黄桃缶詰
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活動再開!2019年4月発表をめどに小特集「曖昧なる境界線」が決定!(1/28)
はる「ロジウラ」、misty「時間喰いのモービーディック」の原稿を掲載しました!(11/25)
しばしの間休載。(9/12)
不穏にして不敵な文学
――セリーヌの二つの作品
光枝初郎
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旅に出るのは、たしかに有益だ、旅は想像力を働かせる。
これ以外のものはすべて失望と疲労を与えるだけだ。僕の旅は完全に想像のものだ。それが強みだ。
これは生から死への旅だ。ひとも、けものも、街も、自然も一切が想像のものだ。小説、つまりまったくの作り話だ。辞書もそう定義している。まちがいない。
それに第一、これはだれにだってできるものだ。目を閉じさえすればよい。
すると人生の向こう側だ。
――セリーヌ『夜の果てへの旅』
一 ルイ=フェルディナン・セリーヌ
ここに記すのは、ルイ=フェルディナン・セリーヌの作品についてである。特に、処女作の『夜の果てへの旅』と、それに続く自伝的連作といってもよい『なしくずしの死』の二つである。いずれも長編小説である。どう書くかという方法についての問題もあるが、その前にセリーヌがどのような作家なのかを簡単に紹介する。
ルイ=フェルディナン・セリーヌ(本名はL・F・デトゥシュ)は一八九四年、フランスのセーヌ県クールブヴォアで生まれた。貧しい幼少時代を送り、第一次世界大戦を志願兵として経験した後、医者を開業する。その傍らで文芸活動に勤しみ、一九三二年に『夜の果てへの旅』で華々しい文壇デビューを飾るが、三六年の『なしくずしの死』では多くの批判・罵声を浴びる。政治的・反ユダヤ主義的文書として書かれた『虫けらどもをひねりつぶせ』『死体派』等により第二次世界大戦後に戦犯として問われ逮捕・投獄、その後はデンマークへ亡命して『城から城』『北』『リゴドン』(いわゆる亡命三部作)などを書きあげる。五一年、特赦で帰国、『城から城』などによって再び文壇に迎え入れられるが、その後も評価は一定しない。やがて文壇からも黙殺される頃、六一年に世を去った。
これだけ簡潔に書いても、彼の人生そのものが激しい文学作品のようで、実に波乱に満ちている。それは彼の文学的方法にも直結している。ところで彼の作品を熱狂的に受け入れたのが、ジャン=ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワールらのいわゆる「実存主義」作家であり、それ故にセリーヌは実存主義だなどと見る見解があるが、それは端的に言って間違いである。後に見るように、セリーヌの罵詈雑言や〈呪詛〉は、人間主義の範囲を大きく超えているし、狭義の意味でも彼が政治や社会への積極的参加(アンガージュマン)を説くことなど一度たりともない。むしろ、セリーヌは反人間主義、反実存主義の系譜に入れていいと思う。だからこそ、サルトルやボーヴォワールがそうした作品の持つ凄まじき力を認めたのだろう。
さて、次節からは具体的に「前期」に書かれた『夜の果てへの旅』と、『なしくずしの死』を見ていくが、筆者はいわゆるこれらの作品に対する「資料」を見つけ損なった。というのも、彼の作品を扱った論評のうち日本語で読めるものは非常に数少ないからである。ところどころでそうした第三者からの評言を参照するかもしれないが、基本的に作品の味わいがどのようになっているかを、引用文を手掛かりに探究することで、セリーヌ作品の特徴を洗い出してみたい。
二 「夜の果てへの旅」
「夜の果てへの旅」は、主人公のバルダミュが、最初の七分の一くらいの所まで戦争に参加し、その後フランスへ帰り、ひょんな理由で(というのも、それらしい理由も明確に書けないほど混雑しているのがセリーヌの文章である……)アフリカの奥地に行き、かと思えば今度はアメリカで貧乏生活を送るまでが前半である。後半は再びフランスへ戻って、全くやるせない医者としての生活をくどくどと続ける。正直、展開のある前半の方が面白い。これはセリーヌのほとんどの作品について言えることかもしれない。後半は同じようなシーンが続き、その延々と繰り返される体たらくとセリーヌの散りばめた罵詈雑言に、こちらもやるせない気持ちになってやがて主人公の苦行的生活と一体化してしまう。
