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​Romance   光枝 初郎

​(20000字)

 治療室から戻ってくると、エアコンから送られる暖かな空調にSは感動するものを覚えた。個人経営の小さなクリニックの歯医者はSの知っている限りでは東京の最先端の歯学を完璧に習得し、洗練された治療と「居心地の良い実に快適な空間」を提供していたので、患者の予約が常に殺到しているのだった。ただどういう訳かその日は空いていて、Sの他にはくたびれたスーツに包まれた若いサラリーマン男性が仕事の合間を縫って診察を待っているだけだった。待合室は空色がかったすっきりした印象を与える壁で、ピンク色のソファが置いてあった。「お疲れ様でした」と先生の声が治療室の方から聞こえ、Sは半ば自動的に頭を下げるとソファにゆっくり腰を降ろした。

 右の奥歯の痛みがとれている。それはSにとって実に爽快な出来事だった。あれほど肉や魚料理を食べる度に苦労し、イライラと神経はすり減らしていた日々とはお別れだ。ハレルヤ!なんて思わず口ずさんでしまう気持ちだった。

 Sの斜め横には受付カウンターがあって、Sがくつろいでいる間に先生の奥さんでもあり助手をしている夫人が戻ってきた。彼女はマスクを着けたままSに笑みを向けると事務仕事をはじめた。そこで私はふと尿意を感じはじめた。トイレはどこにあるのだろうか。Sはあたりを見回したが、それらしき表示は見当たらない。Sはソファから立ちあがると、夫人に尋ねた。「すみません、トイレはどこでしたっけね」夫人は顔を上げると横髪を華麗に揺らしながら「トイレは実はこの下の階にあるんですが、ちょっと分かりづらいんです。私がご案内します」と言った。ここは地上なので、下の階があるとは要するに地下ということだ。果たしてここにそんなものがあったか、とSは疑問に思ったが、それは口に出さずに「いえ案内なんて。道筋を教えて頂ければ」と言った。

 「いいですよ、本当に分かりにくいですし。ご案内します。どうぞ」夫人はそう言って受付から出てきた。Sは申し訳なさそうに「じゃあお願いしますね」とだけ言って夫人の後についた。

 夫人は待合室の横の、普段はカウンセリングルーム――インプラント治療の事前説明や、持続的な歯の治療計画を患者に説明する際などに使われていた――として使っている奥まった部屋を横切って、さらに奥の非常階段に続いた。緑の暗いランプが下へと続く階段を照らす中、夫人はSの二歩先を歩いて誘導した。Sと歯医者夫人の二人分の靴の音が異様なまでに寂しくコツンコツン……と響く。「お母様は」と夫人はにこやかな表情を浮かべてSの方を振り返った。「お母様は元気にしていらっしゃいますか。最近お見えになられないようなので……」Sの母親も同じこの歯医者にかかっているのだ。Sの母親は医者という人種が特に好きで、よく「お医者先生、先生」と親しげな関係を彼らと交わしていた。Sの母親はその「歯医者先生」にSの私生活のことまでべらべらと話すし、先生の奥さんである夫人にSの普段の生活模様が筒抜けになっているのだった。Sはどちらかといえば治療室の中では寡黙な方なのだが。「ええ、元気ですよ、ただ腰の方がね……」「ああ、奥さまは腰をだいぶ痛められていましたよね!」「はい、その後結局入院しちゃったんです」

 「そうなんですか? 入院?」とその時になって夫人は下っていく階段から眼を転じてびっくりしたようにSの方を向いた。Sは軽く弁解するように、「でも、もう退院しました。一週間くらいの……そう、一週間で退院ですね。ええ。今も週に一回外来診察に通ってます」

 「そうだったんですね……大変でしたね」

階段はある所までくると百八十度向きを変えて再び下降し、以前として非常階段であることを示す白と緑の妖しい光が二人を照らしていた。すると地下の踊り場のような場所に着いた。そこの地面はゴツゴツしたコンクリートで足場が不安定で、おまけに雨が何かの水でびしょびしょに濡れていた。広い空間には、天井には眩い白色灯が吊るされてあってその光の強さは下からでは直視できない程だった。まさに地下室というべき場所で、Sには咄嗟に非常に危ない場所だと思われた。Sと夫人が階段から到着した場の奥の方に、男性トイレ・女性トイレを示す黒と赤で塗られた人形のマーク印が見えた。最も男性トイレは半ば開放されており――女性トイレは堅牢の如く扉に閉ざされていた――、二人が立っている位置からでも内部が見えた。Sはそこで「それじゃあありがとうございました」と言ったが、夫人は柔らかい表情を変えずにただ頷くだけだった。……「あの、もういいですよ。また上へ行ってきちんとお支払いを済ませますので」「分かりました、それでは上でお待ちしております」夫人はそう言うと、地上と地下をつなぐ階段を静かに昇っていった。Sは考えた。僕が支払いを逃れることを怖れて夫人はここに留まろうとしたのだろうか、トイレの中まで案内しそうなほどの様子だったから……。しかしSは先ほどまでSの横で柔らかな口調で喋ってSを案内していた夫人のよく整えられたポニーテールの黒髪や、そこから透けて見える白いうなじのことなどを思い浮かべて甘い感傷に浸っていた。

水に濡れたコンクリートを靴で踏みしめSは男性トイレに向かった。よくあるパーキングエリアにありそうな、汚い男性用の便器が十個ほどずらりと並んでいた。Sは一番右端のそれに構えて用を足した。真ん中の便器に四十か五十代くらいのよれた服を着た男性が同じように用を足していた。僕らはもちろん黙ったままだ。歯医者の先客だろうか。その男性はSよりも早く用を済ませると、洗浄のボタンを押した後便器の中にペッと黄色い唾を吐いてそのまま立ち去って行った。Sも用が済み、ジーンズのジッパーをたくしあげて手を洗った。洗面台の鏡に写った自分の輪郭はいつも以上にくっきりしており、顔の肌つやもよく見えた。髪の毛がはねているのに気付いてそれをくしゃっと直し、ふたたび踊り場に出た。Sはここにきて開放的な気分を味わった。しかしそれにしてもまたSは一人であたりは静寂と化していた。地下階段は長く、夫人が案内してくれたからそこまで恐怖を感じなかったが、それにしても何故こんなうらぶられたところがあの歯医者のトイレなのだろう。あまりに不穏すぎる。Sは一抹の不安のようなものを抱えながら踊り場を通り過ぎ、再び地上へと続く、非常ランプの灯が照らす長い階段を一歩一歩昇って行った……。

