黄桃缶詰
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僕と村上春樹のこと
光枝初郎
僕は高校一年生の時、当時住んでいた街の駅の上階にあった本屋で村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』三部作を買った。記憶が正確ではないのだが、この作品を知ったのはUKポストロックの代表格であるRadiohead(レディオヘッド)というロックバンドを通じてであったと思う。レディオヘッドの斬新な音楽に熱中していた頃、彼らのウェブサイトの日本語訳ページを見て、フロントマンのトム・ヨークがこの村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』について好意的なコメントを述べていたのが非常に印象的であった。え、このバンド、日本の作家の小説を読むの? みたいな、そういう感覚だった。
本屋に並べられた新潮社の文庫版の『ねじまき鳥クロニクル』の表紙は三つとも緑、紫、黄色の暗鬱とした単色カラーの装丁だったし、「ねじまき鳥クロニクル」「第一部 泥棒かささぎ編」「第二部 鳥刺し男編」「第三部 予言する鳥編」といったタイトルセンスが物好きな僕の心を大いに掻き立てた。
第一部「泥棒かささぎ編」の中で僕が最も尾を引くことになった場面は、有名なあの間宮中尉の凄惨な語りである(少し長くなるが引用する)。
『少しずつ剥ぐ』とロシア人の将校は言いました。『皮に傷をつけないできれいに剥ぐには、ゆっくりやるのがいちばんなんだ。途中でもし何か喋りたくなったら、すぐに中止するから、そう言ってもらいたい。そうすれば死なずにすむ。彼はこれまでに何度かこれをやってきたが、最後まで口を割らなかった人間は一人もいない。それはひとつ覚えておいてほしい。中止するなら、なるべく早い方がいい。お互いその方が楽だからな』
ナイフを持ったその熊のような将校は、山本の方を見てにやっと笑いました。私はその笑いを今でもよく覚えています。今でも夢に見ます。私はその笑いをどうしても忘れることができないのです。それから彼は作業にかかりました。兵隊たちは手と膝で山本の体を押さえつけ、将校がナイフを使って皮を丁寧に剥いでいきました。本当に、彼は桃の皮でも剥ぐように、山本の皮を剥いでいきました。私はそれを直視することができませんでした。私は目を閉じました。私が目を閉じると、蒙古人の兵隊は銃の台尻で私を殴りました。私が目を開けるまで、彼は私を殴りました。しかし目を開けても、目を閉じても、どちらにしても彼の声は聞こえました。彼は始めのうちはじっと我慢強く耐えていました。しかし途中からは悲鳴をあげはじめました。それはこの世のものとは思えないような悲鳴でした。男はまず山本の右の肩にナイフですっと筋を入れました。そして上の方から右腕の皮を剥いでいきました。彼はまるで慈しむかのように、ゆっくりと丁寧に腕の皮を剥いでいきました。たしかに、ロシア人の将校が言ったように、それは芸術品と言ってもいいような腕前でした。もし悲鳴が聞こえなかったら、そこには痛みなんてないんじゃないかとさえ思えたことでしょう。しかしその悲鳴は、それに付随する痛みの物凄さを語っていました。[1]
何とも凄惨にすぎる箇所で、しかもこの『ねじまき鳥』という不可思議な設定の中で、自らの戦争体験を唐突に語り出す間宮中尉の告白には、独特な凄みがある。村上春樹は、執筆の準備として、実際の史実であるノモンハン事件を詳しく調べていたらしいが、それは春樹の特異な想像力を伴って文学作品の中で再――差異――表現されることとなったわけである。
今から思えば、第三部のクライマックスに使われる小難しい設定などをしても、この作品を理解できたとか、そんなことができたわけではない(そもそも高校生の僕は江國香織や太宰治といったよく本屋に置いてある文庫本を読む「フツー」の学生であったに過ぎないのだから)。ただ、全体を通して比較的すんなりと僕は『ねじまき鳥クロニクル』を読みとおすことができた。単純にこんな小説今まで読んだことないと思ったのだ。
