黄桃缶詰
SINCE 2015
活動再開!2019年4月発表をめどに小特集「曖昧なる境界線」が決定!(1/28)
はる「ロジウラ」、misty「時間喰いのモービーディック」の原稿を掲載しました!(11/25)
しばしの間休載。(9/12)
魚群の殻
峯崎澪一
僕が煙草を吸っていると屋外の喫煙所に女が入ってきた。実際はここに入ってこなかったのかもしれないし、あるいは彼女はもともとそこにいたのかもしれなかったが、スタンド型の灰皿が四つ設置されたおよそ三、四メートル四方の空間のうちには僕を含めて既に四人の男の姿があり、無精髭を鼻の真下の窪みに沿って蓄え、胸の周りに溜まった贅肉の圧力で背広の釦を斜めにしながら穴の外側へと押し出そうとしている中年の男、黒いニットの脇から縮れた長髪を横に分け、頬の輪郭に沿って不規則な流れで垂らし、そのせいで分厚い頬骨が目尻の下に仰々しく浮かび上がって見える若者、植え込みに尻の後ろ半分だけを載せるかたちで腰掛け、煙草のフィルター部分を咥えながら耳と肩の隙間に携帯電話をあてがい、日射に照らされて周囲に刻まれた皺が目立つ唇で悲鳴とも怒号ともつかない奇天烈な声色で喚いている男が僕の視界の大部分を支配していて、女がいつ喫煙所に入ってきたのか僕はほとんど気がついていなかった。肺に溜め込んだままにしておいた気泡を僕が時間をかけて吐き出しながら、遠くの方に女がいるなと漠然と考えた。女は喫煙所の入り口で四人の男の姿を認めると首筋を真上に向かって吊り上げる恰好で頭頂部を左にもたげ、そうしたことで皮膚の奥底に見えていた血の気が一瞬引いたように思われたが、真昼の激しい陽射しに曝されて普段は長髪の陰に隠れていた肩から首にかけての蒼い部分が顕わになっただけだった。
女は水色のブラウスの上から日避け用の薄いカーディガンを羽織っており、真っ直ぐに下ろされた長髪の隙間から浮き出た白い耳に細い長方形のピアスが垂れ下がっていた。チェック柄のロングスカートの裾から足首までを覆う窮屈なレギンスが伸びている。右手の人差し指と小指にそれぞれ小ぶりな指輪が填まっている。若々しく見えたのでまだ学生だと思われる。女学生は少し離れた僕の斜め前、黒いニットの男が足首を交差させて不安定な恰好で仰け反っている灰皿の傍まで小走りで駆け寄ってくると、右脇に抱えていたセリーヌのクラッチバッグを不用心に探り始めた。彼女の骨の張った蒼白い右手の人差し指が親指の爪に隠れる恰好でポーチの奥から柔らかな紙の直方体を掴み取る。箱の側面には赤い円形の内側に白い英字、赤の周囲に白、金、黒のドーナツ状の曲線、線は潰れて円の中心に向かって吸い込まれるかたちで脆弱な起伏をつくっている。箱の底部を支えていた小指の先に微かに力が込められると開いていた箱の入り口に一本の煙草が飛び出てくる。箱の側面を押さえつけていた人差し指と親指の腹が上方に滑るかたちで突起したフィルター部分を摘まみ上げ、腕が持ち上げられると同時に人差し指の第一関節が内側に向かってきりきりと丸め込まれ、指輪と肉の間に何重もの襞が浮かび上がっているのが見えた。煙草を口元に運んでゆく過程で中指の背が紙の筒の中ほどに添えられ、中折れしないようにと小刻みに震えている。左手の掌に包まれたライターの安全装置は親指の爪の先で器用に左から右へとスライドされてゆく。ライターには成熟した人魚の女が描かれていたが、写真のように精巧な絵柄でありながら現実離れした体軀を横たえている人魚の表情は、彼女自身が頬の上に開いた掌の甲に隠されてここからでは見えにくい。