 

地上に出ると、歯医者の建物の外だった。正面のガラス張りのドア越しに受付椅子に座っている夫人の姿が確認できた。Sはあたりの包まれるような空気の柔らかい温度をいっそう感じ取ろうとして遠くに視線を投げて、三車線の道路において帰宅ラッシュとなっている車たちのどこかリラックスした雰囲気で渋滞をやり過ごしている気配を感じた。今日は金曜日だ。Sは世間の人が金曜日というものに対して抱くのとちょうど同じくらいの安堵と高揚の気持ちを抱いていた。車のライト、赤、黄、信号機、通りに隣接した大型パチンコ店やコンビニの蛍光灯が暗がりの中で独立の存在感を示していた。Sはしばらく車の通りを眺めて、しばらくしてから歯医者の中に戻った。

「おかえりなさい」Sが戻ると夫人は口元ににこやかな表情を浮かべてSに会釈してみせた。夫人はマスクを外していて、口紅の薄いぽってりとした肉感のある唇をのぞかせていた。Sもつられてお辞儀した。「それじゃあお会計を」

支払いを済ませると、夫人は「またお待ちしています」とだけ言って深々と頭を下げた。奥の診療室からは同時に先生がちょこっとだけ顔をのぞかせている。髭を生やし、表情には疲労を浮かべてそれでも満足をたたえた笑みを浮かべていた先生は、「Sくん、次回もきちんと来るようにね!」と予約診察をサボりがちなSに釘を刺しておいた。そして先生と夫人が中に存在する歯医者の建物は遠景へと次第に退き、Sは再び地下の階段を下降していった。今度は非常階段のランプもなかった。暗く、しかし確実に足を踏みしめる感触が足の裏から返ってくると、Sはある光源に吸い寄せられるかのようにして一歩一歩、下へ下へと進んでいった……

 

 ……二階分、地下二階分は下ったろうか。Sは光に向かって歩みを進めているような感覚にゆっくりと浸っていた。それも多大な量の光。彼の足は暗闇の階段からすり抜けて浮遊し、浮遊する黄金の砂粒の中から〈王国〉へと向かっていった。実際上は扉から溢れる光の漏れが彼の行く先を微かに照らしているだけだったのだが、その下降する階段への歩みが一歩一歩深まるごとに、充実した場所=〈王国〉へと向かっているんだという高揚した情動がもたらされた。先ほど用を足した一階の便所の前の踊り場では、目が痛くなるほどの大きな蛍光の灯がその場をことごとく支配し、光を求めてブンブン唸っていたハエたちは強すぎる光量の前にいともたやすく命を落としていた。Sが到達しようとしているのは、実に柔らかな光で、それらが幾つも集まって曲線を描き、そこに近づいてくるものはなんであれ優しく内包してしまうほどの妖しい優美さがあった。Sはまばたきもせずにそこに向かっていった。やがて階段は終わりを告げ、開け放たれようとしている扉からは一層強い光がこだました。Sはすでに扉を開けようとしていた。遠くで、互いにはしゃいで遊びまわる子供の無垢な声が反響して聞こえてくる気がした。遠い遠い時間軸上の向こうにはS自身もかつてそのような無垢な子供だったのかもしれない。かつて裕福だった家の健康感溢れる庭で、近所の子たちとブランコをしてはしゃぎまわるといった……子供達には子供たちだけの空間とルールとがある。そっちから向こうが君の陣地で、こっちは俺の陣地な。三回ボールを入れられたら勝ちね。そんなんゼッテーお前の有利じゃん。やだー! 文句を言うやつはやる資格なし! はい、はじめ!……

 扉の向こう側に行くと、光の熱量はやや収まり、落ち着いた雰囲気が戻ってきて、しかし実に活気のある、活力のある空間がSを待っていた。そこはどこか懐かしい……そう、デパートの地下だったのだ。涼やかな季節で、Sのややくぐもった髪の毛をさらさらと流れていく風は心地よかった。華やかで冷気の十分に通った居心地の良い雰囲気が漂っている。デパートの地下ではありとあらゆる総菜が売られていた。人だかりでいっぱいである。Sの隣を歩くのは、痩せている母で十五年前の彼女の姿だった。まだ会社勤めをしている頃の母だ。Sの後ろには、クロコダイルのマークのついたあっさりとしたシャツを着ている父が、三十代の父がゆったりとした歩調で家族の後ろを支えていた。中でもとりわけ喜んでいるのが母で、彼女はデパ地下が好きで、首を中々縦には降らない父とあれこれ口論しつつも、こんな総菜があんな総菜がという風にあちこちを歩き回って人の群れを縫って歩いている。Sは……Sの背丈は、父と母の半分にも満たなかった。そこではSは小学生の時分だったのだ。あどけなさを十分に身につけたSはこれまた満面の笑みを浮かべていた。そこらには、巻き寿司やいなり寿司、ローストビーフ、ポテトサラダ、揚げ物、天婦羅、揚げ豆腐、回鍋肉、チキン、ヒレ牛肉、焼き肉弁当、漬物、シーザーサラダ、ドレッシング、ロールキャベル、シチュー、厚切りのハム、コーヒー豆、モンブラン、ショートケーキ、フルーツの盛り合わせに和菓子……と何でもある! それらを綺麗に、美味しそうに陳列して、誇らしげに売り捌く地下売り場の店員さんは、実に快活で歯切れよく声を上げ、その声は僕たちをすっかり安心させるのだった。一言でいえば、彼らは光輝いていたのだ。……眩しい照明のせいだろうか。確かに行きかう人たちは、ノースリーブスのワンピースやリラックスした短いパンツなどを履いていて、デパートの効きすぎた空調にたまらず癒されている風でもあった。ここは夏の売り場。そして、幼き頃にSが見たはずの、「かつての美しき世界」。

