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​パッサージュ・ダンフェ  吉野木蓮

 月は解体されている。月に見えるものは人口天体である。人口天体には天然物が存在する。一般市民は生きていくには困らない衣食住、環境設定がされた空間で生きている。多くの市民は生涯においてその空間から出ることは無い。また、空間である認識を持たない。市民権を持たない者はその空間の外に存在する。そして、何らかの方法で細々と生き、あるいは死にぞこなっている。市民権を持たないものも、ある意味では天然物と言えるだろう。

 西暦は四〇二二年で記録が途切れている。西暦四〇二二年が地球の公転に基づく正確な年号である確証はない。おそらくこれは、人工知能が作りだす現実世界上で、何らかの要因により加速した歴史的年号の記録であると思われる。

 

 

 

 創造するなかれ、模倣し、反復せよ。

 懐古の美に倣い、民衆を感動せしめよ。

 その文字列はサブリミナル効果のように目に飛び込んできては、次の瞬間に脳裏を通り過ぎ、忘却されていく。工場のいたるところにそのような格言が貼られてるのである。文字列は速やかに馴染み、日常に溶け込んでは見えなくなってしまう。

 

 私は男の頸にまわされた女の腕を描く。何本も何本も、数限りない抱擁を彼に与える。私が作業に当たっている『漁師とローレライ』は過去の遺物の一つである。大半の作家の名前は、とうに判らなくなってしまった。朽ちかけていたところを丹念に分析され、その筆致を学習された。星の数ほどの絵画がデータとして記録され、その平均値が数値化されていく。それは一であり、十であり、三百六十五であり、百九十五兆九千五百五十二億であり、グラハム数であった。優美さ、甘美さ、耽美さ、ありとあらゆる美が規範とされていった。そうして修復された過去の絵画は、見事に市民の心を奪った。市民は絵画を観る度に感動に満たされ、生きる歓びに打ち震えた。この工場では私を含め十数人が技術をもち、アタリ、下塗り、人体、背景、影、光源などパーツごとに担当を決められ、流れ作業で絵画を量産していた。最後に親方が手直しし、一定の基準を満たしたものは商品として世に出回る。市民は我先にと感動に群がるのである。

 

 ベルが鳴ると八時間の勤務を終える。次のローテーションの同僚に引継ぎを終えると、私は帰路に着く。配給された栄養食、飲料水、疲労回復のアンプルを使い古したバッグに詰め込み、なんとなく袋をブラブラ揺らしてみたりもする。明るい街灯が等間隔で照らす工場通りから一つ小路に入ると、私の住居区である。

 四五九通りは表よりもいくらか仄暗い霧が立ち込めている。壁には継ぎはぎが見られ、道路にはいくらか歪なタイルが並ぶこともある。私のような労働者の住居地域はどこもそんな小汚い印象がある。絵画を消費する層の市民はきっと一時間も居れたものではないだろう。労働者は十六時間後にまた出勤である。疲労で散漫な思考の中、なにか娯楽があるわけでもなく、ふとアンプルを空けたくなってしまう。路上での飲食は固く禁じられているにも関わらず、そのような願望はある一定の時間をおいて浮上してくる。検診に行ったほうがいいのだろうかとも思う。が、今の私は予定調和を破る時間も気力も持ち合わせておらず、思考はすぐに離散してしまった。

 

 住居に着くと、まず無菌室を通らねばならない。粗末な認証基準を満たすと、部屋のロックが解除された。転がった飲料水のボトルや食料の包装紙で足の踏み場が少なくなっていることに気付いた。いい加減に廃棄物をまとめなければ。廃棄物をいつ出しても良いということは、つまり出す機会を失ってしまうことなのだ。私は緩慢な動きで区画指定の廃棄袋を取り出した。

 

 廃棄場は一定の集合住居につき一つであり、私の住居のすぐ裏にあった。廃棄袋は四十八時間に一度回収されるが、何時見ても廃棄物は尽きることはなく、無限に増殖している気がする。私も三つの袋をそこに放り投げた。そのうち一つが破け、廃棄物が雪崩れてしまった。転がりゆくボトルを拾い上げようと屈んだその時、何かが視界の端に映った。違和感。ぞっとする不快な感覚。廃棄袋に埋もれていて全体は見えない。しかし、私は本能的に確信を持つ。人だ。生身の脚だ。異様な滑らかな曲線を持つそれは、廃棄物に塗れ、薄汚れている。足首に裂傷があり、赤黒く乾いた体液が患部一帯にこびり付いている。思わず声を上げそうになって、慌てて口元を覆った。