いきなりだが、冒頭の文章を見てみよう。この冒頭が既にセリーヌの文学を物語っているともいえる。
ことの起こりはこうだ。言いだしっぺは僕じゃない。とんでもない。僕に水を向けたのは、アルチュル・ガナートだ。アルチュルも、やっぱり学生、同じ医学生で、友人だ。クリシイ広場で、またばったり出会ったものさ。昼飯のあとだった。先方は、話があるという。こっちは聞き役。「立ち話もなんだ」とやっこさん。「中へ入ろう!」ついてはいった。まずは、こんな次第だ。「このテラスは」とやっこさんが切り出す。「ブルジョワの集まるとこさ! 奥へ入ろう!」さて、気づいたことは、暑さのせいで、表通りには、人っ子ひとりいない。まるっきり、車一台。寒さがきびしいときも、やっぱり同じ。通りはがらんどう、とくる。そのことで、こう言いだしたのは、紛れもない、奴のほうだ。「パリの人間は年じゅう忙しそうな面をしているがね。ほんとは、朝から晩まで、ぶらぶらしているだけさ。その証拠に、暑かったり寒かったり、散歩に向かん日になると、さっぱり姿を見せん。みんなすっこんで、ミルク・コーヒーかビールでもちびちびやってるのさ。そんなもんさ! 《スピード時代》が聞いてあきれるよ! 《偉大なる変化》だって! 謳い文句もほどほどに願いたいね! 実際のとこは、何ひとつ変わっちゃいない。相も変わらぬ連中の自惚れ、それだけさ。そういや、こいつも昨今今日に始ったことじゃない。言葉だけさ、いや言葉だって、どれほども変わっちゃいない! 数にすりゃ知れたものさ、それも、どうでもいい言葉だけ……」さて、憂国の名言を吐いてすっかりご機嫌になった僕たちは、腰をすえてカフェの婦人客に見とれだした。
(『夜の果てへの旅(上)』七―八頁、生田耕作訳・中公文庫)
登場人物アルチュルの長台詞。アルチュルはもう冒頭以降一切出てこない。セリーヌの小説に出てくる登場人物は、やたら長台詞を吐くことが特徴的である。しかもそれは、かなり独りよがりで、独白に近く、本物の会話とは思えない。
また、歯切れのよい短文の畳みかけという特徴も、既にここに現れている。〝昼飯のあとだった。先方は、話があるという。こっちは聞き役。「立ち話もなんだ」とやっこさん。「中へ入ろう!」ついてはいった。まずは、こんな次第だ。” 訳者がうまいというのもあると思うが、とにかく一文一文が非常にシンプルな節がある。そういう時は、読んでいて、思わず口をついて出そうな、頭の中に直接的に響いてくる文になっている。筆者は、これはセリーヌの文章の〈呼吸〉であると思う。それは後に『なしくずしの死』で発展する。
それでは、戦闘に参加している場面から、一節を引用しよう。
僕には一縷の望みしか、捕虜になる望みしか残されていなかった。そいつも心細いものだった、その望みも、ほんの糸一筋ほどの。暗闇の中の一筋の糸、だいいち悠長に挨拶なんか交わしておれる場合じゃない。帽子を脱ぐ間もあらばこそ鉄砲玉のお見舞いとくる。おまけに、そいつに向かって、ヨーロッパの向こう端からわざわざ僕を殺害しにやって来た、敵愾心に燃えた兵士に向かって言うべきどんな言葉があるのだ?……かりにそいつが一瞬ためらったとして(ほんの一秒で充分だが)その男に向かって僕はどう言うつもりなのか?……だいいちそいつは実際にどういう人間なのか? どこかの店員か? 再役職職業軍人か? それとも墓掘り人夫か? 非戦闘員か? 炊事係か?……馬たちのほうがまだしも幸運だ、やつらもやっぱり、僕らと同じように、戦争を押し付けられるにしても、それに賛成することを、それを信じるふりをすることを求められたりしないだけでも。気の毒な、だけど自由な馬たち! 愛国心は、嘆かわしいことに! ただ僕たちだけしか相手にしないのだ、この淫売女は!