 なぜなら後のSは、十年後かそこらのSは、デパート地下で痛い目にあっていたからだ。Sは大学生になって、アルバイトの研修でデパート地下にある喫茶店で働くことになった。大学生になってから初めてアルバイトを始めたSにとってほとんど無謀といってもいいこの仕事への応募動機は「難しいことにチャレンジすればそれだけ自分にとってのリターンがあるはずだ」という彼独自の変な哲学だったのだが、果たしてその哲学はこのアルバイトにおいてはことごとく通用しなかった。Sにできたことはレジ打ちくらいで、しかもレジにばっかり突っ立っているときつい職場の先輩から「ほら、レモンティーも準備して! レジ打ちばっかやってないで!」と何度も怒られるのだった。作るコーヒーのメニューも中々覚えられないし、その店の自慢の品であったシュークリーム作りも教わった通りに慎重に作るのがやっとで、店が忙しいときはSは足出まといにしかならなかった。Sは職場内で散々陰口をたたかれ、「あなたは〇〇大学だからこれくらいはすぐできるでしょ」と勝手な期待を寄せていた店長もSのことをカバーしきれなくなると、Sはよくゴミ掃除に徹して、一人店を抜け出てデパート裏の巨大なゴミ収集場や裏口でしばしやりきれない時間を過ごした。そのときになって初めてSは他の店舗の売り場の人たちの中に曇らせた表情をしながら仕事をしていたり、怒ったり怒られたりして理不尽な顔をしている人たちがいることに気付いた。笑顔の裏で人は悪魔にもなるし、汚い部分もたくさん発揮させていることがよく分かった。

 結果としてSはその喫茶店を三か月で退職したのだが、そのデパートに足を運ぶことも二度となく、思い出すたびに悪夢となっていった。

……今目の前に広がるデパートはそれらとは全然違っていた。それはSがまだ悪夢になり変わっていくアルバイト経験をするよりももっともっと前のイメージであるようなデパート、自分が幼少のころに勝手に抱いていた幸せなデパートのイメージだ……。そしてそれ以上だった。新鮮な食品やデザートを売る店員たちは自信と生命力に溢れており、彼らの着ている白い制服やエプロンはまるで発光しているかのように色鮮やかに浮かび上がり、彼らの動きは光色の残影とスローモーションで構成されていた。「白く輝く人々」。Sたちはそんな「白く輝く人々」から、各々の夕飯と好きな食材を予算が許す限り品定めしているのだった。ローストビーフは誰もが食べたいと言ったので、父が五百グラムほどのたっぷりとした量のそれをパックに詰めてもらって購入した。ちなみに父は鶏肉が苦手だった。Sも母も大好物なのに……。それで彼らは父の反対を押し切って大きなローストチキンを二つと、唐揚げの山盛りのパックを一つ買った。三人分のシーザーサラダとポテト、バジルとレモンのドレッシング。それからSは「鉄火巻きを食べたい! 鉄火巻き!」とダダをこねて父を苦笑させた。父は「どれ、どんなものがあるんだい?」と言いながら、Sと母の後を着いていった。

 

――それは隠匿された、やはりある種の偽のイメージなのだ。

もし未来から、十年後のSであるという署名つきでそのようなメッセージを送ることができたら、Sはどうするであろうか。

世界は反転しようとしていた。白から黒へ。明から暗へ。現在からさらに過去へ。下へ、下へ、下へ……。

 Sは再び〈心の階段〉を下って行った。下降、さらに奥へと、奥の奥へ……。先ほど階段を薄く照らしていた灯も無かった。Sは足場がしっかりとしているのを一つ一つ確かめながら、慎重に降りていった。Sが感じているものはただ暗闇というより、この階段がまた私の安心するなにものかへと連れて行ってくれるのだ、そのような漠とした期待があったからだ。Sは足元も定かでない暗闇の道を一人で歩いていたが、それは無限にも似た探索でもあり、いつの日か許される「自分がかつてそうであったところ」に戻ることの許される、過去への旅なのだった。未来も無方向に延びていれば、過去もまた無限でありえたかもしれない、違ったものでありえたかもしれないという不可能な可能性。

 

 そしてSはまた一つの扉を開いた。その扉は鉄でできたひどく重いもので、がんじがらめに蓋をされているという風だった。Sの記憶の三番目の扉――それを開けると、一面に日光に照らされた緑色の芝生があたりに広がっていた。春か秋のように柔らかな陽射しである。Sが後ろを振り向くと、そこには先ほどSが力を込めてこじ開けた鉄の扉が四角の柱として立っているだけで、柱の後ろにも芝生がずっと広がっているのだった。よく見ると、Sの前方には白と赤のペンキで塗られた簡素な郵便ポストが立っており、その横にはどこか見覚えのある洋風の二階建ての家が建っていた。その家は実にSの昔の実家に似ていた。クリーム色が基調のコンクリート仕立ての塀に囲まれており、庭もあり、サザンカやキンモクセイといった季節季節の花を開く樹が植えられていた。Sは昔の実家を愛していた。それは、Sが幼少のころから住み慣れていた家で、大学でSが他県に行っている間に父と母の取り決めでその家を壊してしまったのは、Sにとってただただ辛い出来事であったのだ。Sの目の前にある赤レンガと白色の壁を備えた家は、そんな旧実家の面影を強く残していた……至極曖昧に、しかし強烈に蘇ってくる記憶とイメージ。家と幼少の僕。

 私は飛び上がってしまうような気持と、どこかえ必死にそれを否定しようとする不穏な気持ちの対立を起こしていて、緊張状態に入った。郵便受けには何か私のことに関する重要な知らせが待っていると直感で分かったからだ。私は思わず怯えて縮み切ってしまうような気持ちを何とか遠ざけ、おそるおそる郵便受けに近づいていった。投函用の蓋を開けると、そこには幾つかの、正確には五つの手紙が届いていた。手紙にはサンタクロースの可愛いシールが貼ってある便箋が三つ、それから赤い封筒に入ったものが一つ、最後に味気ない茶封筒が一つと――。

