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幸せの裏に 第一章   はる

​(11200字)

 八月七日、午後。

 騒めく車内に少し不快感を覚えながらも、僕は両眼を閉じてその声を聞いていた。今は海外研修から学校に帰るバスの中。海外研修なんて大層な名前が付いているが、内容を言ってしまえば異文化交流と日本から生まれた多国籍企業への訪問である。現代グローバル社会に対し子供の頃からある程度知識をつけておくべきだ、という考えから数年前に始まった、我が校二年生の行事である。元々有った修学旅行との差し替わりであり、行事が増えたというわけではないのだが、これが初めての海外旅行という生徒も少なくないため、出発初日は緊張の方が勝っている。おかげで羽目を外し過ぎずに済む理由になっているのだろう。

「なあ、明日からどうするよ」

 最終日にもなればいくら高校生とも言え疲れを隠しきれなくなる。そして帰り道ともなれば気になるのが後日発表会。研修中に活動した班で、企業や現地学校などで得た知識を発表するというもの。決して難しいというわけではないのだが、その発表会は一年生も参加する。部活等の都合上、後輩に良く思われたい人達にとっては、面倒に感じてもサボることのできないものだった。それこそが教師たちの思惑なのかもしれないが。

「おーい、聞いてるのか?」

「ああ、ごめんごめん。ちょっと考え事してて」

「それで。リーダーさんよ、何か計画は有るのか?」

「別に特別目立つものをつくる必要は無いんだから、今まで通りでいいと思うよ」

 先程良く思われたい人達などと言ったが、そういう人達がどのような人間かというのは、まあ言わなくても伝わるだろう。自分にその気持ちが全く無いとは言い切れないが、端からサボろうというつもりも無い。もちろん“サボる”ことと“手を抜く”ことは違うわけで、サボらないから全力で取り組むというわけでもないのだけれど。

「よくお前はそれができるよな。さすが天才!」

「成績負けてたと思ったけど」

「前に“大事なのは数字じゃない”って言ってたのは誰だったかな~?」

 他愛どころか愛想すら無いこの会話の相手は幼馴染の英明(ひであき)である。両親ともに医療関係の仕事に務めているだけあり、その子供もそれなりの頭脳を持って生まれたようだ。最近、勉強は生まれ持った才能ではなく努力の賜物であると考えているが、こいつに限っては才能としか思えない。見た感じへらへらしていてどうしようもなさそうなのに、一体どこで勉強しているのやら。

「ま、それは良いとして。結局どうするんだ?」

 言い返す言葉が見つからず口籠もっていると、彼が話題を変えてくれた。意地の悪さが垣間見える話し方だが、そこに本当の悪意は籠もっていないという証なのだろう。

「発表時間は数字で聞くと長めに感じるかもしれないけど、今日までの二週間に有ったことを細かく読み上げる時間は無いと思うよ。向こうの学校で教わった作法や遊び方、企業に行って教えてもらったこと、そして僕達が思ったことを丁寧に話せば大体十分くらいなんじゃないかな」

「相変わらず、お前の脳内時間計算能力は凄いな」

「これくらい普通じゃない?」

「だからお前は天才だっていうんだよ」

 自分が当たり前のようにできることでも、できない人にとってそれは才能に感じる。それくらい分かっているけれど、予定を組む時に重宝するこの技は流石にできると思ったからこう言ったのだ。

「ねえねえ、これどう思う?」

 そんな下らない話をしている中、後ろから声が掛かった。

「おう、何だ?」

「ひー君は呼んでないっ!」

「イテっ……。用が無いならデコピンする必要もねえだろ!」

「私がひー君に用じゃないって分かっておきながら邪魔してくるからいけないの! ねえはやとはやと、これなんだけどさ?」

 痛いことをアピールするかのように両手で額を押さえ丸まる英明を放置して、僕は後ろから出てきた端末(スマホ)に目を向ける。

「きょうじんびょう?」

 それはとある雑誌の記事を写した写真であった。

「なんだ縁(ゆかり)、ついにオカルト趣味でも始めたのか?」

「人を簡単に呼び捨てにしないで! 私のことは縁様と呼びなさい!!」

 先程のが演技だと言うが如く、ケロッとした表情で再び出されたちょっかいに対し堂々と言い放った縁。彼女は英明ほどではないが幼馴染と言っても問題は無いだろう。決して命令するような性格ではなく、これが冗談であることはみんな分かり切っている。