(『夜の果てへの旅(上)』五十七頁)
〝どこかの店員か? 再役職職業軍人か? それとも墓掘り人夫か? 非戦闘員か? 炊事係か?〟 この連句で思わずクスッと笑ってしまう。非常事態に限ってありもしないことを妄想し、しかもその妄想の中身がさらに現実離れしているので、これを書いている作者が本気なのか冗談なのか全く分からない所がいい。緊張感はあるのに、変に滑稽な……それは読者を妙に癖づける。〝馬たちのほうがまだしも幸運だ〟というのもすごく面白い。主人公をマゾヒスティックに描く、そのことで不幸の連鎖をより際立たせるのはセリーヌの持ち味である。
この戦闘の場面において、主人公のバルダミュがいい所を見せる箇所は一つもない。臆病で、卑怯で、勘ぐり深く、逃げることしか考えていない。しかし、それがまた必死なのである。完全に生きる意欲を失っているのではなく、逃げることに必死、どうやったら戦争から逃れて生き延びるかに必死なのである。確かに研究や評伝などによれば、セリーヌ自身は反戦教育を受けてそれを当時から大変重んじていたという。そういう角度からこの場面を評することもできなくはないが、ここではバルダミュの人間らしさを見てとるべきではなかろうか。英雄になろうとしない、しかも戦争という狂気の時代で決して英雄になる方に向かわず、むしろそこから絶対的な距離を取ってひたすら反対方向へ行こうとするバルダミュの姿勢は、理想的でも滑稽でもない、人間のありのままの姿を写しているように思われるのだ。
続いては、奴隷のような身分でアフリカの奥地へ派遣される場面である。上巻の真ん中らへんである。
そこで奴は話しやめ、溜息をつき、ぶつくさ言い、また二、三度〈畜生!〉をくりかえし、汗をぬぐい、もう一度話の続きにもどった。
「会社のために君に出かけてもらう場所は、森のど真ん中だ、じめじめした場所さ……ここから十日はかかる……まず、海に出て……お次は河だ。真っ赤な河さ……おむかいはスペイン人の縄張りだ……出張所で君が交代する相手は、とんでもない悪党だから、気をつけたまえ……ここだけの話だから……言うがね……奴に計算書をよこさせようにも、手のつけようがない、畜生め! まったく手のつけようがない! いくら呼びだしをかけてもだめだ!……ひとりきりでいると、人間はすぐまともでなくなるのさ! 君にもわかるよ!……そのうち思い当たるさ! 病気だと手紙をよこしとるが……わかるもんか! 病気だと! わしだって病気さ! 病気がどうしたというんだ? みんな病気さ! 君もたちまち病気になるさ! 理由にならん、そんなものは! 病気だろうとかまっちゃおれん!……なにより会社だ! むこうに着けばさっそく奴の会計検査をやってもらいたい!……奴の出張所には三月分の食糧と、それに少なくとも一年分の品物があるはずだ……忘れんように!……夜は外へ出んことだね……用心するんだ! 奴には黒ん坊の手下がおるからな、そいつらをよこして途中で君を襲って、海へたたき込むかもしれん。訓練が行きとどいとるはずだ! 奴とどっこいどっこいの悪党どもだ! わかっとる! やつはその連中に、黒ん坊どもに君のことを耳打ちしとるにちがいないさ!……ここじゃよくあることだ! 出かけるときはキニーネも用意して行くことだな、君のをな、肌身はなさずに……奴が自分のに何かほうり込んどるのは、大いに考えられることだからな!」
(『夜の果てへの旅(上)』二百九―二百十一頁)
後にバルダミュが飛ばされることになるアフリカへの行程がいかに非道なものになりそうかがこの時点で分かってしまうシーンである(それは〝じめじめした場所さ〟という形容でも端的に示されている)。輸送を担っている会社の「支配人」とやらの、繰り返し吐きだされる「畜生!」も、滑稽で、どこか愛おしくさえ感じる。この世の上品さとか、希望とかの、そういったものの輝きから一番遠い所の、愚劣で、汚く、おぞましい世界の中で、登場人物もそういった下世話な人間ばかりである。もちろん、ここには過激さと誇張が見える。というか、セリーヌの方法は誇張、極端なまでの妄想的誇張である。しかしセリーヌはこの誇張を極端まで押し広げることで、逆に一貫した、破滅的な世界観を作り上げている。