 私はとりあえず最初に気になった三つのサンタクロースのシールがある便箋の差出人の名前を確かめた。「杏子より」。あぁ、杏子! 私はたちまち泣きそうな気持になった。それも懐かしさと安心感からだった。杏子は大学時代の大切な友人であり、付け加えるなら私は杏子のことが好きだった。杏子は大学の中でも一、二位を争うほどの美貌と引き締まったスタイルを兼ね備えた才女で、それだけでなく彼女は親しみやすくどこか抜けている愛嬌のある性格をしていて、何より杏子は私との関係において聴いている音楽や志す進路などにおいて非常に近いものをもっていた「同士」でもあった。それでも杏子は男からも女友達からも常に声をかけられる程だったので、私が杏子と会うときは彼女も時間を縫ってわざわざ気を使ってくれたのだと思う。

 思えば、私はその頃好き放題に生活を送っていた体たらくな奴だった。しかしその中でも、やれコンパだの、やれサークルだの、忙しいことを止めなかった杏子や杳子の周辺の友達たちを尊敬もし、しかし寂しくも思っていた。当時の私には決して近づきえない領域だったと言ってもいい。だけど今になってわかることもある。杏子は友人として、大切な友人として十分私のことを尊重してくれていた。その杏子とは、お互い大学を卒業してから全く疎遠になっている。だとすれば、この手紙は何だろう。私は三つのサンタクロースのシールを剥がして、中身の手紙を出した。そしてその一つをパラッとめくった。

 

「Sくんへ この間のバンドの練習、なんで来んかったとー? みんなSくんのベース待ちだよ。本番も近いし、みんなの演奏もあってきたところだから、Sくんも体調復活させて一緒に頑張ろうよ。

       どーせまた冬の風邪っちゃろ?笑 薬は飲みすぎんことね!

         

                           杏子ママ(笑)より」

 

「Sくん ライヴ、何とか成功したねー。みんな疲れとったし、初美も失敗ばっかりで反省とか言って未だにクヨクヨしとるけど、私は良かったと思うなぁ。初美と私っていう、全くライヴとかバンドの経験が無かった私らだけど、山ちゃんや。Sくんのサポートがあってまた一つ夢を実現させられたよ! ステージに出れたことは、一生の宝物だな。

       私たちと組んでくれてありがとう!

        あとはもううちら卒業式だけやね!

        あ、くれぐれも風邪はひくなよー笑

 

                                杏子より」

 

「Sくん ……本当言うとね、私はSくんのこと、好きだったっちゃん。私には守らないといけない彼氏が今いるけど……。Sくんは、どうしてもうちのパパに似てるから…… 身長とか、細い眼鏡とか(笑)

       私は今の彼氏と頑張っていくから、Sくんもはよう彼女作り!

       お互いがんばっていこうね。

                                  杏子」

 

 

――。ここに語られていた数多くない言葉は、かつての現実の世界では私に届いていないものだ。これは本当に杏子が書いているのだろうか? 杏子の筆跡など覚え

てもいない。便箋に書かれていたのは割と小さめの、メッセージに重きを置いた柔

らかい書き方だ。私の知っている杏子は割と男性的でしっかりした文字を書くよう

な気がしているのだが……

仮説として、それもなかなかあり得ないような仮説だが、これは杏子のあの時の

内心の声であるかもしれない、ならば……。

私の妄想の拡大に違いないという最もな推測をすぐに弱めて、私はそのような妄想

に過ぎない辻褄合わせの解釈を施すことで自分が一瞬でも救われたような気持ちを

得た。なぜなら現実の世界では、私たちは大学四年生のときにバンド経験のない杳

杏子と杏子の親友である初美を中心にライヴ演奏をしようという動きがあって、私はそこにベースとして参加した。無事に目標だったライヴも滞りなく終わり、その後の打ち上げでバンドメンバーは夜遅くまでお酒の乾杯を入れたが、実際当時の私の心理状況は複雑なことこの上なかった。ベーシストとしてバンドに参加してから間もなく私はひどく続く風邪や慢性的な胃腸炎に悩まされ、いっときは練習さえままならないこともあった。体調だけではない。精神的にも私は不安定だった。初美からもそして杏子からも初めの方は心配を、そしてそのうちに疑心暗鬼の交じったいら立ちを隠せないようになり、

「決められた練習にきてくれないと話にならないから」

と厳しく注意されたこともあった。実際そのことがきっかけで、私と初美は前ほど

の仲の良さを決して取り戻せなくなってしまった。

杏子は……杏子はこんな風に感じていたのだろうか? 私にはいっこうに分から

ない。柔らかい筆致で刻印された「杏子」という文字。その文字はあまりに美しく、

そしてあまりに残酷だ。私は甘苦い余韻に浸る。そのなかで彼女たちとずっと友好

な関係を維持できなかったということに対する、あまりにも自分勝手な罪悪感が口

の中で苦く広がっていき、思わず私は身ごとざっくりと削られてしまう。私は唸る。

それから私は赤い封筒を開けて、中の手紙を手に取った。白い紙が柔らかな陽射

しに反射して眩しい。ここは外なのだ。緑色の芝生は相変わらずのびのびとした昼

の温度と空気を形成している。赤い封筒にはこうあった……

 

   「Sくん  久しぶりだね。私がSくんのことを今でも覚えているのは、たとえば私たちが中学一年生のとき、放課後男子と女子のグループが別々に集まって喋っててね、そのときSくんは男子グループの中で勉強しながら、シャーペンをものすごい速さで回してたの! おかしいかもしれないけど、当時の私はそれにびっくりしちゃって。

       あのあと、Sくんに「それどうやってやるの??」って聞いたけど、ちゃんと答えてくれなかったよね。Sくんの長い指、クルクルコロコロ自由に回るペン先が、不思議でしょうがなかったなぁ。

       たとえばそんなところ。

葉山 あかり」

 

そこには別の名前の女性の署名が小さく丸っこい字でなされていた。

 葉山さんは中学からの同級生だった。彼女は男子たちの間ではマドンナ的存在であった。背が低く、すごく可愛らしい童顔で、話す声は彼女と会話すること自体に興奮を隠さない男子たちの心を溶かし尽くすほどの甘い撫で声だった。中学から高校まで一貫校であり、高校を卒業してからもお互い同窓会で一回同席したかしていないか程の仲である。一度だけ、SNSを通して、二十代後半に入った彼女の姿をっ写真付きの投稿で目にしたことがある。柔らかな生地の冬のコートを羽織っていた彼女の微笑は、当時と顔つきも変わることなく、そのまま美しかった。