汗が乾いて粘ついた親指の先端がライターの上部に爪立てられ、カシャリと着火ボタンが押し込まれると風避けのために煙草の先端を包み込むように丸められた五本の右手の指の奥で仄明るい火柱が微細に揺れ動きながら立ち上がる。人差し指の爪の付け根に皺を寄せている乾燥した皮膚が暗赤色に照らされてほんの一瞬だけ透明になる。筒の先端が炎に炙られ煙草に火が点き、女学生が湿った唇から煙を一筋吐き出すと、彼女はくるりと向こうを向いてしまい、筒を挟む二本の指は線の細い背中の影に隠れてしまう。
僕がもう一本煙草を吸おうとポケットに右手を差し入れると、スラックスの膨らみの中でわらわらと蠢く細長い感触が薬指の甲にぶつかった。根元まで箱の中へと指を挿し込んでみると、棒状のぬめぬめとしたものが四方から巻きついて強く握りしめてくるようである。引き抜いて目の前に出してみると普通の煙草である。何となく幻滅した気分になって火を点けると、斜め前の女学生が煙草を支えていた中指の背を舌の先端でなぜつけていた。薄赤い肉の厚みが蚯蚓腫れを引き起こした指の表面を柔らかく拭き取ると皮膚が唾液で濡れて生温かくふやける。ひび割れた彼女の指には僅かに鮮血が滲んでいて、傷口は今にも治りかけているというところだった。
燃え尽きた煙草の先端を落とすために灰皿の近くまで歩み寄った時、上部に開いた数十個の穴の奥で水面に浮かぶ吸い殻の群れに紛れて小ぶりな黒い影が横切っていくのが見えた。それは僕の額が絶えず降り注ぐ光線を遮って水溜まりの上に作りあげた僅かな日陰の一部なのかもしれなかった。黒い影は脂が斑模様に広がっている水面から頭頂部を突き出して全長を顕わにするかと思えば、その場で一周半旋回した後に水底へと沈み込み、深い暗がりの中をちょろちょろと進んでいきながら呼吸をするような動きで頭部の先に開いていた口と思しき器官をぱくぱくと動かしている。再び上がってきた影は途中で折れ曲がったり短くなったりした吸い殻の隙間を通り抜け、全身に粘ついた脂と泥を受けて鈍い動きになりながら周囲の状況には無頓着な様子でひたすら泳ぎ続けている。僕が灰を落とすと影はぱさりぱさりと切り落とされてゆく粉の塊を頭部の先でつつき始め、汚れた白い灰の一角は形を崩してそのまま水中に溶け出す。焦げた紙屑が液状に漂って吸い殻の色を薄蒼く奪いながら広がり、水溜まりの中を動いていた影も次第に生々しい白さを表面に帯び始め上唇と下唇がぶよぶよと膨らみを帯びてゆく。柔らかな筒状のものが汚水に差し込まれ、水面に触れた途端に先端が弱々しく捻れたが、それが金属の輪に締めつけられた根元まで水に浸かると今度はぴんと張り詰め、関節を軽く折り曲げては伸ばすを繰り返している女の人差し指であることに気がついた。女学生は僕の立つ場所とは対角線上の灰皿の傍で足を組み交わし、唇の隙間に開いた空洞を両頬の筋肉でぷるぷると広げている。僅かに緊張している。女の右手の人差し指は魚影の背中を探し当てると鱗の柔らかな側面を突くために鉤状に丸め込まれ、それだと水の中で泳ぐ小魚を追うには指の全長が短くなりすぎてしまうので、袖を捲った腕ごと水中に突っ込んだ。入れ物から深緑色の液体が溢れ出し彼女の衣服に濃紺の染みを落とす。水槽が小さいのよと彼女が笑った。ケースの表面で天井から落ちてくる照明が屈折し、水槽の中に差し込まれた手首から先だけが厚ぼったくなって、肘の辺りから身体の末端に向かうにつれ徐々に細まってゆく線の細い肉感が突然腐って膨れあがっているように見える。