「はいはい縁様、そんな大声あげるとゆめお嬢様がお目を覚まされてしまいますよ~」

「あ、ゆめちゃんごめんね。私がうるさくしちゃったから……」

「ゆめになにか?」

 僕らの班メンバー最後の一人こそ、このほんわかしているゆめ。何時でも何所でもうとうとしていそうな雰囲気に対し、役目はこなすしっかり者だ。

「ううん、なんでもないよ」

 研修中は他二クラスの班と、計十二人で活動していたが、発表は同じクラスであるこの四人で行う。表面は様々だが、みんな根は真面目だから事がスムーズに片付く。それこそ自分みたいに、リーダー経験が無かった人でもその役割が務まってしまうほど。言葉ではよく聞くが、集団で重要なのはリーダーではなくそのフォロアー、サポーターであるということを、身を以て感じさせられた。

「それで、さっきの話は何だったんだ?」

 真面目なトーンで言う英明に対して、今度は縁の手が伸びる気配も無い。

「本当かどうかわからないけど、狂人病って言う病気? が流行ってるんだって」

「人が突然狂いだす、ね……。狂犬病の人感染がたまたま続いただけじゃないのか?」

「ここは日本よ? それに、もし人間が狂犬病に罹っても誰彼構わず襲うようなことはないわ」

「それもそうだよな……。隼人(はやと)はどう思う?」

「病気かどうか、そもそも関連性があるかもわからないけど、亡くなった人がいるのは確かだよね」

「専門でもないのに、そういう話で盛り上がるなってことか。それもそうだな」

 そういう意味を込めたつもりは無かったのだが、ニュアンスの方向性として間違いではないからそのままにしておこう。それにしても、日本を離れている間にそんな事件が起こっていたなんて。アンテナは常に張ってないと情報を掴み損ねるものだな。

「そういえばゆめのお姉さんって……」

「Zzz……」

「まったく、ゆめちゃんは相変わらずね」

「ほんとだな」

 場を和ます力が、ゆめにはあると思う。才能というよりかは生まれ持ったオーラと言うかなんと言うか。それを本人が感じているかは知らないが、僕としては彼女がそれを理解した上で行動しているように感じ、こう微笑みながら見るのは恐れ多いと思ってしまう。

「うわぁ、ゆめちゃん。やっぱり可愛い……」

「ちょっと和穂(なほ)! 勝手に写真撮らないの!!」

「なあ隼人、今度ここ行ってみないか?」

 まあともかくこの空間に、狂人病なんて言う、有るかも判らない物騒なものは必要ない。関係無い。近寄ってほしくない。こんな温かく、みんなが笑っていられるこの場所が好きだ。だから大丈夫。気持ちさえあればきっと。

「えぇ、いいじゃん。こんなに可愛いんだよ? もう宝物だよ~ ほら!」

「確かに可愛い……。って、そうじゃなくて!」

「お、ここも良いかもな。隼人はどっちがいいと思う?」

 和気藹々というには五月蠅いのかもしれないけれど、ここが僕の居場所ですって胸を張れる。豊かで平和なこの場所に、不穏なものは隠れていない。

 そう、この場所には――――。

 

 

「じゃ、また明後日」

「おう!」

「またね~」

「おやすみなさい」

 一人明らかに違っている気がするが、これがゆめという性格なのだから仕方が無い。それに今の時刻は二十一時。早寝早起きの朝型人間ならば就寝時間である。イメージ的にゆめは早寝遅起きタイプな気もするが、その真実は神のみぞ知る。いや、直接本人に聞けば分かるし、ゆめの家族なら知っているだろう――――きっと。