余談ではあるが、『ねじまき鳥』は春樹の長編作品のなかで最も評価の高い作品かもしれない。書かれた時期は、阪神淡路大震災やオウム信者らによる地下鉄サリン事件のあった一九九五年を跨いでいて、インタビューによるとやはりこれらの時代の激動に創作上でも彼の心理変化があったという。本作の「悪」の象徴として設定されている綿谷ノボルと主人公の「僕」が対決するという構図は、多くの研究者がいうように、春樹なりの(小説における)大きな「問題」に対する表現方法でもあった。
高校の頃の僕は、勉強以外に特に力を入れた才もなく、しかしバンドを組んだり塾に通ったり鬱に陥ったりそれなりの学生生活を送ったので、激しく文学に目覚めるといった契機はなかった。それで僕が在学中に読んだ春樹の本は、『ノルウェイの森』と『海辺のカフカ』だった。前者については説明不要だと思う。当時の僕は『ノルウェイの森』の衝撃的ともいえるラストに背筋が凍る思いをした。『ノルウェイの森』が春樹のポピュラーな代表作の一つであることに誰も異論を唱えはしまい。しかし、『ノルウェイの森』には古典的な文学のテーマがきっちり備わっていて、人々の心の闇や狂気を彼なりに克明に描いている。ある意味教科書的ですらあると僕は思っている。
それよりも『海辺のカフカ』の再読をしたいこの頃なのである。当時は、『海辺のカフカ』の過剰にエロティックな場面にやや厳しいものを感じたし、同じものを読んだクラスメイトに「ちょっとエロすぎるよね」と共感し合った記憶が僕の読後感をしばらく固めていた。しかし、あのパラレルワールドの構成は文学を知らない僕にとってとても新鮮でかつ面白味があると感じたし、Radioheadの衝撃作「KID A」も作品中に出てきて、僕が当時から敬愛してやまないRadioheadと村上春樹の仲の良さを嬉しくも思った。
『海辺のカフカ』の一番印象的な所は何だろうか。移動、パラレルワールド、交差、近親相姦、想像界、残虐、欲動の世界と復活……いろんなテーマがこの作品には詰まっている。春樹作品のなかでも一番野心的であることに挑戦した作品なのかもしれない。
大学に入っても、相変わらず自分の好きなものばかりフツーに読む二年間があった(だいたい僕は大学最初の二年間、文学といったら遠藤周作くらいしか真剣に読んでいなかったのだ!)。そのなかで、『スプートニクの恋人』と『アフターダーク』といった単発の長篇作品を読んだ。
『スプートニクの恋人』の魅力は、これまた有名だが、何といっても最初の出だしだ。
22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。そして勢いをひとつまみもゆるめることなく大洋を吹きわたり、アンコールワットを無慈悲に崩し、インドの森を気の毒な一群の虎ごと熱で焼きつくし、ペルシャの砂漠の砂嵐となってどこかのエキゾチックな城塞都市をまるごとひとつ砂に埋もれさせてしまった。みごとに記念碑的な恋だった。恋に落ちた相手はすみれより17歳年上で、結婚していた。さらにつけ加えるなら、女性だった。それがすべてのものごとがはじまった場所であり、(ほとんど)すべてのものごとが終わった場所だった。[2]
村上春樹はこの小説の最初の一文を思いついて書きだしたという。それくらい印象的なパッセージだし、またその方法論に従って描かれる物語も多彩なものがあって面白い。
『アフターダーク』は実験的な作品だな、と思いながらあっという間に読み終えた記憶がある。現代文化評論家の宇野常寛はこの作品をとりあげて、「Googleアース的なカメラ視線を時代的に先取りした、すごい作品だ」というようなことをどこかで書いていたのだが、僕はそれに半分同意しつつも、どこかその解釈に釈然としないものを覚えた。小説で視点のことが論点として取り上げられるのは当たり前なのである。例えばこういうシーン。
私たちはひとつの視点となって、彼女の姿を見ている。あるいは窃視しているというべきかもしれない。視点は宙に浮かんだカメラとなって、部屋の中を自在に移動することができる。今のところ、カメラはベッドの真上に位置し、彼女の寝顔をとらえている。人が瞬きをするように、間隔をおいてアングルが切り替わる。彼女のかたちのいい小さな唇は、まっすぐひとつに結ばれている。……[3]
これを単に「Googleアース的」想像力と呼称してよいのかどうか、甚だ疑問である。むしろ映画のキャメラのような視点構成を意識した形となっており、たとえばサミュエル・ベケットなどの作家と併せて論じないと意味がないのではないか、と個人的には思っている。