 

 ズリ、とその脚が動く。曲げられていく膝は生白く、すっかり血色を失っているようだった。廃棄袋がごろりと転がり落ちる。息を詰まらせながら、何もできずに私は一動を見守った。埋もれた上半身が露出していった。ゆっくりと時間をかけて、まるで生れ落ちったばかりのようにそれは起き上がった。脚は萎え、その場からあまり動けない様子であった。地に腕を立て、背骨を反るようにそれは見上げていた。まるで水から顔を出すローレライの様に。長い髪の間から、細い顎がのぞいていた。目が、合ったような気がした。けれども違う。見ているのは私ではない。私を通り過ぎて、きっと、遥かどこか遠く。

「どうして」

ひどく掠れた声で、彼女は呟いた。

「どうして、生きて、いるの……」

 

 

 

「お母様を保存いたしますか?」

「こちらが一般的なエンバーミング処置を施す場合のご予算です。新素体との神経合成することも出来ます。お母様は早世で、更新も順調に行われていらっしゃいますので、素体との適合率も悪くはなく長期にわたって保存なさるのであればお勧めでございます」

「もっと格安のプランもございますが、その場合、合成率は低くなります。あくまで私共が提唱しているのは確率であり、絶対保証ではないことをご留意ください。合成後のいかなる症状においても当社は責任を負いません、ご了承ください」

「もし保存されないのでしたら、処置施設に送ることが義務付けられております。その場合のご予算はごちらです。今回のケースで現場に特殊清掃を施すとなると、清掃社との見積もりを取らせていただきます」

「死亡時刻から七十二時間後までに処置が行われない場合、刑法D-三七-五六四条により罰金が課せられますのでご注意ください」

 

 鳴り響いていたはずのサイレンが妙に遠くに聴こえた。現場検証の慌ただしい足音、喧噪、シャッター音。様々な音がサイレンに紛れていた。葬儀社の連中は代わる代わる口を開いていた。その喪服は何体もの長い影となり、私を取り囲んでいた。ある者はまくし立てる様に、ある者は落ち着いた声で私に話しかけた。反応できずにいる私の背中を撫で、諭す者もあった。決定権は私にあるようで、何一つ儘ならなかった。

 

 葬式は大仰に行われた。常に感動に飢えている市民はこぞって葬式に参列した。誰が死んでも変わらなかった。私のエピソードは美しく編まれ、母との絆は無二のものとされた。そしていかにこの別れが痛ましく悲しく、突き刺さるような慟哭、胸を掻き毟るような運命、その不条理を切々と唱えられた。このエンターテイーメントを市民は貪り、心行くまで涙を流した。

 

 母は刺殺された。防御創含み、刺し傷は数十か所に及んでいた。

 瞼の裏に、母の遺体の残像は色濃く残っている。床に壁に叩きつけられ、青黒く鬱血した身体や、裂傷からとめどなく流れる体液。あんなにも艶やかであった髪が、脳漿に浸りそれが凝固し、ひたすらに醜悪な繊維に成り下がってしまった。頭部から胴体を中心に執念じみた裂傷を確認できた。歯は7本欠けていた。ありえない方向に捻じれた腕から手首は、やっと皮一枚で繋がっているばかりだった。あまたの防御創は深く、切り落とされた生暖かい指がそこら中に散らばっていた。

 

 母を思い浮かべるとき、鮮明な画像と曖昧な記憶が次々と入れ替わり、ついには事実さえも混迷を極める。あの時の母の目。まるで深き淵を覗くように、私は必死に母の表情を窺おうとしていた。死にゆく母もまた、あの暗がりから私を覗いていたのだろうか?縋るように?祈るように?記憶は悔恨のように私の中に居座り続けている。

 

