラって変だ』という意味が含まれていないか、不安に感じたからだ。だが、ソラが抱いた不安を気にせずリクは続ける。「だってソラは皆が迷う森で全然迷わないけれど、ぼく達が当たり前に暮らしている町で迷っちゃう。草や花や湖のことは本当に何でも知っていたのに、国のことは自分が暮らしていた故郷についても全然知らないんだもん。まるでぼく達とは違う世界からやって来たみたいだ。……もしかして、本当にそうなのかな! ねぇ、ソラはどうして髪や目の色が変わるの?」饒舌にまくし立てられた直後の質問にソラは面食らった様子で、「え……えっと、実は自分でもよくわかんないんだ。気持ちで変わるみたいなのはわかるんだけど……」と曖昧な笑みを浮かべて答えただけでまた沈黙する。「へぇ〜。スゴイや! それにその白いスカートも、お姫様みたい。ソラはお姫様なの? ねぇ! ソラって一体どこから来たの?」無邪気に、そして笑顔で再びリクがまくし立てて尋ねると、「ち、ちがうよ。わたし、そんなすごい子じゃ、ないわ」ぶんぶん、と首を振ってソラは強く否定した。ソラの髪と瞳が、透き通った白に戻る。「あ、戻った!」とリクが少しだけ興奮して言う。更に「やっぱりソラはその白い髪の毛の時が一番かわいいよ! でもどうして変わるんだろう? 不思議だなぁ。本当。ソラってどこから来たの?」
感情や感想と質問とを矢継ぎ早にポンポンと口にするリクに対し困った顔をしてソラは俯いてしまう。その様子を見た女性がリクに対して言った。
「ちょっとは私のことも褒めてくださいよー。私も女の人なんですよー?」そう言いながら女性の方も顔に巻きつけた布を外す。見た目は自警団の連中をあっという間に伸してしまった強さとはかけ離れた若い女性で、その瞳は髪の毛と同じ黄色に輝いている。少なくともこの近隣に住んでいるような人ではないんだろうな、ということをリクは感覚で捉えることができた。この地域、というか国の人々のほとんどは褐色の肌をしていて——リクの母親であるラウァはその典型的な例だ——髪は黒か茶、瞳は黒や灰色、茶色の三色でほぼ十割になる。その一方でリクは髪がクリーム色、瞳は青緑色で肌は白色というどこからどう見てもオプスパベル人の外見ではなかったのだが、それについてはラウァから『気にする必要などない。あなたは私のお腹の中から産まれた我が子なのだから』と繰り返し聞いていたものだからいつ頃からかリク自身気にしなくなっていた。
「あ、あの、お姉さん。さっきはありがとう」そう口にすると、「どういたしまして」とだけ、短く帰ってくる。
「あ、あの」「あの!」リクとソラが同時に口を開く、女性はニコッと微笑み、「はい。何ですか?」と尋ねて、そして、「あ、私の名前ですよね。遅くなりました。マーナ、と申します」尋ねられる前に答えてしまった。
「うん。……マーナさん、ありがとう助けてくれて」「マーナさん、わたし達を助けてくれてありがとう」二人から改めて感謝を受けて、マーナは満面の笑みを浮かべて。二人をまた抱きしめる。そして、「お家までお送りしましょう」というマーナの言葉にリクは従うことにした。ソラは、「あ、あの、わたし、一人で旅をしているから……家、ないの」と俯き加減に口にした。
「あ、そっか。ソラって一人旅しているんだよね。すごいや! 確か迷いの森の中で野宿しているんだったよね?」リクは無邪気に感嘆の声を出し尋ねる。「え。……うん……」自信なさげにソラはぽつりぽつりと言う。マーナはそれを微笑んで聞きながら、先ほどから繰り返されるあまりにも見え見えな嘘を感じていた。リクもそうだがこの子も国の外には出たことがないのだろう。国の法が及ばない場所では殺し殺されの関係が当たり前であり、またこの国には先ほどの自警団がいる。今後夜警や日中の活動を強化することは間違いなく、そして二人揃って顔も割れている以上、野宿は勿論今後の生活でもどの様にすべきか……マーナは頭が痛んだ。警察などに保護を頼むのも話にならない選択だ。自警団を見ても分かる通り、オプスパベル国の警察はあてにならない。法外な賄賂を露骨に要求され、挙句まともな保護も受けられることなく放り出され、そして自警団に……というのが関の山。そもそも警察と自警団は裏で繋がっているのが丸わかりだ。さて、どうするか。柔和な笑みの裏でマーナが考えていると、
「それじゃあさ、ぼくのお家においでよ! マーナさんも。お母さんに言えばきっと何日間かは泊めてくれるんじゃないかな!」
そんなことをリクが満面の笑みを浮かべて言ってきた。マーナからすれば、これは願ったり叶ったりだ、と思い、「良いですね! 私は大人なので遠慮しますが、ソラちゃんはそれが良いですよ」とソラに勧めた。ソラは遠慮していたものの、リクもそうだがそれ以上にマーナが強く勧めてくるものだから、「うん……わかった」とソラが折れる形になり、こうして三人は手を繋ぎ家路につくのであった。