 英明は僕の家の近くに住んでいる。今こうして幼馴染となっている理由こそ、家が近かったからなのだ。近年“近所付き合い”というものがなくなってきており、もっと地域の家々同士で関係を活発化するべきだという意見も出てきている中、僕と英明の家は僕らが生まれた頃から仲が良かった。そうは言うも、元々親同士が知り合いだったというわけでなく、たまたま妊娠時にできた関係が、ご近所さんだったという理由で今も続いているのだ。親の仕事の都合上、英明は実質一人暮らしをしており、だから僕の家に遊びに来ることも多い。バイトをしなくていいのかと尋ねたら、彼曰く親からの送金がしっかりしているから必要無いとのことだった。

 縁は区分上、小学校の学区は違ったが、距離で言うと歩いて五分程と近い。英明という超ご近所さんが居るせいで感覚こそ狂っているものの、冷静に考えれば縁もかなり近い方だ。

 ゆめも近いと言っていたが、彼女の家の在り処を僕は知らない。歩いて行ける距離で、それがこの道の進んだ先のどこかという推測はできるが、実際のことは知らない。ゆめというのは、それくらい謎の多い女の子なのである。

 とはいえ、高校となれば県を跨いで通学する人もいるくらいであり、こうもみんな近くに住んでいるというのはとても珍しいと言えよう。一緒に目指したり地域にその高校しかなかったりするのであれば別だが、僕らはそのどちらにも当てはまらない。志望理由が単に近場であったからということは、考えないことにしておこう。

 そんなことを考えながら歩いていると自宅が見えてきた。元々みんなと分かれた交差点から家はさほど離れていない。もし何も考え事をしていなくても、一瞬で着く気がする。

 家の明かりは点いていた。我が家で二十一時と言えば、晩御飯の時間であり、丁度ご飯を食べる部屋のところが明るくなっている。僕は帰りのバスの中で夕食を済ませてきた。それを両親は知っている筈だから、今は食べるのを待っているわけでなく、いつも通り談話しながらご飯を食べているところだろう。

「ただいま~」

 あれ、返事が無い。いつものこの時間は僕も迎える側だけど、お母さんはいつだって「おかえり~」と返していた。二週間で子供の存在を忘れるわけがなかろう。では今日帰ることを忘れていたのか。いや、それも無い。廊下を歩きながら見たカレンダーには今日の日付に確と、「隼人研修最終日!」の文字が有る。一体何があったというのか。そういえば、普段食事する時はテレビを消すのが我が家のルールである筈なのに、廊下の先からテレビの音が聞こえる。もしかしたら、もう食べ終わって片付けをしているのかもしれない。皿洗いをしていて、水の音で声が掻き消されているのかも。

「何かあった――――」

 そう言いながら扉を開けると、そこには赤い世界が広がっていた。

「お母さん!?」

 右手に包丁を持った母と、首から血煙を吹きだして横たわる父。誰がどう見たって何があったか判るこの状況に、僕は足が竦んでしまった。

「いつもいつも待たせておいて帰って来たら我が物顔。家の事は何もしないでだらけているくせに私が休んでいたら働けと怒鳴り上げる。挙句には――――」

 ぶつぶつと、母が呟く声が聞こえる。僕はいまだに体を動かせないでいた。それでも無理やり動かそうとしたら、バランスを崩し転倒。その時の音で母に気付かれてしまった。

「っ!!」

 その殺意の満ちた目で睨まれた瞬間、背筋が凍った。あの温かな母は一体どこへ行ってしまったのか。近づいていないのに、威圧がどんどん迫ってくる。

 しかし、当の母は僕の予想を遥かに裏切る行為をした。一瞬は僕に敵意を向けた母だが、何があったのかその目は少し優しさを取り戻し、そして、手に持ったままの凶器を己の腹に突き刺した。