手の甲に繋がっている五本の異なった形をした棒の肉がそれぞれ別の生物のように思われてくる。一本だけ他とは異なる方向に伸びている親指、リングに皮膚が引き延ばされて爪の面積が広がる人差し指、中指の背では毛穴が開いていて表面に透明な産毛が揺れている、薬指は人差し指より長いが太くていびつな形をしている、小指の先を見ると魚が剥がれかけた皮膚をぺたぺたと啄んでいた。ドクターフィッシュは歯がないので舐めるように人間の角質を食べるという。だから女の指は傷つくことなく、水槽を流れていた他の魚群も彼女のそれぞれ五つある軸を回転する動きで纏わりつき、彼女の指は洗練された蒼白い輝きを取り戻し始める。魚の口元でぶかぶかと揺れる古い皮膚が削ぎ落とされ、下方から押し上げてくる薄い気泡の流れに微塵にされてしまう。朽ちた角質を魚が残さず食べる。魚はやがて指先を覆う爪までも綺麗に唇で剥がし取り、捲れた皮膚を濯いで、一点に繋ぎ止められた束縛から五本の指をそれぞれ解き放つのだろうと僕が考える。ここまで考えて煙草を根元まで吸っていて危うく火傷しそうになっていたことに気がついた。女学生は中折れした煙草を突きながらライターを取り出し生焼けになった先端を炙っている。透明なマニキュアが塗られた指先から伸びる鋭利な爪は先が焦げて変形しており、中央がほんの僅かに浮いて肉と爪の間に丸い空洞が出来上がっていた。透明な垢の溜まった関節の裏側、指の背に刻まれた細かい皺と毛穴、リングが少しずれて皮膚に付着した銅の緑色、傷口を舐めすぎたせいで唾液のざらつきが浮いている付け根、汚い指だがそのぶん愛おしく感じた。僕がスラックスのポケットに右手を入れると、太腿に沿って膨らんだ縦長の感触が人差し指と中指と薬指のそれぞれの二つの隙間に浸潤し、根元と根元、関節と関節で絡まり合い融け合い、どこまでが自分の指でどこまでが他人の指なのかわからなくなる。これは自分の小指でこれは誰それの薬指、いや違う、これは親指であって、引き出してみてライターで先端を炙ってから、別のものだったと慌てて火種を消して仕舞い直し、煙草を咥えて苛つきながら一吸いすると目の前で背を向けて立っていた太った無精髭が何となく不愉快そうな様子で僕の手元に視線を寄こしている。眼差しがある。見られているなと僕が思ったのでスタンドに灰を落とすと、餌と間違えた魚の群れが水底から一斉に蠢きだし、底部に敷かれていた砂利の舞い上がる白さと魚たちが啄んで崩れた灰の黒さが混じって蒼い泥水となって広がる。無精髭も灰を落とす。二人で無意味に灰を落とした。ほとんど透明でなくなった濁った汚水の中で魚の群れは右往左往していた。
女学生が吸い終えてひしゃげた吸い殻を穴の中に落とした。水槽の中にまた一本入ってきたと僕は思った。水面に対して垂直に差し込まれた筒は水分を含むと白く膨張しながら傾き、一旦沈んでから軸に沿って回転しつつ半身を外気に曝すかたちで浮かび上がってくる。水槽の外側から挿入された太い管からカタカタと吐き出される外気の塊を下方に受け止め、水に膨らんだ太い筒は微細な振動を続けている。魚たちは今度こそ指だと確信してぼろぼろに朽ちた棒状の物体の周辺に群がり、それぞれが分厚い上唇と下唇を押しつけている。僕の背後で女がソファに跨がって眠っている。まるで眠っているようだと思う。指を失った女は女の抜け殻で、女を失った指こそ女なのだと僕は水槽に揺れている殻を凝視しながら考える。