露店が立ち並んでいた場所からリクの住む上級奴隷階級の住宅地を歩いている最中、話題はマーナがどうやって自警団の連中を倒したのかという点についてだった。それほど大したことはしていませんよ。と濁すように応えるマーナだったが、そういえば彼らが、タグを持ちながら、覚えてろ! 後で火を放ってやる! なんていう捨て台詞を吐いていたことを思い出す。つくづく、救いようのない連中だと思ったその時に、あと角を一つ曲がればリクの家、という地点まで辿り着いた。その瞬間だった。
——ピリリリリリリ。ピリリリリリリ——マーナの腰辺りの小さなポケットから、機械の音が鳴る。突然響いた音に、マーナ本人も、リクも、ソラも、そして集落の方々に座り込んでいる連中までもが皆一様に驚き、そしてマーナは苦笑を浮かべながら、「すぐ戻りますので、待っていてください」と二人に告げて先ほど曲がった交叉路付近まで戻り、その機械を耳に当てる。
「あれ……何だろう?」とソラが不思議そうに見つめていると、
「あれは本で見たことがあるよ。多分無線通信機だ。本物はぼくもはじめて見るよ」リクが少しだけ嬉しそうに、興奮した感じで答えた。「今日ははじめてのことばっかりだ」そんな風にも漏らした。
駆け足で戻ってきたマーナは、少しだけしょぼんとした顔をしていて、
「私は自分の国に戻らないと行けなくなりました……」とだけ二人に告げた。
「えー!」リクだけでなくソラもそう言って嫌がり、残念がったのだが、「お仕事で戻ってこいーって言われちゃいました。リクくん。お家はもう目の前だよね?」かがんで目の高さをリクと揃えたマーナが聞くと、リクはうん! と強く頷く。「しっかりソラちゃんを守ってあげてくださいね」そうマーナが言うと、元来た道を戻り出す。リクとソラはマーナの姿が見えなくなるまで、「バイバーイ!」「バイバーイ!」と大きく手を振り続けた。そして姿が見えなくなると、二人は手を繋いでリクの家へと入って行った。
家に入る二人の姿を確認したマーナは、まだ通信が切れていない無線通信機を耳に当てると、「では、後を頼みます」と呟き、その姿を消してしまった。
「ただいまー!」「おじゃましまーす……」元気な声と遠慮した声が一緒に響き、狭い室内に薄く広がって、消えた。帰って来る声が、ない。
「あれれー? お母さーん? いないや……」リクが炊事場で焦げたイモの煮込み料理を見つけて呟いてすぐ、「まぁ良いや。ソラ、こっちでゆっくりしていてよ」そうソラに語りかけた。ここに来てもソラは遠慮がちに「大丈夫なの? わたしが入っちゃっても」と訊ねるくらい不安視していたが、リクが大丈夫だよ、と何にも心配していない様子で返すので、きっと大丈夫だと思うことにして、ソラは家の中へと入り、ボロボロでそこで立つのが精一杯、という感じのテーブルの側に腰を下ろすのだった。
何か嫌な予感がする。ラウァは自分の得意料理を作っている最中に頭を掠め続ける嫌な感情に頭が呆けてしまったのだろう。まさかここまで見事に焦がしてしまうとは。……おかげで、水も食料も準備のし直しになってしまって家まで留守にしてしまうことになってしまった。急がねばならない。そう感じた時に、背筋に冷たいものが走ったのを感じた。「……いや、いいや! まさか……。そんなはずは、ない……」ぼこぼこに凹んだ鍋とバケツを持つ手が震えるのは、その重さゆえではない。ラウァにはこの感覚に覚えがあった。だが、だがもう不可能なはずなのだ。いかにあのお方だったとして、もう下手に手出しはできぬ。そう思いながら、不安に駆られたラウァは必死に走り帰宅した。
そこで目にしたのは、服がボロボロに汚れきっているリクと、透き通るような純白の髪を持った少女が家の中でくつろぐ姿。まさか。ラウァは強い焦りの感情に囚われた。
「はぁ! あああぁぁぁ!」突如そんな風に叫び出したかと思うと、ソラの体を強引に引き上げて、「今すぐに帰りなさい!」玄関口まで強引に引っ張る。ソラもそうなのだが、リクは今までに見たこともないような母の姿に強い混乱を覚え、「待ってよ! ソラにひどいことしないで!」そう食い下がるのが精一杯だった。