〝病気だと! わしだって病気さ! 病気がどうしたというんだ? みんな病気さ! 君もたちまち病気になるさ! 理由にならん、そんなものは!〟 この台詞は実におぞましい。「みんな病気」だとまで言い切ってしまう、この社会の病理をたった一フレーズで言い当ててしまっている。ちなみにセリーヌは、かの社会主義者・マルクス主義者であるトロツキーから、彼の作品の非政治性を批判されているが、それこそお門違いというものであろう。先ほども述べたように、『夜の果てへの旅』を政治や社会に訴えるものとして読むのは非常に貧しいとしか言いようがない。確かに『旅』には、社会のどうしようもない狂気や貧困、資本主義の悪点等が夥しく描かれている。しかし力点はそこではないのである。これはセリーヌによる「まったくの想像による」生であり、文学的生であり、それに政治性や社会性を求める論評などまさしくセリーヌ自身から抹殺されてしかるべきだろう。
ここでもう一つ付言しておきたい。それは「!」と「……」の駆使がセリーヌの筆致の中で既にこの時点で完成の域に入っているということである。短文の畳みかけは、「!」という奇妙な感情の昂ぶりと、「……」という、どこへ消えいくのか、一言一言が闇となってその円環を閉じるような、一つの文体=リズム(呼吸)が成り立っていることである。この「!」と「……」を組み合わせた文章は、後のセリーヌの文体を一番際立たせることになる。
上巻の最後では、バルダミュは流れついたアメリカの街でしばし放浪生活を送る。ここで主人公のバルダミュは何人かの女性と自堕落な関係を持つが、女性に金や住む所をせびるという、「非道な男」ぶりを発揮する。もちろん笑いながら読んでいい箇所だ。しかしこのアメリカの場面は、それまでのシーンよりもどこか情緒が漂い、青春につきまとう悲哀や別れといった感情も描かれる。ここが処女作である『夜の果てへの旅』の、他の作品にはない特徴といっていいと思う。
引用しよう。
彼女を悲しませたくはなかった。僕の心づかいを察して、彼女はそれとなく探りを入れるのだった。とうとう、彼女のやさしさにほだされて、僕は自分につきまとって離れない逃亡癖を彼女の前にぶちまけてしまった。何日も何日も彼女は僕の話に耳をかたむけてくれた、僕が長々と弁じたてるのを、胸糞が悪くなるほど自分のことばかり喋りまくるのを、さまざまの幻想と傲慢の中であがきまわるのを聞いても、彼女はすこしも業をにやす様子はなかった。どころか、ひたすらその空しい愚かな苦悩を克服するために僕の力になろうと努めていた。僕のたわごとの目的は彼女には十分理解できなかった、がともかく彼女は僕の意のままに、幻影を敵に、或いは幻影を味方に、僕の側についてくれるのだった。やさしい説得で、彼女の善意は僕にとって親身なほとんど切実なものにすら思えはじめた。すると僕は、自分の手におえぬ運命、自分で自分の存在理由と考えているものをごまかしはじめているような気がするのだった。で、もうふっつり自分の胸のうちを彼女に話すことはよしてしまった。ひとりぼっちで自分の中へ引き返すのだった、以前よりさらに不幸になったことですっかり満足して、というのは自分の孤独の中に、僕は新しいかたちの苦悩を、身を切るような思いに似た何物かを持ち込むことができたからだ。
(『夜の果てへの旅(上)』三百六十九ー三百七十頁)