 ある時、私は仕事で使い潰した絵筆を握る。記憶を模倣する。じわりじわりとあの日の母の遺体の輪郭を辿るのである。カドミウム化合物、クローム化合物。これだけか?いや足りない、圧倒的に足りない、もっと様々な記憶を叩きつけなければ。コバルト化合物、マンガン化合物。あの体液はどれだけ肉体から流れ出たのだろう?体液は我々の何パーセントに及ぶのか?顔は潰れて判らなくなってしまった。ならば花を咲き崩さなければ。亜鉛、チタン、硫黄化合物、水銀化合物。輪郭は軟体動物の様にとぐろを巻いている。柘榴のように美しく弾けて、蛞蝓のように猥褻であった。まるで抱擁を授ける前に溶けてしまった腕の様だ。フタロシアニン、キナクリドン、アゾ顔料。色彩は無限に増殖していく。それら全て余すことなく、キャンバスで混ざり合い、浸蝕し合い、打ち消し合っていく。

 

 

 

 工場から帰宅して何時ものように無菌室に足を踏み入れると、私は驚愕した。そこに彼女がいたのである。正方形に近い室の真ん中に身を伏せているのである。私はしばらく身を固くして、彼女を見守った。微動だにしない。じりじりと嫌な汗が背を流れ落ちた。壁沿いに這うように大きく距離を取りながら、やっと反対側の居住室のドアへたどり着いた。部屋のロックを解除するまでの数秒、背後で彼女が動いているのではないかと気が気ではなかったが、決して振り返ってはならないような気がした。

 アンプルを立て続けに三本空ける。彼女を廃棄場で見つけた後、私はどんな行動に至ったであろう?次の作業時間までの十六時間、作業効率を下げないために休息をとることが推奨されている。過剰な摂取は意識の混濁を招く。

 

「まずい」

「え?」

「信じられないほど不味い、いらない!」

 彼女は栄養食のパウチを口に含むなり咳き込み、振りかぶるようにそれをつき返してきた。中身がこぼれないようにあわててそれを受け取る。

「でも、なにか補給しないといけない」

「本当にこれしかないの?もっとマシな、美味しいのはないの?」

「完全栄養食だから、味覚に訴えるようには出来ていない。あなたが言う美味というのは快楽そのもので、とても高級な趣向品だよ。これは美味ではないけれど、体内に取り込むと効率よくエネルギーに代わる」

「じゃあ、基本的にあんたはこれを食べてるわけ?」

「そうだよ」

「……あんたたちって効率化され過ぎじゃないの?気持ちわるい」

 

 けたたましくアラームが鳴った。もしかすると、ずっと鳴り続けていたのかもしれない。足元にアンプルが転がっている。時間を確認すると、就業時間が近づいていた。

 

 出勤すると、量産された絵画の査定が行われていた。制作ラインは、複数の視察員によって背後からじっと作業を監視されていた。視察員の頭部は巨大なレンズになっていて、彼らの表情は伺えなかった。私が筆を振るう都度、レンズがキリキリと焦点を絞る。耳障りでもあるその音は、八時間途切れることはなかった。作業も終了という頃に、視察員は私の肩に手を置いた。熱くも冷たくもない、無機質な感触が嫌な印象を与えた。振り返ると、合成された音声が抑揚なく発せられた。

 

「効率が特に下がっている。検診は定期的に行っているか?」

視察員は私を取り囲み、項に器具を差し込んだ。

「回答が明瞭ではない。以前より疲労が蓄積している様子が見受けられる。休眠に障害が出ている可能性がある。コストパフォーマンスの低下が予測される。この弊害には記憶領域の容量過多が挙げられる」

視界に砂嵐が混じる。視察員は口々に申告を下していく。

「我々は更新及び新素体、労働に特化した技術のインストールを推奨する。通常の配給を停止し、適正規格更新プログラムをダウンロードする」

やがて世界は暗転した。

 