「いいえ! ダメよ! 貴女はダメ! 二度とここに近寄らないでちょうだい!」ラウァは怒鳴るようにしながらソラが何か言うのも聞かずにその背中を強く押し退けて家から追い出してしまった。「…………」ソラは何か、口をぱくぱくさせていたが、諦めた様子で俯くと、髪を藍色に変色させながら、とぼとぼと歩き去って行った。「あぁ! 待って! 待ってよソラ! ソラ!」そんなリクの叫びを無視したまま最後は走って行ってしまった。「ひどい! ひどいよお母さん! どうしてソラにあんなひどいことを!」リクは母を当然のように詰る。息子の目から見ても、今の母の行動は正当性がない。あまりに一方的で、間違っていると思った。しかし、ラウァはといえば、そんな息子の言葉に耳を貸すこともせず、両の手をわなわなと震わせては、「いいえ! いいえ、リク。あの子は、あの子だけは、二度と関わっちゃダメ。あの髪を見たでしょう。あんな悪魔の子と一緒にいるなんて、想像するだけで! 早く、わす……」おそらく母は忘れてしまいなさい、と言おうとしたんだろうことが、リクにもわかった。意図はともかく、言葉の上だけは。でも、納得なんかできない。リクは生まれて初めて、母の言う言葉を遮り怒鳴った。「ソラは悪魔の子なんかじゃない! あんなにきれいで、かわいい女の子が、悪魔なんかであるもんか!」昔、こうして怒鳴るようにしてわがままを言ったら、その時は頬を叩かれてとても痛い思いをした。今日自警団にやられたみたく体が吹き飛んだりはしなかったけれど、それでもとても痛かった。でも、それでも構わないと思った。それ以上に、ソラに二度と会えなくなることの方が怖かった。
「…………」ラウァは急に黙り込むと手を頭へ持っていく。そのまま頭を抱えたかと思うと、何かに取り憑かれたかのように家の片付けを始める。「何をしているの? お母さん」唐突に繰り広げられる母の行動が理解できず、リクは母に尋ねる。さっきは叩かれるのも構わないと思ったはずなのに、そんな行動を起こされてしまうと、急にリクは不安になった。ラウァは片付けを続ける。掃除の類ではない。これはまるで、そう。引越し。
「いいかいリク。もう時間がないわ。今日の夜にはもうここを出て、また新しい家を見つけましょう。ここにはもう住めないわ」何かに怯えるような声を出してラウァはリクを抱き寄せる。ラウァに自覚があるかはわからないが、その手にものすごい力がこもっていて、リクは息苦しさを覚えた。先ほどマーナから受けた抱擁とはまるで違う。こっちが本当のぼくのお母さんだというのに。おかしいな。……そんな風にリクは思わずにいられなかった。
生活の最低限の荷物をまとめることに、さほど時間はかからなかった。ラウァは風呂敷を一つ。リクは、そこら中に穴の空いたのをラウァに縫ってもらったリュックを一つ、背負っていた。今日見つけた分も含めて本たちは、「また新しい家を見つけたら、また拾い直せばいいわ」という母の言葉に従い、きれいにまとめて家に置きっぱなしにした。
太陽はすでに沈み、周辺に街灯もないこの地域は、もう何も見えない程真っ暗で、リクは思わず母の着るボロ布を握りしめていた。
「大丈夫よ、リク。あなたは、お母さんが、守るから」ラウァはそう言って、灯りも持たずに歩き始める。握る手が、震えている。何かに怯えるようにして行動する母のことが心配で、そしてきっと二度と会うこともできないかもしれないソラのことを思うと悲しくて、リクはメソメソと泣いていた。集落を東に抜けて、学校を通り抜けて下級奴隷の住まうダウンタウン地区に入る直前。南に進路を変えるラウァに、「ねぇ。お母さん。どこに行くの? そっちは、迷いの森だよ。ぼく、そっちに行くの怖いよ」そうリクは涙声のまま言った。
「大丈夫。大丈夫よ。リク。何があっても……――!」
声にならない声をあげた母に驚いたリクが何事かと声を出そうとした時だった。
『汝、己が役目を放棄するか?』
威圧感と怒気をこれでもか、というくらいに含んだ、厳かな声が辺りに響いた。同時に、強い風。風圧でリクよりも背の高い草が完全に横倒しになり起き上がることもなくなってしまう程の強風。リクを抱き込んだままリクごと風圧に飛ばされたラウァは泣き崩れるようにしてから、「あぁ……ああぁ……」そんな呼吸とも声ともつかぬ音を漏らして地べたにへたり込んだ。「よもや……あなた様がお越しになるとは……」母の声には、絶望感が感じられ、それを見てリクはまた一気に不安になる。「ねぇ! お母さん! あなたさまって、だれなの!」大声で泣きながらぶつける質問に対し、母からの答えはなかった。「…………」ただ、沈黙で返すのみの、無力な姿。リクは、痺れを切らし、
「おい! 姿を見せろ! お前なんてこ、怖くなんか……」叫んだがその口をラウァに塞がれる。「いけない! いけませんリク! あぁ……。お許しください……。どうして、あなた様が……」口を抑えられ、暴れもがくリクが呻くが、その刹那。空中に浮かぶ外套を身にまとった姿が目に映った。
「…………」「あぁ…………」リクも、ラウァも言葉が出なかった。
暗くてよく見えない中でどうにかして情報を得ようとリクはその存在を見据える。背丈は自警団の連中の誰よりも低い。ただ、自警団に対してあまり大げさに怯えたりしない母がこんなにも怯えるほどの相手。母は、この人を知っているんだと気づくが、きっと聞いても答えてはくれないだろう。常に怯えたような目をしては、目を背けているのだ。一体この男は、何者なんだろう。沈黙の中でまた、男が口を開く。