ともあれ、ここまでの作品を総括すると、それは全て村上春樹の「中期」作品にあたる。僕は現在進行形の春樹作品も、初期作品も知ることなく、ひたすら中期を追いかけてしまったことになる。
私事だが、大学四年生の時に初めて自分のオリジナルの長編小説、二百三十枚くらいの拙い作品を書いて、よし、僕は今後の進路において作家生活というものに可能性を広げてみようと考えていた。その頃から、徐々に文学の扉を叩きはじめ、例えば柄谷行人の『近代日本文学の起源』などに感銘を受けて逆にそこに出てきた明治文学作品を片っ端から読むというような珍妙なことをしていた。
それから、僕は春樹の初期の作品群に出会うことになる。『羊たちの冒険』をまず読んだ。いるかホテル、鼠、羊男、主人公「僕」の突然の激昂など、読み返せばもっと思い出せるのだろうが、文章がうまくてあまりにするする読んでしまったので、これといった印象を思い出せないのが残念である。そして次に、『ダンス・ダンス・ダンス』と『風の歌を聴け』を読んだ。
『ダンス・ダンス・ダンス』は圧倒的だった。出てくる登場人物や世界観がいちいちカッコよかったし、僕は特に主要人物であるミミちゃんの、心細く繊細な少女から世の中に立ち向かっていく大人への成長過程を力強く示したこの作品が、とてもいいと思った。前作『羊たちの冒険』の舞台となっていたさびれたホテル「いるかホテル」が、何年か経ってから「僕」が行ってみるとそこは「ドルフィン・ホテル」と名前を変え、超巨大な資本経済システムと世の中を跋扈する悪たちと交渉する妖しい権力とを携えたかたちで再登場する。主人公の「僕」とミミちゃんが現実避難としてハワイに行くシーンなどは非常に素敵だ。物語の終わり方も、確かな希望を読者に感じさせ、力強いものとなっている。
一方『風の歌に聴け』は春樹が群像新人賞を取ってデビューを飾った記念的な中篇小説である。文学も新たな時代に入るという幕開けをなんとなく察知したような、当時の時代にきっとさわやかな風をもたらしたであろう作品なんだろうな、と読み終えて率直に思った。『ダンス・ダンス・ダンス』や小作品まで続く春樹ワールドの端緒であるが、全体的にみずみずしく、アメリカ文学の乾いていてそれでいて爽やかな文章を独自に日本語の文章として紡ぎだした所に、大きな成功があると思った。
それからまだ大学生時代の頃、当時通っていた個人経営の病院の診察室の前に、『1Q84』が整然とディスプレイされていた。そこのお医者さんも村上春樹にゾッコンだったわけだ(よくある話だが)。まずは『BOOK1』を、診察までの長い待ち時間を利用して病院に通うたびに読んだ。とてもいい印象だった。繰り返し誇張しすぎるほどに登場する音楽家ヤナーチェックの交響曲「シンフォニエッタ」、冒頭のタクシーの運転手、青豆という名の女性の主人公、明らかに綿矢りさのオマージュである「ふかえり」の書いた「空気さなぎ」等々……。『BOOK1』はカッコよかった。しかし、『BOOK2』となると、それほどまずくはないと思ったが、なんだか『海辺のカフカ』のパラレルワールド的構成の顛末が、けっきょく男女二人が首尾よく結ばれるという簡素なものになっていることにも失望したし、いろいろ不満もあった。そして『BOOK3』にいたっては、完全に失望した。要するに陰惨な暴力描写、悪に対する悪という制裁の問題性を感じずにはいられなかった。こんなのなら『BOOK3』は刊行せず1と2だけでいいんじゃないか、と今でも僕は思っている。[4]
それからまた何年か経った頃に『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が書店にひしめくようになった。春樹の作品は実に多いが、それに負けず、というか彼の作品数を遥かに凌ぐような、「村上春樹にご用心」(はて誰の著書だろう)とか「村上春樹の○○を読む」とか「だから村上春樹はだめである」といった春樹関連本も年々増えていくのを実感したように思う。「ムラカミハルキ」という記号は、出版界の不況が叫ばれる近年においても、未だ八十年代的な雰囲気をもって人々の間で消費=流通しているようだ。