 それは闇夜にぽっかりと浮かんだ覗き穴であった。誰かが燃え尽きていく蝋燭の灯りをつぶさに観察しながら、そう呟いた。大地を淡く照らす青白い横顔を人々は崇拝していた。それは右目からも左目からも生れ落ち、男でも女でもあり、様々な神であり動物であり、あるいは有機物であり無機物であった。誰もが一度はその横顔に手を這わせようと、闇の中へ手を伸ばした。ある時、誰かがその地表に足跡を付けた。そして我々は少しずつ、その領域を冒し始める。それを割ってみると中心部は液体の質を帯び、表層に近づくにつれて岩石と金属であった。希薄なナトリウムにカリウム。微弱なる磁場。我々の指先が霞めるたびに、それは神秘を失っていく。極地の氷、鉱化溶液、チタン。酷く殴られたその顔の翳りは玄武岩であり、鼻梁は角礫岩であった。隕石の砕け散ったレゴリス。衝突熱による融解。つまびらかに解析され続け、それは遂に本当の意味で死んでしまった。暗転。その世界は闇夜に似ている。しかし、限りなく虚無に近い闇である。そうだ、月は解体されている。月に見えるものは人口天体である。その天体は、月の死骸を繋ぎ合わせ、資源を破壊し磨り潰し、あらゆる技術と練り合わせ、これ以上ないほど機能的に形成された科学の粋。完全なる我々の傀儡である。遥か高みから下界を監視している。今や我々は、神に成り代わったのである。

 

 

 

 瞳を掌で盲いて百二十秒、私の耳には紙を摩擦する黒鉛の音が響く。ドルチェドルチェ、メゾフォルテにスフォルツアンド、ピアノピアノピアニシモ。傾げた耳を塞いで百二十秒、私は空中を見上げる。焦点の合わない視界の淵に、私を描く彼らが蠢く。頭を抱えて百二十秒。何も視えず、聴こえず、私の意識は足の裏から床へと巡り、樹木が根を張るように私は滲んでいく。そうして私は空間と同化する。その空間を、絵描きはキャンバスに切り取っていく。頭を一として八つ裂きにされゆく肉体。解体され切り取られた瞼、頬、耳、髪、背骨、手首、指、臍、骨盤、性器、腿、脛、踝、爪先。あらゆる部位のモンタージュ。輪郭、光源、影。絵描きは作品に魂を吹き込む。再構築された私、あるいは全ての匿名の女たち。

 裸婦。女の形をした物質。女という観念の昇華。私を媒体として切り取られた美は、一瞬で破き捨てられ、一週間で塗りつぶされ、一年で焼かれ、一生残る。そして、もしかすると時さえも超えていく。

 

「あんたの仕事、絵描きだっけ」

「そう、絵画の一部を描く仕事だよ」

 彼女は無菌室の真ん中に寝そべっていた。真新しい素体はまだ正常な循環が機能していなかった。住居室の生態認証も通ることがなく、無菌室にとどまるしかなかった。規格更新の手続きとやらは私の意識が沈んでいる間に終了したらしく、彼女と私は意識を共有したままここに転がっていた。私の足の腱は切られていた。彼らが施した処置だろうと思われる。私も彼女も、ここから動くことはできない。

「なんで全部描かないの?」

「分業制の方が効率が良いから。そして、一定の反復であれば技法も高度ではないから、もし欠損しても補充するのが簡単だよ」

「ふーん、使い捨てってわけね!あんたそれでいいわけ?」

 彼女は突然憤ったかのように声を荒げた。

「落ち着いて。社会の一部を担う労働者ならそんなものだよ。誰かが欠損したから、私だって補充として雇われてる」

「そんなの気付いたら、みんな他の誰かに代わってしまってる!」

 急に跳ね上がった感情が私の頭の中で爆ぜる。血液の循環を伴う頭痛が追い打ちをかけてきた。

「そうかも知れない。更新している人もいるし、気にしたことがなかったけど」

「でも、あんたたちは誰か居なくなったらすごく悲しむじゃない。あんただって何回も葬式に参列してるし、みんな泣いてるし」

「知らない人が死んだら悲しいもの。それに、みんなでお葬式を豪華にしなければいけない。そうすることによって悲しみが昇華されて、日常に戻れるよ」

「じゃあ知ってる人が死んだら?」

「……え?」

 頭痛は激しさを増す一方で、彼女の腹が煮えくり返っているのを感じた。その一方でちぐはぐな、どこか頭の芯が冷えて、停止してしまう感覚を覚える。

「普通は身内が一番悲しむもんだと思うけど、あんたたちは誰が死んだって同じみたい!知らない誰かが、身内を利用してフラストレーションを解消してるなんて、どうして許せるわけ?そうやって最後の最後まで消費されて、悔しくないわけ?」