『再度問う。汝、己が役目を忘れ、その責を放棄するか?』
低く落ち着いた声なのに、辺りが静かすぎて、怖いくらいに耳に響いて痺れてくる。己が役目? 母に何の役目があるのだろう。一体この人は、何にこんなに怒っているんだろう。リクは母の手を払いのけて、男に問う。
「やくめって、何ですか」また母から口を押さえつけられる。だが、質問は通じた。
『哀れな子だ』それが、答えだった。リクには、意味がわからなかった。否、言っている言葉の意味はわかる。哀れ、とは可哀想、ということだ。だからぼくは今、この男に可哀想な子だと言われ、可哀想に思われているのだ。でも、何が? その部分が全く理解できない。
「ぼくは、別に奴隷でも可哀想なんかじゃないよ!」体を震わせ、母の両腕を解いて脱出し、男の前に立ちはだかる。「ダメ! リク! その方に近づいてはいけない!」ラウァが必死に声を出すが、それに耳を貸すことはできなかった。今、母を守れるのはぼくしかいない。その気持ちが、リクを支えていた。
「お母さんに、あやまれ」リクは、外套を身にまとい顔も見せない男に対してハッキリと伝えた。ぼくのお母さんを、ばかにするな。と。
『…………』男の嘆息の音が漏れ聞こえる。そして、言葉が続く。『それが、汝の答えか。ラウァ』あくまでもリクではなく、ラウァに対して男は問う。
「…………」そしてあくまでもラウァは答えない。
『そうか。それならば、……仕方あるまい』男は、一歩、また一歩と歩みを進める。リクを避け、どんどんとラウァへの間合いを詰めていく。このままでは危ない! そう思ったリクは背中から剣をとっさに抜いてしまった。
『ほぅ……我とやり合う気か? 小さき者よ』男は鼻で笑うような、バカにしたような笑みを音に漏らしてくる。リクは、剣を握る両手に力を込める。が、
「ダメです! リク! なりません! その方に刃を向けてはなりませぬ!」必死の形相でラウァがリクを引き止める。
「でも、それじゃお母さんが!」そうリクが叫んだ時だった。
「スプレッドアクア――!」
強烈な勢いの水柱が外套の男へ向かって森の中から吹き付けた。
「あぷぁ?!」外套の男はとんでもなく素っ頓狂な声を上げるともんどり打って転がり迷いの森入り口とは反対方向の大樹へ体をしたたかに打ち付けた。
「リク!」そう名前を呼ぶ声に、リクは聞き覚えがあった。色は真夜中の暗がりでもハッキリと見える。透き通るような純白の長い髪。宝石みたいに輝く瞳。「ソラ! ソラだ! きてくれたんだね!」リクは今までの様子が嘘みたいに明るい声でソラとの再会を喜んだ。ラウァは、俯いている。口が小さく動いていて、「あぁ、なんということを……なんということをしてしまったのだ……」と喋っていた。
「びっくりしたぁ! 一体誰の術法? うわぁー。何これビッショ濡れじゃーん。せっかくのお気になのに! あーも! あーも!」
外套の男は慌てて外套を脱いで辺りを見回し、自分が先ほどぶつかった大樹の枝に、その外套を引っ掛ける。「も!」という声を聞いていると、あまりにも先ほどまでと雰囲気が違う。……というよりも、別人だ。威厳の欠片もなく、むしろリクやソラに近い年齢の、子供のような声をしている。リクもソラもそのことに呆気にとられていると、ふとその男と目が合う。その男、いやその生物は人間とはあまりにもかけ離れた姿をしている。目がまん丸で、頭の上から二つの耳が長く伸びていて、背中には天使のような羽が生えている。胸部から股の所だけは真っ白で、それ以外は山吹色に染まった見事な体毛が全身を覆っている。長く太い尻尾は先端に向けて細くなっていき、その端っこがぴこん、ぴこん、と揺れていて、「あ、龍だね。かわいいね」「うん。かわいいね。……あ、龍なんだ!」ソラとリクの二人は口を揃えて呟いていた。
「かわいい?」その龍と呼ばれた生物が言うと、「うん」「うん」リクとソラが返事をする。
「あー。あー。あー。」何度か外套の喉のあたりを押しながら声を出してみて、「ぎゃー! さっきのでボイスチェンジャー壊れてるじゃんかぁー! あれ予備ないのに! あーも!」唐突に叫び出す。二人は飛び上がるように驚いたが、「ない方がかわいいよ?」「うん。絶対ない方が良いと思う」子供二人からの意見に、「でもせっかくカッコよく決めてたのに……」と残念そうな顔と声で龍は返事をする。「ねぇ、名前は何ていうの?」リクが尋ねると、「ローマって言うの」あっさりとローマは答えた。
「ねぇローマ。どうしてお母さんにいじわるをするの?」とリクが尋ねる。
「お母さんじゃないよ」ローマの答えはあっさりとしたもので、かつ衝撃的なものだった。
「……え?」
「ねーそうでしょ? ちゃんと教えてあげなよ、この子にさ。そこまでが貴女の仕事ですって、聖上も仰ってたよ」