 葉山さんの内心など知る由もない。あの時のこと、つまり僕がシャープペンシルを高速回転させていたときのことはよく覚えている。女子グループの中にいた葉山さんが「ね、それってどうやってやるの??」ときょとんとした顔を浮かべて私に聞いてきたのだ。この人は僕をからかっているのかな、くらいのことは思ったかもしれない。もしくは「からかい」であることにも気付いてなかったか。葉山さんは友達と一緒にクツクツと笑い、何の悪びれる風もなく「S くんって授業中もいつも高速でペン回ししているよね」などと満面の笑みを浮かべながら僕をからかうのだった。

 当時の私が葉山さんを好きだったかどうか……はっきりと言えるのは、葉山さんと一言でも会話を交わすことができた日は幸せが十倍にも二十倍にも高まったような、浮ついた心で一日を過ごしていたはずなのだ。彼女の柔らかで真っ白なオーラのようなものにいつも癒されて……むしろそれらに癒されなかった友人など一人もいない(そういえば葉山さんは当時からとても色白であった)。

 

 ……そのうち、不意に、秋色のコートを着込んだ杏子が現れた。「やあ、Sくん、ちょいと久しぶりだね」彼女は笑っていた。実にすっきりとした姿勢だ。杏子は背が高い。私と二、三センチほどしか変わらない。彼女の真っ直ぐとした輝いた瞳を見ながら私は「やあ、久しぶり」と小さな声で呟いた。私たちは自転車に乗っていた。自転車デート(と呼べるほどのものか分からないが……)。郵便ポストと赤レンガの家以外に何一つ見当たらなかった場所に、二台分の自転車が無造作に並んで停めてあった。そうしていると、杏子が郵便受けにぞんざいに開いたままになっていた三通の手紙の存在に気が付いた。「あぁ、これ私が出した手紙だ。読んでくれたの?」

私はたしょう動揺しつつ、「あぁ、読んだよ。読ませていただきました」と厳かに答えた。

 「本当にちゃんと読んだのー? 短い文章だけど、私なりに大切なことを書いたつもりだったのにな……」

 「ごめんごめん。本当にちゃんと読んだよ」

それから彼女は自分のしたためた手紙に視線を落としてしばらく読んでいた。私は静かに彼女を眺めていた。「……私たちも、色々あったよねー……」あくまで手紙から目を離さずに、杏子は寒い冬の朝にほんのちょっと白い息を吐くくらいの軽さで、その台詞を口にした。私はその言葉の真意を測りかねた。

 「……たとえば?」

 「バンド練習ってさ、みんなの予定を合わせようとしても中々うまくいかなくて、たまたま練習が取れた日も、全員が集まることはなくて、の繰り返しだったよね、うちらは」

私は思わず顔を赤らめた。そうだ、自分の色々の行いが、杏子にも初美にもさんざんな迷惑をかけたんだと改めて思い直して、私はいますぐ謝罪したい気持ちに駆られた。

 「……本当に、いろいろごめん。僕はいったい何回練習をキャンセルしたんだろうね。人の気もしらずに……」そんなとってつけたような言葉はもどかしく、口から抜け抜けと出ていくだけだった。私は自分の罪の奥深さを感じずにはいられなかった。しかし、その罪の深さに浸って出てこまいと、閉じこもろうともしていたのだ。罪の感覚に居続けることは、愉しい悪夢のように、身を悶えさせるから。

 そのとき杏子は顔を上げた。「いやいや! そんなこと謝らなくたっていいよー。うちらもうちらで練習の取り方下手くそだったし、Sくんはあの頃体調悪かったもんね。うちも分かっとったよ。あおのときはね、個人的にも初美と色々あって、あたしSくん家に一人で風邪ひいたときのお見舞いに行ったことがあったっちゃろ? あの出来事を初美に話したら、なんで彼氏がおる女の子が夜中に一人で違う男の家に上がりこむん、そういうの絶対いけんじゃろ、彼氏にも申し訳ないし、杳子はだらしないよ! ってすごい剣幕で説教されてね、それであたしもムッときてそのあと二人で大喧嘩になって……初美は、Sくんが練習に来れないことを怒っていたわけじゃないよ。ただあの頃、初美もパンク寸前だったの」

……杏子は私を慰めてくれようとしているのだろうか? こんな私を? 私は自己の卑近な罪責性という殻に閉じこもることによって、禁断の快楽を味わい続け、反省も謝罪もせず、自分のちっぽけな存在を死守していただけの屑だ。その罪を少しでも浄化せんとする杳子の言葉には救われるようでもあり、反対に二重に悪へと走った私をどん底まで陥れるような両義的なものであった。おそらく私と初美の関係はこじれたまま二度と戻らないのだ。そんなことは分かっていた。その事実の重みは私の心の中にしっかりと印象づき、しかし杏子は相変わらず汚れた私の手を取ろうとした。彼女は懸命に、何かにすがるように目線を外しながらしゃべりつづけた。バンドのこと、初美のこと、サークルのこと、それから今も毎年初美や他の仲の良かった大学友達と会って女子会を開いていることなど……。私はいつしかどうでもいい心地になっていた。初美という大切な友人を確実に、今こそ確実に失った。それは過去にすでになされていた失いだった。杏子。かつて私はのめりこむ勢いで杳子のことを好きになり、その気持ちは消えないまま、杏子の良心と妥協した手つなぎをしながら……。

 実際、私たちは互いに少し恥じらってから手を繋いだ。彼女の手は大きく、冷たかった。横に並んでみると、杳子の背は高くて私たちの目線はほとんど変わらないほどだった。手の指は細かった。初めて彼女の手を握りしめたとき、その冷えた手の内に、かすかに滲んだ美しい水分と、それから皮膚のもっと奥にある暖かさが私の手に送り返されて伝わってきた。私は俄かに興奮した。これが杳子の温度なのだ。それはあまりに脆く、細く、完璧なまでにぬるかった。私は思わず彼女を抱きしめたくなる衝動を必死で抑えた。そうして私たちは手を繋いだまま家を背にして歩き始めた。杳子は少なからずはにかんでいた。口の大きく妖艶でもある彼女はこの慣れない状況を楽しむかのように、ハハハと乾いた声を出した。その声もあたりの健全な陽射しに混ざって淡く溶けていった。私はつまらないこと、いい天気だね、とか、そんなことを口にした。だけどそれでも楽しかった。二人はそれで円環の輪を形成しているというように、手を繋いだまま何処にでも行けるような気がした。