「母さん?!」

 その叫びをきっかけに、僕は拘束されていた何かから解き放たれた。たまたま研修中、戦争関連の情報で血が飛び散ることに少し耐性ができていたから失神こそしなかったが、それでも血の繋がった家族が目の前で自殺を謀れば、平常心なんてどこにも無い。

 僕はその場にいるのが怖くなって、自分の家から飛び出した。何も意識できず、ただ悪魔に追いかけられているかのような気持ちで走り続ける。警察や救急なんて頭は回らない。ただ自分の身に迫っている危機から逃れるという、本能のままの行動だった。

 息が切れ、疲れを感じて来た頃、突然足の力が抜けた。支えるものが無くなった胴体はそのまま地面に崩れ落ちる。震えながら顔をあげた先には英明の家があった。

「英明ーっ!」

 叫ぶという、僕はその行為しかできなかった。今出せる全力のまま声を出した。息切れしながら大声をあげたからか、過呼吸に似た早い呼吸になっていた。

『どうした!』

 という声とともに玄関の明かりがつき、声の主であり自分が求めた英明の姿が現れた。

 

 血の音が響く室内には、ニュースの声が流れていた。その音源の画面には、“拡大する狂人病”と表示されていた。

 

 

「どうだ?」

「少し落ち着いてきたよ。ありがと」

 英明の家の前に着いて直ぐ崩れこんだ僕は、英明の肩を借りて何とかその中へと入った。座って少しした後、早く連絡しないといけないことに気付いた僕は電話を借りて警察に通報。それと同時に英明へ何が有ったかを伝える形になった。警察に色々聞かれたせいであの光景がフラッシュバックし、また体調不良になったところを英明に助けてもらっていた。

「まあなんつーか、思い出してあれならさっさと忘れちまおうぜ!」

「そう、だね」

 気分転換にテレビでも見るかと立ち上がる英明。雨も風も聞こえない凄く静かで暗い空間は、たとえ明かりが一つ灯っていても慰めにすらならなかった。落ち着いた空間で冷静さこそ取り戻せたものの、思い出してまたおかしくなってしまう。このような状況を変えるのは、やはり“音”なのだろう。

 スイッチを押されたテレビが映したのはニュースであった。元々バライティー番組をほとんど見ない英明が某国営放送局をつけるのは当たり前のような気もするが、この時放送していた話題はあの“狂人病”であった。

「これ、マジネタなんかね?」

「…………」

 英明が呟くが、返しを何も思いつかなかった僕はぼーっとそれを見続ける。

 拡大する狂人病という題で話は進んでいた。約三日前に初めの事件が起き、今日までの間、日に日にその範囲と被害が増しているとの事。原因は未だ不明であるが、霊が憑りついたというオカルティックな意見を除けば、何らかの病気なのではないかという説が有望であり、現在その説で検証が進められているそうだ。現代医学は発達している。有る無しパズルの要領で、狂人化した人間としない人間とで何かの共通した違いがないかを調べて行けば、見つかるのは時間の問題であろう。もちろん病気が原因であればなのだけれども。

 二十一時とは言え、未だ子供が起きている時間。事件の映像が映される心配は無い。それでも目撃者へのインタビューが、恐ろしい映像を頭の中に流して来そうで怖い。僕はできるだけ無心で、でも何か重要な情報が無いかを探しながら見つめていた。

 この付近で事件が発生したのはつい数時間前かららしく、あまり家から出ない専業主婦等が狂人化する事件が多いそうだ。現在危険地域とされている円の中に、今いるこの場所も含まれていた。

「もしかして避難情報出てたのか?」

「それは無いんじゃないかな。誰が暴れ出すか判らない中、避難という形でも人を集めるのは危険だから」

 人道的か、非人道的かなんて判断は無しに、原因が解らない今は“拡げないこと”が一番重要である。結果として狂人化した人を見捨てる形になっても、日本規模で、いや、地球規模で考えた場合、より多くの人類を救える方法を考えるのが良いのであろう。全ての人間を幸せにしたいと願う人がいるが、それは不可能なことである。人が生活する中で、他人と意見がぶつかることは当たり前である。それを不幸せと思い排除しようとしても、それは相手の幸せを奪う行為になる。互いがみな思いやればいいと言われるかもしれないが、現実はそんな綺麗な世界ではない。想像の中で事を語っても、それはある仮定の上で成り立っていることで、その仮定は現実世界に当てはまらないものがほとんどなのである。