苦悩、運命、不幸、孤独といった一般的な用語が使われ、一種の悲哀な情緒を醸し出すことに寄与しているのが分かる。〝僕のたわごとの目的は彼女には十分理解できなかった、がともかく彼女は僕の意のままに、幻影を敵に、或いは幻影を味方に、僕の側についてくれるのだった。〟という一節でも、幻影というのが何のことかすぐには分からないが、おそらく語り手バルダミュの妄想や幻想じみた所を指している。そうしたバルダミュの人生について回る幻影をある時は忌わしいものとして、あるいは愛しいものとして、話の聴き手(ここではモリーという女性)がバルダミュの語りを親身に聞いている姿が伺える。『夜の果てへの旅』の数少ない愛のこもった場面である。
さて、物語の後半(『夜の果てへの旅(下)』)では、バルダミュは故国フランスに帰って医者として世にも奇妙な仕事生活を送りはじめる。その珍奇さはセリーヌの筆致にしかないと言えるのだが、物語の終わりにむけて話も文章も、終わりに向かっていく運動が凄まじいまでに加速される。ある小説家は、『夜の果てへの旅』は後半の二百頁(中公文庫では上下合わせて八百頁)ほどが余計だ、と言ったらしいが、それも微妙に的を外した言いであろう。確かに後半は長く、だらだらとした場面が続くこともあるが、それはバルダミュの医師としてのふがいない、実にやるせない生活をリアルに写しとるものとして効果的である。終末で文章もほとんど壊れかけている所から引用して、『夜の果てへの旅』の検討を終わろうと思う。
はるか、かなたに、海が見えた。だが、それについて、海について、いまではもうなんの空想も働かなかった。なすべきことはほかにあったからだ。自分の生活に二度と直面せぬために、姿をくらます努力を試みてみたが、無駄だった、いたるところでたやすくそいつに出くわすのだ。自分に戻るのだ。僕の放浪、そいつはもうおしまいだった。ほかの奴らの番だ!……世界はもう一度閉ざされてしまったのだ! 果てまで来ちまったのだ、僕たちは! 縁日といっしょだ!……悲哀をいだくだけでは不十分だ、もう一度音楽を始め、さらに悲哀を求めて出かけるだけの元気がなければだめだ……だけどほかの連中の番だ!……要するに、それは青春の回復を願う気持ちの表れだ……僕に気兼ねは無用だ……第一、僕にはもうそれ以上耐え忍ぶ覚悟もなかった!……そのくせ僕は人生でロバンソンほど遠くまで行きついてもいなかったのだ!……結局、成功しなかったのだ。奴が痛めつけられる目的で身につけたような、頑としてゆるがぬ一つの思想を、僕はついに物にすることはできなかったのだ。僕のでっかい頭よりもまだでっかい思想、その中に詰まった恐怖全体よりもでっかい思想、みごとな、堂々たる、おまけに死んでいくのにすこぶる重宝な思想……つまり、この世のなにものよりも強力な思想を自分につくりあげるためには、僕には生命がいくつあればたりるのだろう?……答えられなかった! 失敗だった! 僕の思想ときては、隙間だらけの頭の中でぐらぐらしていた。そいつは忌わしい恐ろしい世界の真っただ中で、生涯震え、またたきつづける、みすぼらしい、ちっぽけな蝋燭みたいだった……
(「夜の果てへの旅(下)」四百十一―二頁)
三 「なしくずしの死」
簡単に言えば、長編作品「なしくずしの死」は、更に破壊と呪詛の強度をあげている、それも全般にわたって、ということになるだろう。河出文庫の上下巻でもいいし、国書刊行会から出ている「セリーヌの作品」シリーズでもよいので、適当に頁をぱらぱらめくってみると、それは一目瞭然である。
「なしくずしの死」は、町医者をやっている主人公フェルディナンが、彼の幼少時から青年期となってどうやら軍隊へ行くまでの、回想の形をとっている。冒頭の町医者としての生活からすぐに一転してフェルディナンの幼少時に移り、そこでは会社勤めをする父と、洋服店を経営する母に翻弄される、躾けもままならない、勉強をやらせても駄目だ、それなのに就職してもやる気を見せない哀れなフェルディナンの貧しい家庭が描かれる。