ローマがリク達の後ろ、迷いの森入り口で未だへたり込んでいる女に語りかけると、
「……お恨み申し上げます、ローマ様……」力なく、呟いた。
「お母さんは、ローマのことを知っているの?」リクが聞くと、「…………」ラウァは答えない。「お母さんは、……お母さんは、ぼくのお母さんだよね! そうでしょ? そうだよね! そうだって言ってよ! ねぇ!」リクはたまらず母に取り付きその体を揺する。
「…………」それでも、ラウァは何も答えなかった。
「哀れな子だよ」代わりに口を開いたのは、ローマだった。「だから何が!」リクは叫ぶ。今度はローマが答えを呟いた。
「お前は自分が何者であるかさえ知らない」
「え? ……どういう、こと?」リクはローマを見つめ、呟くように返したが、
「…………」
勿論ラウァが返事をするはずがない。代わりに、
「お前は、自分の真名すら知らない」そうローマに答えられた。
「ま……マ、ナ?」リクはすっかりと混乱した頭で耳に入ってきた言葉をただ繰り返した。
「本当の名前ってこと」ソラが、ぼそり、とリクに告げ口する。それを聞いてリクは、
本当の名前。ぼくは、ぼくの本当の名前すら、知らない? その感覚に混乱が深まる。頭の中が真っ暗にも、真っ白にもなる。その眩さと冥さの繰り返しに、頭を抱えてうずくまってしまう。
「そうそう。親子って似るもんなんだよ。もちろん確実にって訳でもないし似ない可能性はゼロじゃない。でもありえないね。だってラウァが結婚した相手も肌は褐色だったもの。そして子供もいたんだよ。もちろん肌は褐色。髪の毛の色も瞳の色もラウァそっくりだったんだって? 茶色がかった黒。写真で見たよ。でも確か病気で死んだんだよね。……あぁ確かその子、八歳だった、よね?」
一息にすらすら述べられる聞いたこともない話に、リクは混乱する。ラウァは俯いていて表情がわからないけれど、体が震えている。
「お前をこの任に就かせたことは失敗だった。それが答えなんだろうね」ローマはそう言うと向き直り、また間合いを狭めてくる。
「待って、待ってよ。どうしてローマはそんなことを、知っているの!」
「……。知っているも何も、ラウァはボクが住んでる国の人間なんだよ。ドラグニクル国から、リク。君を保護するために聖上が紛れ込ませたスパイなんだ」
「違う! 違います! 嘘よ。嘘! この者の言うことを信じちゃダメよリク! 私がお前の母なのです! 誰が何と言おうと! リクの母はこの私だけです!」
ラウァは渾身の力を込めてリクを抱きしめた。
「…………」ため息、一つ。「八歳になっちゃったしね。そりゃ見た目が違っても、重ねちゃうよね。……でも、ダメなものは、ダメだよ。ラウァ。だってこれは、仕事なんだもん」
ローマは歩みを進める。
「ローマ様、どうか……どうか今回だけは、見逃してはもらえませんか……」ラウァは跪き、嘆願する。「この、通りでございます」
「……子供の前で、親がそういうことをするべきじゃないよ」ローマは歩みを止めない。リクは、自分の目の前で土下座をする母の姿を見て、混乱を深めてしまう。「どうして……どうしてあなた様は私にこんなに辛い思いをさせようとなさるのですか……」ラウァの声は震え、体が嗚咽に震えているのが暗闇の中でもわかる。「別にお前だけが辛いわけじゃないよ。お前一人の願いだけ叶えるわけにもいかないんだ。わかるだろう」ローマは、ついに跪き震える小さな存在、ラウァの眼前に迫り、見下ろしながら問う。「自分の仕事を忘れたわけじゃ、ないはずだよ。ラウァ。……わかるよね?」声には、優しさが含まれていることが、幼いリクやソラにも伝わったが、
「……忘れ申した」
ラウァは、小さく呻くように、答えた。
「ごめん。聞こえなかった。もう一度」明らかに気分を害した声で、ローマが言う。これは警告だ。それが伝わる声色で、ローマは問うた。ラウァは、答えた。「私の仕事は、この子を育てること、ただそれだけ! それ以外のことなど、とうの昔に忘れました!」その強い発言の刹那、アハッ! という笑い声が響いた。ローマのものだ。ラウァの言葉がたまらなかったのだろう。笑いをこらえながら言葉を紡ぐ。「ラウァが冗談言うって、珍しいね。明日降るのは槍じゃ済まないよ。ハハ」ローマはあくまでも譲歩としてこの発言を提示している。その意志がラウァに通じないはずはないと踏んでのことだ。だがしかし、「……。冗談などでは、ありませぬ!」と彼女は返すのだ。
「…………あ、そう」笑うのをやめたローマが静かに俯いて、目を閉じ、数歩後ろに下がる。「ボクが聖上から賜った任務は二つ。一つはリクをドラグニクル国へ怪我なく連れてくること。二つは、そこにソラという名前の女の子がいたらその子も一緒に怪我なく連れてくること。それだけなんだ。その意味、もちろんわかるよね?」