「消費?何を言って……」

「昔、あたしの身内が死んだわ。内臓が蝕まれていて、長いこと苦しんで、口からとめどなく血を流して死んだ。それは、まるで生き腐れで、ひどい……とにかく酷い死に様だった。こんな苦しんだ顔、他人に見せれないって皆は言ってた」

 彼女の顔はみるみる崩れていった。真っ赤に憤慨したかと思うと、その熱は涙となり、滝のように頬を伝った。戦慄いた唇から嗚咽が漏れた。それを飲み込もうとして、しゃくりあげていた。途切れながらも、激しい嘔吐のように彼女は言葉を紡いだ。

「でも葬式では、死化粧されて、顔中真っ白に塗られて、今まで見たことないようなきれいな眉が描かれて、紅をさされてた。別人みたいになってた!あたし、その顔を見たとき、あの人の苦しみは塗りつぶされてしまったんだって思ったわ。体裁を取り繕うためにこんなくだらないことされて、本当に腹が立った。そんな風にした奴らも大嫌いよ!」

 一端、彼女は言葉を止めた。歯を食いしばり、痙攣のように呼吸を繰り返した。こんな感情を私は知らなかった。さめざめと慎ましく泣くこと、あきらめて受け入れること、恐怖に身を固めること、なにか嫌な予感をやり過ごすこと。私の生きた時間は概ねそれに費やされた。彼女のような悲しみを知らない、こんな叩きつけるような慟哭、渦巻く悔恨、感情の爆発を知らない。

「ああ、あたし、あたしは絶対こんな風に死んでたまるか!お悔み申し上げますなんて、ご冥福をお祈りしますなんて、空々しく言わせてやるもんか……」

 地に這いつくばって彼女は泣き叫んだ。私は何も知らない。これほどの狂騒を、ぐちゃぐちゃの顔面を、震えが止まらぬ全身を、迸る生の脈動を。何も持たない私は、彼女の前に呆然と佇むことしかできなかった。しばらくして、彼女の号泣は収まったかのように見えた。床を掻き毟るように、その掌はゆっくりと握られた。

 

 くたばってやる……引き攣るほどに一文字に結ばれた唇から、遂にそれは吐き捨てられた。一呼吸。彼女は顔を上げた。ギラギラと突き刺さるような眼光が私をとらえた。その瞳から、また一筋涙が堰を切った。

「無様にくたばってやる!ゴミみたいに無意味に転がってやる!お涙頂戴なんてくそくらえだ!」

 

 

 

「どうして、生きて、いるの」

絞りだした声がおそろしく掠れていた。咥内は乾いて、肺から吹き上がる酸素がひりつくように熱かった。まるでやっと呼吸を覚えたかのように。否、これが最後の一言で、もう力尽きてしまうのかもしれなかった。視界の端にぼんやりと映っていた彼女に、明確に焦点が合った。その声は彼女のもののようで、私の声であった。唐突に肉体は水分に満たされた。気管が正常に機能し、循環しているのを感じた。そして、次第に頭の中の靄が晴れていく。状況を容認する。私と彼女はそれまで意識を分け合っていた。膨大な会話をし、血肉を分け合い、夢を貪り、死を啄み合った。その臨界がとうとう途切れてしまった。溶け合っている空と海とが、実は何処までも離れていることを知ってしまったかのように。旧素体から新素体への更新、精神移行が完了したのだった。

 

 完了までの間、私の精神は引き裂かれていた。一つは彼女と共有し、一つは元の私の素体にとどまり、一つは何事もなかったかのように八時間勤務と十六時間休憩を繰り返していた。通常は精神衛生上、日常を繰り返し、何も意識することはなく新素体への移行は完了するはずのプログラムであった。それが私の場合、移行期間に新素体との交信を得てしまった。新素体の意識、それは私たちのオリジナルである素体の過去の意識である。すでに失われた世代の、私たちが生身の肉体を持って生きていた意識。

 抜け殻となった旧素体にもその意識は残っていた。もともと私たちはずっと素体の奥に彼女を抱えて生きていたのかもしれない。懐古の女、形骸化した女、もう名前もわからなくなってしまった、私自身。

 