ちなみに、この作品をセリーヌの自身による伝記と見なしてはまずいし、セリーヌの生活が実際どうだったかという比較論もおよそ話にならない。何故なら、セリーヌはいつも物語の過剰、妄想にして破壊的な膨れ上がりを付け加えるからである。そういう論評が幾つも見られたのは残念としか言いようがない。
それにしても驚くのは、隠語や卑猥な言葉のオンパレードである。次の引用は、フェルディナンの家族が旅行に行くその船内での道中の場面だが、セリーヌのユーモアが炸裂している。
ずんぐりした、見るからに横柄そうな男が女房が小さなたらいに吐くのを助けていた…… 元気づけていた……
「さあ、レオニー!…… かまわないから!…… わたしがついてる!…… おまえをつかまえててやるから」そこで、彼女は急に頭をぐるりと風の方向に向ける…… 口の中でごぼごぼしていたシチュウを全部、まともにわたしの顔に引っかける…… わたしは歯いっぱいにいんげん豆とトマトを食らう……もうなんにも吐くものはないはずだったのに!…… ところがそいつがまたあるってわけだ……ちょい、味わってみる………腸が上がってくる。さあ、底の方、しっかりやれよ!…… そいつが動き出す!…… 大きなお荷物がわたしの舌を引っ張ってる…… わたしの腸をそっくり彼女の口にお返ししてやれ…… 手さぐりに彼女に近づく…… わたしたちは二人とも静かに這い回る……たがいにかじりつく……平伏する……抱きしめ合う……そして相手の口の中に吐く。善良な父さんと彼女の夫とは、わたしたちを分けようとする…… それぞれ端を持って引っ張る…… 彼らは永久になぜだかわからないだろう……
いやしい恨みなんぞはどうぞご勝手に! ブワーッ!…… その夫は野卑で、頑固な人間だ!…… おいで、坊や、あんな男は二人でいっしょに吐いちゃおう!…… わたしは彼の美しい女にもじゃもじゃしたうどんの塊をそっくりそのままお返しする……トマトのジュースといっしょに…… 三日前の林檎酒も…… 彼女は自分のグリュイエール・チーズをすする…… 母はロープがからまって縛られたみたいになっていたが、ゲロのあとから這ってくる…… スカートの中に子犬を引きずって…… わたしたちはみんなその頑強な男の妻といっしょにのたくった…… 彼らは手荒くわたしを引っ張る…… 彼女の抱擁から引き離そうと、男はわたしの尻を靴でめっちゃめちゃに蹴っ飛ばす…… 《でっかいボクサー》タイプのやつだった……(略)
(「なしくずしの死」百九頁、滝田文彦訳、1978、集英社)
もう一つ、引用しておこう。
《走り使いの女》の中には、ずいぶんスベタのがいた……彼女らはときには尻の穴が見えるよう、わざと腰掛の上に高く足をのせた。それから嘲笑いながら立ち去った……一人の女なんぞは、わたしが通りかかったときに靴下どめを見せた……そしてチュッチュッと吸う音をたててみせた…… わたしはちびのアンドレに話をしにまた上に昇っていった…… 二人で考えた…… その女のワレ目はどんなだろうか? うんとつゆが出るんだろうか? 黄色だろうか? 赤色だろうか? 熱いだろうか? それから太腿はどんな具合だろう? われわれは自分でも舌と唾とで音を立てて、キスのやり方をまねてみた…… でも、そうしながらも、われわれは一時間に二十五枚から三十枚をやってのけた。ちびのアンドレは針を使うことを教えてくれたが、それは布の端を縫うのにいちばん重要なことだった…… 斜めに縫った端のあとの……小さな折り返し。そこをとげのように両側から刺すのだ……それぞれ少しばかりチクリと…… 滑らかな裏面を汚さないようにすることを覚えなくちゃいけない…… まず最初に手を洗わなくちゃいけない。それはたいへんな技術だ。 (「なしくずしの死」百二十五頁)