「そう言えば縁ん家ってどこだっけ?」

「突然どうしたの?」

「いや、なんか嫌な予感がしてな」

「えと、確かここらへん……」

 テレビに映し出されてる地図のある地点を指さすと同時に、あることに気付く。

「ぎりぎり危険地域の中!」

「まずいんじゃねえのかこれ」

「でも何も分からないのにいきなり押し掛けるのは……」

 その時、タイミングを計ったかのようにスマホが震える。

「縁からだ。助けてって……」

「何ぼーっとしてやがるんだよ! さっさと行くぞ!」

「でも僕らが行って何が……」

「臆病になるんじゃねえよ隼人。逆に、縁一人で何ができるって言うんだよ」

「たしかに」

 別に、犯罪組織に捕まっているところから助け出すわけじゃない。もちろん僕と同じ状況に囚われていると決まったわけでないけど、もしそうであれば事態は一刻を争う。縁の家庭がどういう状況だったかあまり知らないため断言こそできないが、もし父または母が元々荒っぽい性格であれば、狂人化した後の行動は想像するだけでも恐ろしい。たとえ縁が物理的に傷つかなくても、精神的な傷はかなり大きいだろう。研修中もそういうシーンが有ると目を反らしていた縁の事だ。正気を保っていられるかも定かではない。着いた先に何が待っていても縁は助ける。縁だけは助ける。あの母さんを見て、もし父さんが生きていたとしても、助けようとは思わなかった。それより自分の身に危害が及ぶことが怖かったからだ。みんなを助けることはできない。そんな偽善心を持っていたら自分の足を掬われるだけだ。理性でものを語らず、本能的に守りたいものだけを守ろう。

「余計なもんはおいてけ。今は時間が大事だ」

 僕らは靴だけ履いて夜の街へと飛び出した。目指すは縁の家。ただ彼女が無事であることだけを信じ走り続ける。自分に助けを求めてくれたのだから、その期待を裏切るわけにはいかない。

 僕は決心しながら、自分の足の遅さにもどかしさを感じていた。

 

 

 その家は、鍵が掛かっていなかった。

「縁っ!」

 走っている最中に来たメッセージで、縁が僕と同じ状況に陥っていることは判っていた。だから躊躇うこと無く家に入る。縁には確か弟が居た筈だ。ずっと一人だけと考えていたが、ここに来てその弟もと思うようになっていた。もちろん欲を言えば全員助けたい。何も考えず正義感のみで行動すればきっとそうなるだろう。今助けるというのはそんな正義という名の英雄を目指しているわけではなく、仲間を失いたくないという自分の欲にまみれた感情のもと動いている。少し余裕が見えて“一人の少女である縁”のことも考え始めたが、さっきまでは“仲間である縁”としか考えられていなかった。悪く言えば物のように考えて、自分さえ悲しまなければいいと思っていた。なんて利己的なことだ。もしこのまま助けに行っていたら、家族と一緒に居たいという縁の思いに対し、自分の我儘を押し付けるところだった。

「開けるぞ」

「うん」

 縁の家は数回来たことが有る。家の間取り全てを知っているわけではないが、普段どの部屋で暮らしているかくらいは知っている。今は夜で、その部屋しか明かりが点いていなければなおさらだ。まるでと言うかまさに不法侵入なのだが、ばれないよう忍び歩きで部屋へと近づく。残念ながらその部屋の扉はガラスなど中の様子が分かる装飾が施されていなかった。仕方なく扉を少し開き、生まれた隙間から中の様子をうかがう。身長が低めな男の子――――縁の弟だと思われる少年が、縁を背にかばって何かと対峙していた。