掌から切り離された人差し指にはまだ余分な皮が多い。肉を締めつける指輪も邪魔で、しかしこれはなかなか抜けない。魚は飢えたら肉まで食らうのだろうかと考えた。水槽のケースの長方形が輪郭を歪めて透かしている液体の中で、魚群の口元に付着している空気の粒の一つ一つが水槽越しに僕を見つめる眼球の濁色を帯びる。魚の一匹が肉片から離れてこちらに向かって泳いできた。すると群れがそれに続いて迫ってきた。黒々とした瞳が無数の穴になってあらゆる角度から僕の全身、細部、人差し指と中指の隙間に挟まれた煙草の一本を見つめていた。僕が煙草を灰皿に捨てると穴の中でサーッと吸い殻の温度が下がる音がした。火種は水に溶けると白く薄く広がった。
やがて喫煙所に小雨が降り始めた。最後の一本に火を点けたばかりだったのでこれだけ吸ってしまおうと僕が考えていると、斜め前のスタンドで吸っていた女学生がまだ七割ほどは残っている煙草を名残惜しそうに見つめていた。傘は持っていないようだった。彼女の額に水滴が一粒落ち、目尻の脇を流れると化粧が落ちて黒い一本の筋が顔の輪郭の内側に曲線を浮かべた。もう一滴落ちてきた。結局女学生は煙草の火を消し、本当に火種が消えているか一旦人差し指をひっくり返して確認してから吸い殻を捨て、片足を引き摺りながら足早に立ち去っていった。半透明の仕切りが立てられた喫煙所を抜け出し、彼女がポーチから取り出したミントのタブレットを一粒だけ口の中に放り込む。放り込むついでに右手の人差し指の先を犬歯で噛み千切っていた。爪を噛んでいるのかと思ったが爪の根元にささくれ立っていた古い皮膚を剥いでいるらしかった。開かれた傘の群れに隠れて女学生は身なりを整えている。横断歩道の信号を待っている間彼女は終始忙しなかった。右手と左手から伸びる細く蒼い指の一本一本が前髪や服の裾に触れ、表面をかさかさと撫でる動きをする。指紋が付着し微かに脂がかる。
信号が青に変わり横断歩道を渡ろうとした時、向かい側から男が歩いてきた。男は女学生の立ち姿を真正面から眺めていたが、彼女はそのことに気がついておらず、一直線に出来上がった歩道の流れに沿って人いきれの中を進んでゆく。男は道路の中ほどで立ち止まり、後ろから続く歩行者が迷惑そうに視線を投げかけていたが、男もまた自分に向けられている眼差しには気づいていない様子だった。男はただ一点から女学生を見つめ続け、彼女も不用心なまま男に近づいてゆく。二人がほとんど間近な距離まで迫ったところで女学生があっと表情を変えた。男はそれでもまだあらゆる方面から向けられていた視線の集合点が自身にあることに自覚がなかった。女学生は目の下に右手の人差し指と中指を開き、頬の脇に浮かび上がった黒い一本の曲線を恥ずかしそうに指の背で擦った。そしてそのまま二本の指でVの字をつくり、蒼黒く血管の透けて見える指の腹が見えるように頬の上に載せて緩やかに微笑んだ。
その時ちょうど僕の手元から一本の煙草が落ちた。まだ半分ほど吸える箇所が残っている煙草と雨水を吸い込んでぶよぶよに膨れあがった黒い吸い殻が足元に二つ落ちている。僕が屈み込んでその三本を拾おうとした。すると喫煙所に残っていた三人の男が一斉に声を張り上げた。「おい、大変だ、雨が降ってきたぞ」「ついさっきまで晴れていたじゃないか」「どうしていつも吸い始めるとやられるんだ!」……
(了)
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