「私を、殺しますか」ラウァが覚悟を決めたような顔をして問うのを聞いて、「そんなの! そんなのダメだ!」リクが剣を抜き構える。母をかばうようにして、立つ。ソラも、そんなリクの横に立ち、構えを取った。
「……ソラは別にボクと一緒に行っても困らないと思ったんだけどね。まぁ、別に良いよ。遊んであげるよ。でもボクもお仕事だからね。怪我がない程度で、頼むよ」ローマは、構えるどころかその場に座り込む。「どうぞ。暇つぶしにも、どうせならないけど。気がすむまでやれば良いんじゃない?」挑発するように、やれやれと肩をすくめて見せた。
「うああぁぁぁぁぁー!」渾身の力を込めて、剣の重みに任せて振った剣の一撃は、ローマの体を通らない。それどころか、「歯こぼれしてんじゃん。それに何さ今の剣の振り方。ラウァ。お前やっぱり何も教えなかったんだね?」リクよりも、ラウァに対する文句を言いながらローマは呆れた声を出す。「スプレッドアクア!」ソラが手のひらをローマへ向けて構え、水柱を放出する。水の術法、その中でも基本的な術法にあたる。「あらよっと」今度は難なく避けられてしまう。その時だった、からん、という乾いた音がする。リクが拾い上げて、「これ……ぼくのタグ……?」と声を出すと、「……あぁ、そうだね。それキミのだった。けどもういらないよね。こんなモノ」そう言うと尻尾を器用に使いリクの手から跳ね上げて、パン。ローマの手のひらにすっぽり収まるサイズの拳銃で金属片をバラバラにしてしまった。
「あぁ……っ。なんてことをするのさ! これがないと、これがないとぼくらは自警団に……」リクが慌てて欠片を拾い始めると、「だから、必要ないんだよ。もう自警団いないし」
「……え?」リクとソラが口にすると、「だって、もうなくなっちゃったよ。自警団」事もなげにローマは言う。「…………」二人は、その意を汲みきれない。「あぁ……何てことを……」ラウァが小声で呟くのをローマは意に介さず、続ける。「何をするつもりかは知らないんだけど、自警をするのにあんなに大量の油と火はいらないよ。まだ日は高かったしね。ずいぶん気合入ってたからさ、ボク聞いたの。何してるのって。そしたらさ、『ムカつくガキがいたから家ごと丸焼きにするんだ』って言っててさ。誰の家を燃やすのか聞いたらさ、さっきのタグ見せてもらったんだよ。……ボクのお仕事、覚えてる?」
ローマから尋ねられたリクは、訝しむ気持ちのまま答えた。「ぼくとソラを、無傷で連れていく」と。ローマはニコ、と笑って。
「大正解。邪魔だからさ。組織ごと壊滅させたんだよ。ドッカーンってね。いやぁ。壮観だった。もっと言うと、現場付近の奴隷の人たちの喜びようが見てて面白かったかな」
まるで森で花を摘みに行ってました、くらいのレベルで語るこの龍の存在に、リクも、ソラも戦意をまるで失ってしまった。自分たちが怖くて震えてしまうような組織を、たった一人で壊滅させてしまうような相手だ。これ以上の抵抗が、有効な訳がないし、そして逃げるのも、無理なのだろう。
「うん。わかってもらえたようで嬉しいよ。じゃあリク。剣を鞘に収めて、ボクにちょうだい? あ、お城に着いたら返してあげるからそれは安心してね」あくまでも笑顔は崩さず、ローマはリクに言う。リクは、それに従い剣を鞘に、収めた。そしてローマに手渡そうとした時だった。「あ、ごめんリクちょっとタンマ」――パン。
乾いた音を響かせ、もう一発、ローマは発砲した。それは、ラウァに命中していた。
「……! お、お母さん! お母さん!」剣は既にローマにひったくられるようにして取られている。リクはラウァに駆け寄るが、ラウァは怒りの眼差しをローマに向けるばかりで、痛みを感じている様子はなかった。「銃を扱わせれば三国一って感じのボクを相手にまさか拳銃向けるとはね。ボクは夜目が利くから何ともなく拳銃狙えたけど、随分だね。どこで手に入れたのさ……ていうか、闇市しかないけどさ。自分がしてることわかってる? ソラを狙うなんて、悪趣味にも限度ってものがあるよ」
「えっ?」唐突に名前が出たソラが素っ頓狂に驚いた声を上げる。タイミングもそうだし、特に身に覚えもないというのに家を追い出されしかも今度は狙われる。そのことに多少憤慨気味にラウァを見つめるが、ラウァがそれを気にとめることはなかった。
「……何故自警団を殺したのです」責めるような目つきでローマに問うラウァだったが、この質問は些か疑問だとリクはもちろんソラも思った。自警団を殺したいと思う連中なんて、いくらでもいる。この国の身分階級の下二つ、低級奴隷と上級奴隷。所謂『苗字なし』は、自警団さえいなければ、という感情を毎日のように抱いていた。それを壊滅させたことを喜ぶのではなく、責めるなんて。そう思うからだ。