「今なら二人とも助けられるかもな。俺はとりあえず化け物の相手するから、お前は二人を逃がしてやれ」

「でもそれじゃあ!」

「言わんとすることは解るが、俺はお前より体力有るからな」

「……分かったよ」

 つい言い返そうとしてしまったが、この作戦はとても理に適っている。狂人化した人間を見たことが有る僕としては、あれを前に逃げ切るのは不可能だと言い切れる。それは普段はおとなしく温和な母さんがあそこまで強くなる狂人ならぬ強靭化もそうだが、何よりあの威圧を前にしては力が入らない。勇気が無いからという感情論で片付けることもできなくはないが、あの恐怖は本能で感じ、逃げたいのに逃げることができないとても恐ろしい感覚に囚われる。縁の前に立つあの少年は相当な勇気の持ち主だろうが、その足は震え、立ったは良いがもう動くことができないのであろう。

「じゃ、同時に入るからな」

「ゃっ!」

 突撃しようと扉から顔を離した直後、中から小さな悲鳴が聞こえた。僕らは顔を見合わせ、そのまま中に突撃する。

「っ……」

 目の前に少年が、背から刃物を見せながら立っていた。少年の直ぐ傍にいたのは狂人化した縁たちの父親だと思われる男であった。

「てめぇ!」

 突然の突撃に驚かされたのか、少年を刺した男は刃物を手放しこちらを向いている。その隙に英明は突進し、勢いそのまま体当たり。さすがに狂人化した大人相手に並みの子供が敵う筈もなく、男は体勢を崩しただけ。その隙に、細めの体のどこから出てきたか判らない力を込めた英明の右足が男を襲う。ただでさえ不安定だった男はそのまま横転。その時、男の質量ゆえか何かが折れるような音がした。

 それを見た僕は少し油断したのか、縁に目を合わせるとまずは少年を助けに向かった。

「ダメっ!」

 しかし、縁はそれを否定した。

「縁の弟だよね? このまま放っておいたら……」

 急にかけられた静止の声に戸惑いながら縁を見る。当の縁と言えば、わなわなと体を震わせ、両手は何かを耐えるように強く握り、今にも泣き出しそうな形相をしていた。

「さっきテレビで言ってたの。狂人病は、やっぱり病気だったんだって。それで、血液感染するらしいの……」

 少年は刺された時に気を失ったらしく、現在は床に倒れている。大動脈に近い肩を貫かれ、血がどくどく溢れている。今すぐ止血処理をすればまだ助けられるかもしれない。でも縁にそう言われ、僕も英明も動くことができなかった。

「普通血液感染って言うと、傷口でもなければ、たとえ感染した血に触れてもうつらないじゃない? でもこの狂人病は、傷口なんてなくても、直接血に触れたら感染するらしいのよ」

 つまり、今僕らに少年を助ける方法は無いと。そう言うことなのだろう。だから、本来であれば一番に駆け寄ってもいい縁が、ずっと少年から距離を取っているのだ。

「でも未だ詳しいことは分かっていないからそれ以上のことは不明。だから、今は致死率100%の病と言われているわ」

 危険を冒してまで、助かるか判らない命を救うのではなく、今有る確かな命を繋いでほしいと言っているのであろう。まだ生きている少年を、悔いにまみれながらも既に諦めているのだろう。僕は兄弟という関係を知らないから分からないけど、ずっと一緒に過ごしてきた英明がこの少年であると考えたら、もうそれだけで自分を保っていられない気がする。

「助けに来てくれた、んだよね? まずは家を出ましょ。ここに居たくないの」

 そう言って立ち上がった縁は、しゃがみこんだ僕の肩に手を置いた。

「嘆いたって変わらないもの。私たちはまだ生きているんだから、あの子の分も……生きて……あげ…………な……いと…………」

 縁の口調がいつもと違う。それだけでも、どれだけ耐えているかが伝わってきた。助かったという安堵が、気を引き締めていた紐を解いたのだろう。そして、目の前で起こった恐怖、家族を失った悲しみ、自分だけ助かったという罪悪感、何もできなかった後悔、様々な感情が混ざりあった涙が、フローリングの床に染みを残す。