 やがて向かいから、二人組が歩いてくるのが目に入った。だんだん近づいてくる。それは葉山さんと、葉山さんが高校生の時に付き合っていた鎌田くんだった。鎌田くんはなぜか学生服を着ており、学生当時のままで笑いあいながら手を繋いでいた。やがて私たちは対面した。葉山さんと鎌田君は肩を寄せ合うほど距離を近くしていて、彼らが作る親密さの空気は柔らかなバラの花の空間となってそれに触れている私たちを実に恍惚とさせた。いつの間にか私と杳子は彼らの前に居ながらぎこちなく挨拶をした。

 「やあ、葉山さん! それに鎌田も、久しぶり」

 「久しぶりじゃないSくん! どれくらいぶりだろう……高校を出て以来だよね。元気にしてた?」

 「そちらこそ、元気にしてた? 僕は相変わらずやってるよ。鎌田も元気そうでよかった。何だか印象が変わって……そのなんだろう……まさか二人は?」

私がたどたどしい口調でそう言いながら葉山さんのことを改めて見てみると、驚いたことに彼女は二十代の彼女、私が決して会うことのなかった成長した姿になっていた。彼女の可愛らしい顔つきや大きな目は変わっていないのだが、輝きはそのまま少しだけ痩せてすらりとしている気がする。大人になったんだな、と私は形容の寂しい感想を心の中で思った。彼女は大人になった。とても綺麗だ。彼女はブラウンの上着に長い白のフレアスカートを履いており、とても知的で落ち着いた佇まいだった。その静かな圧倒感に再びびっくりしてしまった。私たちは相変わらずお互いに視線を行き来させたまっま、今度は鎌田くんが喋った。

 「そう……そうだね。僕たち、結婚しました」

そういう鎌田くんの顔はあの高校生の時の彼のようにはにかんで、何というか、その柔らかな雰囲気は葉山さんの持つゆったりとしたオーラと全く同じだったのだ。鎌田くんのこの言葉を聞いてから、私はかねてからこの二人が惹かれ合い、それなのに長い間なかなか一緒になることは無くて見ているこっちがもどかしいような気持になることもあったけれども、こうやって時を経た今美しい絵画に現れるような素敵な夫婦であることを心から祝福した。繰り返すことになるが、もともと鎌田くんと葉山さんはどこか似ているのだ。笑顔を絶やさないこと、二人とも優しいこと、穏やかなところ、どことなく暖かく神秘的でいてゆったりとした雰囲気を身にまとっていること……。そんな二人がこれ以上はないと思われるほどの完璧な結論を二人で手にしたことを目の当たりにして、私まで幸福な気持ちに浸された。その白くて神秘的な空気をまとった二人はほとんど同時になおざりにされていたままの私の隣人に私が気付くよう手の仕草によって示した。

 「ごめん! 紹介が遅れました。こちらは僕の大学の同級生の杏子です。こちらは高校の同級生の葉山さんと鎌田くん。あ、葉山さんと言っても、もう鎌田さんなのかな」

 「杏子です、初めまして」

杏子は誰にも臆することなく平等に向けられる安心感のある微笑みを浮かべて夫妻と対峙した。葉山さんと鎌田くんは手を繋ぎ合ったまま、どちらとも幸せそうに笑っておじぎをした。鎌田くんが屈託のない笑みを浮かべて、

 「Sと杏子さんは結婚しているの?」

それを聞くと私は顔から火が出るんじゃないかと思うくらい赤面してしまったが、すぐに否定した。

 「まさかそんな仲じゃないよ。ただの友達だよ」

僕はそう言った。遅れて杏子も僕の言葉に頷いた。しかし私も杏子もその「友達」という言葉の響きがどこか不明瞭で、現在の私たちの関係性を的確にはあらわしてはいないんじゃないかということにも気付いていた。

「そうか、そうなんだね」鎌田くんはつとめて平静な声でそう返してくれた。

 「ところで」会話が途切れがちになるのを止めるようにして葉山さんが一歩前私たちの方に歩み寄った。

 「そう、私たちは結婚したの。だけど、今は夫婦別姓でいけるじゃない。だから今も私は葉山のままだよ! 葉山あかりだよ、Sくん」

 「それはいい! そう、自分たちで選んだんだね」と僕は合いの手を入れたが、隣の杏子もとても力強く頷いて共感の意を示しているように思われた。

 「Sくんも同感するなんて、なんか面白い。でも、私前から思っていたことがあって。女性が結婚する前と、結婚した後で名前が変わるだなんて、しかも女性だけだよ? 男の人は変わらないから。そういうのって、なんか違うというか、実際上の手続きとしても面倒なことがたくさんあったってお母さんたちからも聞いたし……。ね」すると杏子も口を開いた。

 「あの、私も勝手だけれどそう思うの! 男性の名字に女性の名前がつくっていう感覚? っていうのかな、すごく人工的な……まぁ、名前は親がつけてくれるものだから人為的なものかもしれないんだけど、なんというか結婚で同一の姓にすること、もしくはさせることに、法律的な制度の存在を感じずにはいられないのよね。ごめんなさい、変な言葉使っちゃって。でもね、普通に考えて、名字が変わるってことは、名前そのものも変わることだと思うの。私は私、だけど、名前が変更される……そういう意味では、夫婦で別姓を名乗ることもできるっていう選択肢があるっていう事は、とてもいいことだし、理にも適ってるかなって私の場合は思うんですね」

葉山さんは話の展開にちょっと驚きつつもふふふと笑っていた。僕はその笑顔を見るたびに記憶の中に張り付けられた彼女のあどけなさを思い返し、何とうか存在そのものの暖かさとでもいうようなものにほとんど私は打ちのめされようとしていた。