船酔いした客がお互いに吐瀉物を相手の口の中に吐く(「そっくりそのままお返し」)など、通常ならまずありえない事態だろう。おまけに吐瀉物の内容をいちいち書くなど、呆れかえるばかりだが、ここまで徹底されると凄みを増してくる。次のシーンでも、尻の穴が見える女中というのもまたありえない想定だが、そういうありえなさをとことん徹底して、下らなさの極致に至ろうとするのがセリーヌの戦略であるとも言えるだろう。
息子のこととなると血の気を上げまくる父と、いつも息子の心配をしてくれる母という家庭環境には、読者を同情に誘うものがある。
「死ぬだって、おれが? これはこれは! 死ぬだと? ああ! おれはそれしか望んでいない! 死ぬことだ! とっとと! やれやれ! おまえがなにを言おうと、糞食らえだ! おれは死を望んでいるんだ!…… ああ! 畜生!……」
彼[引用者註――フェルディナンの父のこと]は逃れて、無理に振りほどき、母のクレマンスをひっくり返す。こうしてまた立ち上がると大声にわめきだす…… 父はそんなことを考えたことがなかったのだ……死だなんて! 畜生…… 自分の死!…… で、またものすごい興奮状態に陥る…… 完全にそれに身を献じる……またまた元気を取りもどす!……蛇口のところに飛んで行く!…… 一口飲もうとする。ツルッ! ドシン!!!…… 彼は滑る!…… 衝突する!…… 四つん這いになって滑っていく…… 食器戸棚の中に突っ込む……食器台に跳ね返る…… 大声で叫び、それが八方にこだまする…… 彼は鼻を怪我した…… 掴まろうとした…… あらゆる品がいっしょくたに、われわれの顔の上に倒れてくる……あらゆる食器、道具、大燈台が…… 滝だ…… 雪崩だ…… みんなはその下に圧し潰される…… たがいに相手の姿も見えなくなる…… 母が残骸の中で叫んでいる……「お父さん! お父さん! どこにいるの?……返事してよ、お父さん!……」父は仰向けになって長々と伸びている…… わたしは父の靴が台所の赤い《速乾性の》タイルの外にはみ出しているのを見た!……
「お父さん! 返事してよ、ねえ? 返事して! ねえ、あなたってば!……」
「糞っ! おれは絶対静かにほっといてもらえないんだな!…… おれはおまえたちになにもしてほしくないんだ、畜生!……」
(「なしくずしの死」百七十七頁)
それにしても、フェルディナンは勤めるところ勤めるところで、ロクな事がない。社会の人間は腐っているし、何かやらかして辞めて家に戻ってくると、父が卒倒を起こす。この辺は喜劇でもあるし、同時に何か私たちの心を強く惹く一種の哀れみといったものが描かれている。
物語の後半は、叔父の薦めで秘書勤めをすることになった、科学技術を取り扱うジェニトロン社の社長、クルシアルとの生活一辺倒になる。このクルシアルという男がまた、面白い。いずれこのクルシアルも(同じように)駄目になって、妻と諍いを起こし、そのドタバタ劇の中に主人公フェルディナンも巻き込まれていく。
クルシアルの独特の長台詞を引用しておく。
「フェルディナン!」と、彼[クルシアル――引用者註]はいきなり言った! 「なんだと? きみはわたしに向かってそんな口を聞くのか? このわたしに? きみが、フェルディナン? やめろ! ああ、頼むから! お願いだ! わたしのことをなんと呼んだっていい! 嘘つき! 大蛇! 吸血鬼! 凍傷! わたしの言うことが、言うに言われぬ真理の厳密な表現でないとすればだ! きみはもう考えたことがあるんだろ、ちがうかね、フェルディナン? きみのお父さんを抹殺しようと? すでに? やれやれ! そいつは事実だ! 思いちがいじゃないだろ? とんでもない空想じゃ? そいつはまさしく事実だ! この上もなく嘆かわしい!…… 何世紀かかってもその恥は取り消せないようなとんでもない振る舞いだ! そうだとも! やれやれ! でも、まったく正確にそうだ! 