 そんな縁が居るのに、自分はただ、彼女の腕の支えにしかなれなかった。

 悲しみとともに、やるせなさを感じた。

 

 

 みんなが落ち着いた後、しかるべきところに連絡をして外へ出た。もちろん行く当てが有っての行動ではないが、ここに居続けたくないという気持ちは同じだったようだ。

「今日はもう遅いし、俺ん家来るか?」

 無言で頷く。縁も無表情で頷くが、それは感情を必死に抑えているから、ということは想像に難くない。男子だからかもしれないが、たった二週間の研修でも、その間は親のことをすっかり忘れていた。だからとは言えないが、おかげで悲しさはあまり表面上には出てこない。意識せず隠しているのかもしれないが、この状況でそれを確認する必要は無いだろう。

 駆けてきた時は一瞬だった道のりがとても長く感じる。両脇に街灯の灯るこの道が、永遠と続いているように錯覚する。まっすぐ伸びる夜道。音は僕達の足音だけ。住宅地ということもあって、道沿いに立ち並ぶ家々はそれぞれの色を光らせていた。それなのに、生活感を感じない。温かみが無い。精巧な張りぼてなのではと、幻覚による虚像なのではないかと。僕には、ただ冷たい映像としか思えなかった。

 縁の家を出てからと言うもの、誰一人として声を発しなかった。たまに聞こえる縁が鼻をすする音だけが、決して聴力を失ったわけではないと教えてくれる。慣性を保っているだけでもう自ら進もうとする意志の無い脚の力は、一度でも止まったらもう動かせないのではないかと思うほど儚いものだった。

 帰る場所が無い。何をして良いか判らない。それでも途方に暮れしゃがみ込むことすら許されない現状に、僕は自分が分からなくなっていた。高度なVR作品を体験しているのではないかと現実逃避をも始める。しかし記憶に今の僕以外のものは無い。それは背理法的に今生きていることは実際に起きていることなのだと証明する事実であった。

 光の無い現実から逃れられないと悟り、いよいよ“自分”が壊れそうになった時、少し服が引っ張られた。何も思わず振り向くと、あっ、と言いたげな顔をした縁と、その手が僕の服の裾に伸びている様子が目に入る。英明はただ黙々と先を歩くばかりで僕らに気付く様子はない。何にも邪魔されず見つめ合うこと数秒。状況を思い出した僕は気不味くなって、仕方なく、その手を握ることにした。もう顔を見ることはできないけれど、手に確かな温かさを感じながら歩いて行く。

 縁が居るじゃないか。この理不尽な出来事は現実だけれど、縁や英明もまた現実なんだ。助けられ、頼られているんだ。勝手に弱気になるなんて、僕はそんな人じゃない。目的を失っても僕は人間だ。自分が自分で在ろうとするための意思ならいくらでも有る。我が儘かもしれないけれど、僕は仲間を、縁を守りたい。それで良いじゃないか。

 まだまだ明ける気配の無いこの夜に、初めて星が見えた気がした。

 

 

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 ○新事実! ―狂人病の標的は―

 

無作為と思われた殺人だが、実はそうではないことが分かった。

狂人病はその名の通り、血液感染するウイルス性の病気であると発表された。

感染者の憎悪や反感と言った他人を憎む気持ちを増大化させ、理性を破壊。

不の感情がそのまま体に現れる状態で、感染者に行動させる。

第一の被害者は離婚後かつ職を失たばかりで、精神状態において非常に不安定であった。

目撃者によると、当時被害者は軽蔑の対象であり、口の軽い若者が多く居たお昼時の事件であったそうだ。またその元妻も感染しており、既に他界している。

なお、厭世の気持ちが強いほど狂人病は感染しやすいらしい。

この事について、元幸福研究所所長であり、我が社の寺内氏に~~

 

(※週刊ミステリー八月第二週号抜粋)

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