 「違うの。確かに杏子さんのような意見に私もすごく同感する。だけど、私たちの場合はただ単純に、その、手続きが面倒なこと面倒なことっていう……説明書を見てるだけで吐き気がしたの。おかしいことね。Facebookもね、名字と名前のフルネームで表示されるじゃん。それでね、私常日頃から思ってたんだけど、たとえば優ちゃん、分かる、相田優ちゃん。あるときね、彼女どうしてるかなって思ってFacebookで探してたんだけど、彼女が見つからなくて。そうして、そうだ優ちゃんは結婚したかもしれないってことにやっと気づいて、友達の中からそれらしき人を探してみると、あったんだよ。「久保優」って。あ、これがあの優ちゃんだ、相田優ちゃんだった人の、現在は久保優ちゃんなんだって。はっきり言ってそういうのでも面倒だなって思ってたしね……うん」

 「なるほどなー、そういわれてみると確かにすっごい煩雑だね。名字変わったら分からない人いっぱいいるもん」

 「名字って結構大事だよね」

 「大事大事!」ここで葉山さんと杏子が二人して同じことを言ったので、私たち四人の間には実に和やかなムードが流れたのである。しかし、やがて一筋の冷たい風が吹いて、私たちの肌はびくびくと震えた。私たちはもう次の過程に行くべきだった。葉山さんと鎌田くんが目を合わせて、「そろそろ行こうか」と言った。それから私と杏子も、「行こうか」と言った。

 「また、どこかで会えることを」

 「また、どこかで」

 

季節は夏から秋へと変化していた。私と杏子は並んでサイクリングをしていた。私は黒色のママチャリ、杏子は赤色のもうちょっと高級そうな自転車に乗って、秋の田舎道、田んぼの多い道をゆっくりと漕いでいた。夕暮れの太陽の光よ! どれだけあなたは雄大なことか。夏の農作物を獲りおえたところ、葱や蕪がまだ育ててある畑や、たわわに実った稲穂が私たちの眼前に広がっていた。民家はかなりお互いに距離を隔てた場所にポツンポツンと立っているだけであり、背後には紅葉で染まりかけている山があった。私と杏子は何か喋っていただろうか……杏子はもともと背が高いのだが、ベージュ色のコートをふっさりと被って自転車を漕いでいる様はどこか頼もしく、愛嬌も感じられて、何となくそれだけで美しいと思える光景であった。風は程よく気持ちよかった。このまま私たちがどこへ向かうかなどといったことは、些末な事柄だった……

すると、大きい道が十字に交差する地点で、ふと大学時代の先輩が姿を現した……。私が所属していた軽音サークルで、華麗なドラムを叩いていたM先輩だ。M先輩とは学年は一つしか違わないのだが、先輩は年上の人からも私たち後輩からも分け隔てなく愛されていて、サークルの中心をなすような影響力の大きい存在だった。それに比べると私は――こう言って良ければだが――サークルにとっては「犯罪者」であった。私は学年が上になるにつれて生活に対する怠惰心が中心を占めるようになり、おかげで自分のサークルの定期ライヴの本番時間にも遅刻を繰り返してしまうほどの体たらくな人間に成り代わってしまっていた。私は堕落者だった、それも本物の。サークルのほとんど人は私に幻滅し、私から距離を取っていった。そこで私も潔くサークルから姿を消せばまだよかったのかもしれない。しかし「犯罪者」である私はさらに罪を重ねた。自分の音楽はこのサークルでしか表現できないと言い張って、サークルに存続した。私と仲良くしてくれる人はどんどん減っていった。

 私と先輩がお互いに自転車ですれ違ったとき、だから私は一瞬にして顔が強張り、自分の体温が急激に冷えた気がした。うすら汗すら額から流れた。私にとっては封印したい思い出。M先輩はサークルの勝者だったから。私の心の中はたちまちにしてどろりとした液体が流れはじめた。罪の意識。

 意外というべきか、M先輩はすれ違いざまの狭間で、「S、お前はよくやったよ」と私の怯え切った肩をポンと叩いた。その時確かにM先輩は笑っていた。

 S、お前はよくやった。

M先輩の目線は真っ直ぐ私の小さく縮こまった両眼を捉えて離さなかった。それがどれだけ刹那のことであろうとも。私は、救われる、いや、救われたのだ、と思った。

 そしてすべてはあの暖かくて愉しい、杏子の手紙が引き起こした彼女との追憶の空間へと還っていった。M先輩は颯爽と通り過ぎていったが、私は後ろを振り返ると、まだ見える先輩の背中に対して何回も「ありがとうございます! ありがとうございます!」と叫んだ。いや、叫ぼうとした。しかし実際には私の喉ぼとけから声が出なかった。何故だろう? M先輩はもう何も言わず、別の人たちと一緒に駆け寄り、そして小さくなっていった……。ありがとうございます、ありがとうございます……。

 私がまるで念仏のように唱えていると、しばらく前方で自転車を停めていた杏子が駆け寄ってきた。

 「ねえ、Sくん」

 「ん?」私の目はほとんど真っ赤に腫れあがっていた。

 「これ、あなたが持っていた手紙……三通は私からの、そして一通は葉山さんからの。それで、この茶封筒は?」

そうだ、確かに手紙は五通来ていた。差し出された残りの茶封筒の封はまだ切っていない。私は中身を破らないように、そっと封筒の上の方だけを慎重に破いた。

 手紙にはこうあった。

 

 「これを あなたにとって希望も絶望も与えてくれる人の所に とどけてください」

 

 どういうことだろう? 私にとって希望と絶望を与えてくれる人? これを届けてくださいというのは、この薄っぺらい手紙の切れ端を持って行けという事なのか? 何かの謎々遊びなのか?