「ボクの仕事はリクとソラを連れて行くことだけ。どうしてそれ以外を気にする必要があるのさ?」薄ら笑いを浮かべながら答えるローマをギッ、と睨みつけ、ラウァは続ける。
「あれだけ一方的に組織を壊滅させれば、相手が誰かがすぐにわかることでしょう。その結果、この国は、そしてドラグニクルはどうなりますか!」はっきりと、明確にローマを咎める口調は今までの姿勢が嘘みたいに毅然としていた。「……あぁ。ようやくわかった」ローマが言うと、「そんなにのんびりと構えられるようなことですか! あなた方はどのような道を歩もうとしておられるのか、わかっておいでか!」ラウァは声を荒げる。リクは、今まで見たことのない母の苛立ちぶりにオロオロとしてしまう気持ちを、どうにか抑え込んで、「どういうことなの?」とだけ尋ねるのが精一杯だった。
「あなた様は、いえ。ドラグニクル国はまだ幼い子供をも、戦争の駒にしようと企んでおられる!」精一杯の怒声を吐きつけるラウァに対しても、ローマは冷静だった。だが、
「ねぇそれさ。……聖上の目の前で、面と向かって言える?」
冷徹な怒りが、明らかに見て取れた。
つまりはそういうことだよ。ローマは言った。そして、おもむろに立ち上がると、ラウァの首筋に自分の手を当てがい、どん、と衝撃を与えた。その瞬間にラウァはビクン、と体を震わせたかと思うと、前のめりに草地へと倒れこんだ。あまりのことに言葉がでないリクとソラを尻目にしながらローマはラウァの体をそのまま担ぎ上げて、リクから回収した剣を肩掛けのカバンにしまい、そしてソラにびしょ濡れにされた外套を拾い上げて、「あー、やっぱ夜だしそりゃ乾かないよね……」腕に引っ掛ける。「大丈夫だよ。気絶してるだけ。城に着く頃には起きるから。二人は歩けるよね。……ついてきて」ローマがのっしのっしと歩いていくその後ろを、二人は大人しくついて行く。ここは迷いの森。下手に暴れてローマやソラと離れ迷子になってしまえば、もうそれだけで命はない。そもそもリクには今や剣もない。ローマの言うことを聞く以外に選択肢はなかった。
しばらく歩くと、一機のヘリコプターが止まっているのが見えた。人間が、二人。男の人と女の人。外套を着ていないローマを見て少し驚いた様子を見せた二人だったが、ローマが小声でボソボソと呟くと、「へぇ。そりゃゴキゲンなこった」と男の方が言って、女の人は、リクとソラの側にしゃがんでニコ、と微笑んだ。栗色の髪の毛をしていて、首に小さなホイッスルを下げたとても綺麗な女の人は、どことなく笑顔の雰囲気がマーナに似ているように感じられて、二人は寂しげな表情をしてしまった。
「お前は飛べるんだから飛んで帰れよ」そう男の人に言われたローマは、「わかってるよ。そしたらこれ、乾くかなぁ……」そんな風に呟いて、女の人に肩の辺りをぽんぽん、と叩かれて慰められていた。
その様子を見ていたリクは、気絶している母のことを気にかけながらも、あれよあれよとついてこなければならない流れになってしまったソラの方を見て、「ごめんね。こんなことに巻き込んでしまって……」と謝っていた。「ううん。わたしはいいの。お母さん、無事だといいね」ソラは優しく微笑んではいたが、この状況で安心できるはずもなく、不安気な表情を浮かべていた。外では、女の人とローマが軽くやりとりをした後に女の人が杖を構える。すると仄かな光がローマを包んで、そして消えた。すぐに女の人はヘリコプターの中に戻ってきて、リクとソラの方へ顔を向ける。「こんばんは。私、キーサっていうんだ。ごめんね。怖かったと思うけど、もう大丈夫だよ。疲れたと思うから、今日はゆっくり休んで大丈夫だよ。朝になってお城に着いたら、起こしてあげるからね」声はとても小さな、細い声だったが、柔らかくて気持ちのいい声だった。頭を優しく撫でてもらっている内に、どんどんと意識が遠のいていくのをリクとソラは感じて、そしてそのまま眠りに落ちた。
「上々だな」と運転席の男性が口にすると、「うん」という短い返事が返った。「けど、聖上の足元には全くもって及ばない」手のひらを見て悔しそうに呟く。隣に座りヘリの運転をする男性は「そもそもお前と聖上とでは力の種類が違う。目標とするには少し苦しい相手じゃないか」と返す。それは慰めにも近いし、現実でもある。「結局は」男が続ける。「結局は、自分にできることをやっていくしか、ないんじゃないか。と俺は思ってるよ」「……ありがとうございます。フジ右大臣。ちなみに何徹目ですか?」キーサが小声で尋ねると、「手前で好き勝手やってて起きてるから文句は言えんがな、……六徹目だ。なぁに、昼寝はしてる。立って書類整理をしながらではあるがな!」「ローマの背中に乗って帰りたかったなぁ……」ヘリコプターの中は静かに時間が過ぎていく。その後方、ヘリの機外では、「うへぇ。思ったより乾かない。ヘリってスピード遅いんだよ。もっと出すべきなんじゃないかなぁ……」姿を見られないようにする術法をキーサにかけてもらった手前、その発動者から離れる訳にもいかず後に続く形で飛行しているローマもローマでぼやいていた。