君は今となって、それを否定しようというんじゃないんだろうね? わたしは事実をそのまま述べているだけだ! で、なんだね? さあ、今度は? きみはどうしたいっていうんだ? 言ってみろ? 今度はわたしを抹殺しようというのか? そいつは明白だ! そう! はっきりしている! 利用しようってんだ!…… 待とうというんだ!…… 捕まえようというんだ、好都合な瞬間を!…… わたしがのんびりしてるとき…… 信頼してるとき…… で、わたしを殺害しようってんだ!…… 抹消しようと!…… 消滅させようと!…… それがきみの計画だ!…… わたしがなんに気をつけていたと思う? ああ! まさしくそうだ、フェルディナン! きみの本性は! きみの運命はほの暗いエレボスよりもなお暗い!…… おお、きみは不吉だ、フェルディナン! そうは見えないが! きみの水は濁っている! なんと多くの怪物が、フェルディナン! きみの魂の襞の奥底に入ることか! 彼らは逃れゆき、蛇のようにくねっている! どれだけいることか、わたしは知らない!…… 彼らはいなくなる! すべてを運び去る!…… 死だ!…… そうだ! このわたしに! きみはこのわたしに対し、何千倍も生命以上のものを背負っているというのに! パン以上のものを! 空気以上のものを! 太陽以上のものさえ! 〈思考〉だ! ああ! それがきみの狙っているものなんだ、爬虫類め? じゃないのか! 飽くことを知らず! (略)
(「なしくずしの死」三百四十二―三頁)
「なしくずしの死」を読み終えた人は、このクルシアルの「なあ、フェルディナン!」という呼びかけを忘れることができないだろう。
四 不穏にして不敵な文学
さて、このようにしてセリーヌの二つの作品、「夜の果てへの旅」と「なしくずしの死」を簡単に見てきた。まず言えることは、「なしくずしの死」は「夜の果てへの旅」の進化・発展したバージョンに見立てることができるということである。プロットらしきものは両作品ともにあり、「旅」は仮想上の人物、バルダミュが主人公で、「なしくずし」ではセリーヌの本名を思わせる「フェルディナン」が主人公だが、両作品とも非常に似通った部分がある。そして、「旅」の前半ではある程度文章が統一され、後半で……や!が多用されるのに対し、「なしくずし」では最初から最後までその独特な表現が一貫している。さらに、「なしくずし」では反秩序、隠語、卑猥、猥雑といった世界のオンパレードになっており、しかし実はそれは「旅」でも時折見られるものでもある。それが「なしくずし」では全開になっているとみてよいだろう。
本記述中には紹介しなかったが、「なしくずしの死」の、クルシアルの出てくるパートの結末は、何というか非常に胸が悪くなるような、非常に希望の無い終わり方である。「旅」に見られた情緒的な部分はあまり無いと言ってよい。
どちらにせよ、「なしくずしの死」は、「夜の果てへの旅」に見られた破壊的・否定的・反秩序的な部分をさらに拡散させた作品ともいえ、そういう意味では処女作の「旅」が全てだったとも言えるし、「なしくずし」こそが本領を発揮しているとも言える。二つは合わせ鏡的な作品なのである。
そうした事を踏まえ、敢えてセリーヌの文学を形容するとすれば、「不穏にして不敵な」作品、ということができるだろう。それは不穏で、破壊的で、罵詈雑言や隠語や呪詛に満ちているのだが、だからといって決して世の中や自分自身への絶望や、悲哀に陥るわけではない。セリーヌはブラックユーモアやしょうもない話をとにかく徹底させることによって、この壊れた世界を笑い飛ばすのである。それはとにかく不敵な姿である。
最初にも紹介したが、セリーヌはその人生が文学作品そのもののような破滅的、波乱万丈の人であった。彼が書きつける作品もまた、この世の憂いや怒りに満ちながら、なおかつ不敵な笑いを飛ばしまくる、勇ましい戦士たち――戦争機械なのである。 (了)