 私は襤褸雑巾のように転がっていた。廃棄袋に囲まれ、廃棄物に塗れて。栄養の行き届かない素体はやせ細り、優美な曲線とは程遠かった。髪も皮膚も、動いていたのが信じられな程に汚く、満身創痍で虫の息であった。彼女は停止するだろう。そして廃棄された旧素体は四十八時間もせずに回収されるだろう。私は日常に戻る。ありとあらゆる模倣を繰り返す。そうして、いつかは母のように頭部が破壊されるまで、延々と時間を潰していく。

 

「あんた、絵描きだっけ」

 動かなくなっていく彼女を見詰めていると、ふいに脳裏に言葉が浮かんだ。

「じゃあ、あんた、あたしの遺影を描いてよ。そのままを描いてよ。どんなに無様でも、あたしを描いて。絵の中で、あたしを生かして」

 散々泣いて、殆どすり減ってしまった精神の、最後の最後に融合しながら、彼女の声にならない意識を感じ取った。創造するなかれ、模倣し反復せよ。生きている間にずっと刷り込まれ続けてきた言葉が、相反するように警告を鳴らした。今まで幾度となく聴いたアラーム、就業時間、休眠時間、ありとあらゆる規範が錯綜する。死亡時刻から七十二時間後までに処置が行われない場合、刑法D-三七-五六四条により罰金が課せられる。壮大な母の葬式に押しよせる参列者たちは、開かれた棺の扉を拝見する。彼らは口々に呟く。綺麗なお顔です。惜しい人を亡くしました。お悔やみ申し上げます。ご冥福をお祈りいたします。母を保存するかだって?それはもう人の形をしていない、亡霊のような何かである。

 

 私はアラームを叩き壊し、床に落ちた機器を蹴り上げた。

 廃棄袋が破れる、ボトルが転がる、包装紙が舞う。アンプルが粉々に割れる。宙を見上げる彼女の頬を掌で挟み、じっとその顔を見た。なんてひどい、これ以上ないような醜い顔であった。彼女は使い潰された。労働と反復に揉まれ、更新を繰り返し、また模倣と規範に侵されて。生きることも死ぬことも儘ならず、他人に押しつぶされて、最後に狂ってしまった。

 あまたの顔料、キャンバスに押し付け続けてきた妄執、楽園の夢や優しい女の腕の抱擁。その美しい光。あるいは住居区で繰り返される母の遺骸の模倣。創造することが禁止されているが故の禁忌、曖昧な記録で辿る亡霊の輪郭は、まるで人工知能の描いた蛞蝓のような裸婦である。

 

 まだ微か息のある彼女の頸に指をまわした。私は私の絶望を殺さなくてはならない。どんな気持ちだ?自分自身に殺されるお前の気持ちは、諦めとさらなる絶望か?それともあの時のように恥も外聞もなく激昂するのか?泥濘に頭を擦り付け死にたくないと哀願するのか?やるがいい。何でもしろ。どうにでもなれ。きっちりと殺す、殺してやる。息の根を止めてやる。それでもお前を手放したりするものか。ずっとずっとお前を見ていてあげる。かつて女を解体したように、お前のパーツを観察してあげる。きっとお前はバラバラと転がり、虫に集られ、悪臭を放ち、液状化した臓物を曝すであろう。お前は広がり、黒く発酵し、そこら中に滲みだすであろう。地を抉れ。これ以上ない程に深く深く根を張れ。何処までも浸蝕せよ。

 私はお前を描く。この惨状を描き尽くし、創造するだろう。そして私はこの世界から除外される。倣わないものは生きる権利を剥奪される。使えない歯車、ばかになった撥条、脆く朽ちた金属。無常に、機械的に、効率的に、当たり前のように処断される。けれども絵筆を叩きつけて、お前を弔ってあげる。腕を切られれば足の指で筆を握ってやる。脚も失えば口で筆を咥えるだろう。全てを失っても、お前の生きた証をあげる。だからお前も目を見開いていろ。最後の極彩を私に見せろ。塗れろ、溢れろ、垂れろ、爆ぜろ、溶けろ。ありとあらゆる力の限り。

 

 その頸に茨のように蔓延らせた指を締め上げると、私は心から優しく微笑んだ。

 

 

2015年に誕生した

文芸同人「黄桃缶詰」のホームページです。

 

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