翌日の朝。キーサに起こされた子供達二人と、自力で目覚めたラウァは起きて簡単な身支度を整えた後に、聖上へ謁見するために移動する。「聖上って、どれくらい偉いの?」とリクが尋ねると、「ドラグニクル国の皇。つまり一番偉い人」ローマが簡潔に答えた。「……じゃあ、緊張とかした方が良い?」リクは質問を続ける。「いいや。リクやソラは全然緊張しなくていいよ。理由はいずれわかるから。でもラウァ。お前は緊張してなよ。理由は言わなくてもわかるだろ」前半は事務的に、後半は少し怒りを交えて答えた。そして、「というか、緊張した方がいいって質問も何だよね。普通何も言わなくても緊張するもんじゃない?」と質問を返す。「緊張なんか、しないよ。ぼくは聖上に文句を言ってやるんだ」リクがそう言って前を見据える。その様子を見てローマは嫌味な笑みを浮かべてその目線に答えた。「あ、そう。言えたら良いね。言、え、た、ら」と。最後は嫌味のように一音ずつ区切るようにして言うものだから、リクだけでなく、ソラもローマのことを一緒になって睨んだ。
謁見の間にて、扉が開いたときにローマは二人の子供が頭を下げないものと思っていた。そうした教育など受けてきていないだろうから、きっとできないだろうという自然な思考の流れから、ローマは横に並んだ二人の頭を押さえつけられるよう、わざと二人の後ろに立ち、そして両手をフリーにしていた。この予想は、半分当たりで半分外れる。皆が頭を垂れたその時に、ソラはしっかり頭を下げた。しかし、リクだけは完全に前を見据えている。「も!」と言いながら強引にリクの頭を押さえつけてお辞儀をさせる様子を見て、「あーあれ確か俺が前あいつの頭でやったよなー」とフジが笑いながら言うのを、ローマがフジ、リクがローマを睨みつけて見ていた。
「長旅、ご苦労様でした。ローマ、キーサ、フジさん。あなた方は下がっても大丈夫です。今日はしっかりと休養を取るように」
女性の明るくて、落ち着いた声が聞こえて、リクはまず、聖上って女の人だったんだ、と思い、そして、「こんな形でお呼びすることになってしまって本当に申し訳なく思います。リク。ソラ。頭をお上げください」自分たちの名前を呼ぶその温かな雰囲気に、リクとソラは互いの顔を見合わせた。どこかで聞いたことのある声、そしてその雰囲気。二人がゆっくりと顔を上げると、そこにはマーナが美しい薄紅のドレスを身に纏い、優しく微笑みかけてくれていたのだった。
「マーナさん!」「うそ……!」二人はそれぞれに声を上げてしまい、
「無礼者! 聖上に対し何たる口の利き方か!」
「おー。そういう反応楽しみにしてた。期待を裏切らないね!」
という二人の子供の声を聞くこととなってしまった。
「キリウ。彼らはまだあなたよりも年下です。最年長者としてあなたがしかと、そして優しく、導いてあげてくださいね」マーナは優しく、の部分を強調して声をかける。キリウと呼ばれた者は、揺らぎのない凛とした雰囲気を纏いながら、「はっ! お任せください!」と固く返事を返した。両腰に一振りずつの刀を差し、腰の辺りまである長い黒髪を後ろで一つに束ねているその顔立ちは、リクやソラよりもほんの少ししか変わらない子供でありながら実に整っており、清廉さを見た者に感じさせる。
「そしてユータ。そういう風に人の反応を見て楽しむ趣味は控えましょう。あなたもお兄さんですよ。彼らの手本になってあげてくださいね」笑顔で少しだけたしなめるような声を受けた少年、ユータは即座に返事を……「はい。母上。このユータ、門番兵の上手な撒き方から女中のスカートの中を完全に開けっ広げにするめくり方まで、しっかりバッチリキッチリ伝授しダダダダー!」返しきれなかった。マーナに耳を引っ張られながらも笑顔を絶やさないユータは、短髪に纏め上げた丸顔と余分な肉のついていない、幼いながらも均整のとれたスタイルをしている。背丈も、先程最年長者であると案内されたキリウと同じか、それ以上にある。
「さて、リク、ソラ。何か困ったことがあったら、あなた方二人と年の近いこの二人も含めて、なんでも聞いてください。しばらくお二人はこのお城の中で生活していただきます。改めまして、私はこのドラグニクルの皇、マーナ。マーナ=リリデューと申します。よろしくお願いしますね」
リクとソラは和やかな歓迎ムードもそうであるが、ドラグニクル皇がマーナであったことに何よりびっくりしてしまっていて、言葉が出なかった。リクからすれば文句が言えなかったことにはなるが、マーナの柔和な笑みを見ていると、何故だか文句を言う気分でもなくなってしまうのが、不思議でたまらなかった。
連載第二回『城内ドタバタ探検記』へ続く