 

 「……へぇ。何だか面白いことになってきたね」と杏子は興味ありげな風をして、つぶらな瞳をパチクリさせた。

 「面白いって言ってもなぁ。だいたい、これを書いて送ってきた人は誰だ?」

 「……神、かも。あるいは天使」

 「はあ?」

 「天使は神の代理人っていうじゃない。預言を届けるキューピットみたいなさ」

 「なーに言ってんだか」

僕らは間延びした空間で、二人とも自転車を停めて、この豊かな秋の夕暮れの時間をいつまでも吸い込んでいたかった。もう私たちは手を繋ぎ合うことはしなかった。どことなく杏子は眠そうでもあった。彼女の欠伸を我慢する表情が愛しい。

 そう思ってしばらく二人とも黙っていると、ふとあることに気が付いた。前方に見える民家は、私がこの五つの手紙を受け取ったポストの横に君臨していた、クリーム色の壁の家だ! いや、そうに違いない。少なくともつくりは完璧に同じだ。

「な、杏子」

 「……ふわぁ。何、Sくん」

 「ちょっと、ついてきてくれよ」

私たちは、自転車を畑の路肩に停めたまま、その先にある民家に向かって歩き出した。

 家の目の前まで来ると、本当に昔あった実家を思い出す。洋風の造り。そして、十分な広さのある庭! 十分な広さといっても、これは私が小学校の時によく一人で遊んでいた庭としては十分だった、ということである。私は、小学校の時、というか幼いころから一人で遊ぶのが大好きだった。ゲーム機は一切禁じられていたので、友達がやってくることも滅多にない。私はガメラやゴジラなどのソフビ人形や、三四歳の頃からコレクションしていたトミカの車を使って勝手に一人で遊んでいた。小学校三年生あたりになって、一人サッカーというのを思いついた。もちろん一人野球(投手に限られるが)も編み出した。一人サッカーというのはこうだ。庭に、まず二つのボールがうまく入りそうなケースを探して置く(母が洗濯物を取り入れるときの洗濯籠などが重宝された)。そして今度は、大きな石や大きなおもちゃなど、なるべく障害物になりそうなものを、庭のあちこちに置く。そしてボールを真ん中に置く。これで準備は完全だ。まずはどちらかのゴール(ケース)を目指して、様々な障害物に触れないようにしながらドリブルでボールを運んでいく。障害物に当たったら、今度はそこから反対のゴールを目指して、また障害物に当たらないようにドリブルしていく。最終的にゴールまでたどりついてきちんとシュートを決めたら一点だ。これを時間を計って、どっちのゴールが多く入ったかを頭の中で計算する。その時の私の頭では鹿島アントラーズ対清水エスパルスでもあったし、ジュビロ磐田対ベルディ川崎でもあった。そうやって私は想像力とは名ばかりの妄想を鍛えていった。

 ここは間違いなく、昔の実家である。というか、昔の実家の造りとまったく同じである。汚れ具合まで。実家は最終的に、酷い段階にまで進んだ。老朽化といえばそうなのだが、とにかく私がその家に引っ越してきてから十年でこの家は終わりを告げていた。二階のトイレはどうしようもなく破壊されたし、家の屋根は汚かった。そして、最悪なことに、ねずみが二匹か三匹か忍び込んでいた。ある日、母親の部屋で大きな穴が発見されたのだ! 母は叫び声と共に、それがネズミが作った穴であることを裏付けた。白アリだっていたに違いない。十年で住居は脆くなるものだ。

 その後、私は県外の大学に行ったのだが、私が定期試験を受けている期間に残りの家族の者が他の家への引っ越しをすでに決めてもう手続きをどんどん済ませていった。私は自分の部屋の整理をしたかったが、試験中なので戻るわけにもいかず、退屈で知識穴埋め問題だらけの試験に飽き飽きした頃には引っ越しは終わっていた。私はガメラのソフビを失っていた。ゴジラのソフビを全て失っていた。ウルトラマンも捨てられた。もちろんトミカの車だって全部捨てられた。私はこの時ほど母に対して怒ったことはない。もうやってしまったことはしょうがない。しかし、私の愛していた幼少期のころからのおもちゃはすべて跡形も無く私の目前から消えた。母は今でもこのときの私の恨み深い怒りについてだけは少しだけ後悔している。

 そんなことが一気に思い出された。はっと気が付くと、目の前はまだ夕暮れだった。山に夕日が差し込んでいる。美しかった。杏子は深呼吸をしていた。

 「Sくん、まだ考え事―? 私、もうくたびれちゃったよ」

 「僕、分かったよ。希望と絶望を共にくれる存在とは、僕の家族だ」

 「え?」

私に存在というこの世の――少なくとも私にとってのこの世界ということだが、この世のすべての基盤を与えてくれ、名前をつけてくれ、母乳を飲ませてくれ、学習をさせてくれ、風呂に入らせてくれ、離乳食からはじまっていろいろな健康で美味しいものを食べさせてくれ、学校に行かせてくれ、つまり一人で生きていくことができるまでの間、この私に生きることのすべてを与えてくれたこの家、母と父。それからもちろん妹、犬、猫たち。死んでしまった猫もそうだ。家族。それが答えだ。

 「何か分かったの?」と杏子は聞いてきた。

 「その手紙、貸して」茶封筒に入れ直した謎の手紙を、杏子から受け取った。そして私は躊躇いもなく、赤いレンガの屋根のこの私の家族の基盤であり続けたこの家の、正面のポスト入れに向かって茶封筒をそっと流しこんだ。

 これで終わりだ。

「終わったよ」私は一息ついて、杏子にそう言った。

 「何が?」

 「僕が、これまでやり残してきたこと、とでもいうのかな」

 「ふうん。そうなんだね」杏子は、私に視線を合わせるわけでもなく、静かにそう言ってほっぺをぷくっと小さく膨らませた。

 「帰ろう」 

 「帰ろうって、どこに」

 「じゃあ、行こう」

 「行こうって、どこに?」杏子は屈託なく笑っていた。私はやれやれと言った。

 「行こう、どこへでも」

そうして私たちは、赤レンガの民家を後にして、自転車を停めていた場所に戻った。夕日が眩しかった。あまりにも。それは美しかった。鳥たちが、無数の鳥たちが山の木々から飛び立って、自由な歌を歌った。ここは田舎。田舎が私は好きだ。田舎は私の地元。心の故郷。私は思わず泣きそうになった。

 「……Sくん、大丈夫っと?」

 「うん。大丈夫」

私は口に出して何とか答えた。私も杏子も、夕日が沈んでいく山の方向を眺めていた。僕は大丈夫。何か杏子は感じてくれているのだろうか。

 杏子は私を見るでもなく、こう静かに呟いた。

 「この景色を」彼女は相変わらず笑っていた。その天使的な笑顔。

 「この景色を二人でいつまでも眺めていられたならどんなに幸せだろうな」

私はそうだね、といって静かに笑った。

 

(了)

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