「多崎つくる」を読み終えて、率直に僕は感動した。新鮮な、「救済」を僕は心の奥で感じとった。この物語の核心は、「色」の名前を自分の氏名に持つ登場人物たちとその仲間の、ただ一人色のつく名前を持たない主人公・多崎つくる(どちらかといえば平凡な名前だ)との過去から現在をめぐるものであるのだが、僕はこの作品の核心を「共同体と社会的なもの」だと考えている。共同体的なものと社会的なものという区別は、批評家の柄谷行人によるものだ。国家や地域地縁域、伝統的な家父長制家族などのコミュニティ(共同体)では、その成員(メンバー)は、メンバーになる資格が国籍などの形で条件づけられるなどして、比較的限られている。そこから、密な関係、閉じた関係と、閉じた環境が形成される。毎日同じメンバーが顔を合わせ、生活をしていく、といったものだ。そういったことからメンバーの同質性や、協調性、さらに血縁関係や同郷関係(場所的要因)なども重要視されるといった社会構成になっていく。共同体的なものとはだいたいそのような意味合いである。対して、柄谷が社会的なものと呼ぶのは、単に一般の意味でこんにちソーシャルだとか言われている「社会」の意味ではない。そうではなくて、たとえば資本=経済世界を自由に流通する資本や、砂漠で流浪する民、さらにはモンゴルで悠々自適に活動する遊牧民などが象徴例であるように、国家や共同体的なものの外部に位置し、絶えず「異質」な者同士との接触、異質な「他者」たちとの出会いを経験するような開放的な、開けた場所のことである。そこでは、外国人や異邦人、さらには自分と違う大人/子どもといった「他者」の経験が重要になり、共同体的なものにおける「同質性」や「協調性」よりも、「倫理」や「自由」が重要視される。話が少しややこしくなったが、柄谷は従来の共同体的な社会(世界)の在り方ではなく、本来の社会的なもののような世界の在り方に思考をめぐらした。
話を戻そう。「多崎つくる」の最初の舞台は、日本である。そこでは「色」を持つ仲間と(色を持たない)多崎つくるとの密な関係が展開され、彼らはやがて悲劇に陥る。そこには明らかに、共同体的なものの匂いが感じられる。クライマックスでは、多崎つくるはヘルシンキに向かう。この移動が、物語の構造上核心的であると思われた。日本、密な仲間とその内部で起こる事件、そして共同体的なものから離陸して、「別の場所」で行為をする――そのとき、日本では得られなかったような解決が、もしくは反応がある。そういうことを、この小説は示唆している。
これは勿論僕の持論である。しかし、こういった観点以外にも相変わらず春樹ワールドにおいてたくさん楽しめるところがあるし、僕は最近の作品の中では「多崎つくる」を高く位置づけている。
以上は僕が村上春樹に出会ってから、今まで読んできた彼の作品を僕なりに綴ったものだ。そういえば、村上春樹に批判的な人、或いは詳しくは知らなくても、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の書名はよく挙げられる。この長編作品は今までの遍歴リストから抜け落ちているから、このエッセイを書いてみた今、読んでみたい作品である。あと、彼の短編作品も非常に気になるところである。長編作家で知られる作家の短編を読むということは、お気に入りのアーティストのニューアルバムのスルメ曲に出会うようなカンジである(よく分からないが)。最もノーベル文学賞に近い日本人作家と言われ、毎年のように受賞を逃している彼。あなたも一作と言わず、春樹ワールドを自由に堪能・批評してみては如何だろうか。(了)
注 村上春樹の小説作品のリストについては、利便さもさることながらwikipediaの情報が見やすい。参考までにあげておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%98%A5%E6%A8%B9
[1] 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第一部泥棒かささぎ編』(1994, 新潮社)pp284-5。
[2] 村上春樹『スプートニクの恋人』([文庫版]講談社、2001)、pp7。
[3] 村上春樹『アフターダーク』([文庫版]講談社、2006)、pp38-9。
[4] しかし、『1Q84』についてはもう一度はじめから再読しようと思っている。自分の読み方によってその本の印象はかなり作られてしまうからだ(そして放っておくとどんどん固定されたものとなる)。『BOOK2』は話の結びにしろ途中途中の細かいところにしろ、色々複雑なところもあったので、それらがどんな円環をなしているか、せめて推察することができるような状態にまでもっていきたい。